第1章 1
完璧なんて言葉は言葉だけのものでしかないし、善と悪を計るものさしなんて存在しない。だからって、必要なのは流されて生きていくことじゃない。しっかりと立ち上がるだけの意志……何ものにも汚されない強い意志がたった1つでもあるなら、人は生きていけるんだ。
- ヴェロニカ -
「……それで?」
サーシャお姉ちゃんが部屋のカーテンを閉めながら続きを促す。私は頷いて、魔術師サマとクリフお兄ちゃんに視線を向けた。さっきからサーシャお姉ちゃんは椅子にも座らず、窓際でクロノスを片手に私の話を聞いてる。
「断言はできないんだけど、お母さん曰く予言書の可能性は高いって」
「それって、終焉の章……だよね?な、なんでそんなところに……」
クリフお兄ちゃんはベッドに座りながら、困ったように地図を広げていた。その視線は北西にある真っ白な地帯に向けられている。ネオ・オリよりもっと先、アルジェンナ砂漠の向こう。そこはまるで誰も足を踏み入れたことのない異界のように、何も書かれてはいなかった。
だってそこは、もう捨てられた場所だから。
「……『終焉』って名前にゃピッタリじゃねぇか」
椅子に座ってテーブルの上に足を投げ出してる魔術師サマ。煙草を加えた口から煙を吐き出して、サーシャお姉ちゃんに視線を向ける。クリフお兄ちゃんも同じように顔をあげた。
じっと窓の外を見つめていたサーシャお姉ちゃんは、クロノスを仕舞うと大きく息を吐いた。きっと、二人が何を待っているのかわかっているんだと思う。振り向いたお姉ちゃんは、クリフさんから地図を受け取るとテーブルの上にそれを広げた。
「アルジェンナの北西、トゥアス帝国跡ですか……」
指先が海を越え、ネオ・オリから砂漠を渡る。現在私たちがいる、砂漠の南西からまっすぐに上へ。真っ白な区域は砂漠と同じくらいに広い。それでも、サーシャお姉ちゃんに迷いはなかった。
トゥアス。今はもう誰も近づかない、かつて栄華を誇った大帝国。旅人たちの話によれば、かつてひしめき合うようにして立ち並んでいた住居区も砂と化し、今はアルジェンナと一体化しつつある。辛うじて分かるのは、国境に作られたゲートと、帝国の城跡。
サーシャお姉ちゃんはしばらく地図を見つめ、そして顔をあげた。
「……セルマの情報を信じましょう」
「!」
私はちょっとだけ吃驚した。過去の予言書の行方を調べるのは、裏社会でも名の通ったお母さんでもちょっと難しい仕事。だから、今回だけは予言書があると断定できない。勿論、この話をする前に前置きもしたけど……。
同じことを思ったのか、魔術師サマも煙草を口から話してサーシャお姉ちゃんを見上げる。
「……いいのか?あくまでも可能性、だろ?」
「ええ」
サーシャお姉ちゃんの目ははっきりとしていた。つい数週間前に機械人形の襲撃を受けて大怪我をしたなんて、信じられないくらいしっかりした瞳で。
「今回は争奪戦ではありません。……目的は、あちらへの接触。考えられる可能性は一つ一つ潰していきましょう。それに」
トゥアス帝国の跡を、サーシャお姉ちゃんはきっと覚えていない。自分が眠っていた、過去の遺物の都。空白の地図が、無言のまま語りかけてくるようだった。
「終わりにするには、これ以上ない舞台だと思いませんか?」
☆
ひっそりと静まり返った夜の空。私はメンテナンス室のバルコニーから空を見上げて、一人静かにコーヒーを飲んでいた。三日三晩かかったシルヴィの応急処置は、昨日の昼にやっと終わったばかり。まともな睡眠を三日ぶりに享受して、一息ついたらもうこんな時間。
振り返って部屋の中を見ると、暗くなった室内に横たわる少女の姿。胎児のように体を丸くして、眠りではないプログラム上のスリープ状態にいる。
「本当に……クタクタだわ」
私はため息をついた。壊れてしまったシルヴィを初期状態まで回復させることはもはや不可能だった。作った私にも分からないエラーや、プログラムの異常、何よりも記憶装置の破損が酷過ぎた。ジェイロード達と別れた後のことは全く調べられない状態で、ここに戻ってきたことも奇跡と言えるかもしれない。
現在の機能は、もう殆ど他の旧式と同じレベルまで落ちていた。それでも戦闘能力の高さは変わらない。一つだけ心残りなのは、シルヴィとしての自己認識が低下してしまっていること。だから……あの笑顔は、もう二度と見れない。
私は苦みのあるコーヒーを口に含んだ。空は闇の色に染まっていって、冷たい風が吹いてくる。もう寝てしまおうか。けれど……。
ふとそんなことを考えていたとき、メンテナンス室の扉を叩く音がした。バルコニーから顔だけだして応えると、扉が開く。
「……ジェイロード」
思いがけない訪問に、私は少しだけ驚いていた。ジェイロードはメンテナンス室に入ると、シルヴィの様子を確認して、バルコニーへと近づいてくる。私は手すりに背を預けたまま、静かに呟いた。
「……てっきり、私が眠るのを待ってるのかと思ってたんだけど」
いつも彼らは出かけていく挨拶もせず、急にいなくなる。シルヴィのメンテナンスが終わると、いつもそうだ。私が寝ている間、出かけている間、ちょっと目を離した隙に……いつの間にか3人とも姿を消している。時折アイルークが口を滑らせるときもあるけれど、大抵そう。
だから……今眠って、朝起きたら、また彼らはいなくなるんだろうと思ってた。
「珍しく挨拶でもしにきたの?」
ちょっと皮肉って言ってやると、ジェイロードは表情を変わることなく頷いた。
「ああ」
「どうゆう風の吹き回し?」
端正な顔に向かって、私は更に一言加えてやった。するとジェイロードは珍しく眉根を寄せる。
「……この間から機嫌が悪いな」
機嫌が悪い?悪いに決まってるじゃない。私はずっとそうだったわ。
「貴方には分からないでしょうね」
「何のことだ?」
「っ、……1人取り残される人の気持ちよ!」
いつも、誰もいなくなったラボを見て、ぽつんと取り残された気分になる。工房の仲間は他にもいるけれど、何故か独りぼっちになってしまったような、そんな錯覚を覚える。
きっと人は、望めばいくつもの宿り木を手に入れることが出来る。でも一度出来てしまった居場所は、それがどんなものであれ、たったの一つでも失いたくないと思ってしまう。最初は数えるほどしかなかったはずの場所なのに。
ふと、ジェイロードが私の隣に来て、空を見上げた。星が浮かぶ、綺麗な夜空。月が静かに世界を照らす。
「……星がよく見えるな」
このメンテナンス室のバルコニーからは、向かいの建物が邪魔にならずに空を見渡すことが出来る。ジェイロードは静かに指先で何かを指差した。
「何……?」
私は目尻に溜まった涙を拭いて、唇を尖らせた。また話をそらすのかと、ため息をつく。それでもジェイロードは気にしなかった。
「あの星の並びを、別名『エト』と呼ぶ。……分かるか?」
ジェイロードの指の先には、少しいびつだけど丸く並んだ星が見えた。
「エトって……あのエト?」
時計師の業界用語だけれど、エトっていうのは時計の文字盤のことを指す。時計師の家系に生まれて生きてきたけど、そんな星の名前なんて初めて聞いたわ。
ジェイロード曰く、丸く並んだ星は時計の数字……インデックスを表しているらしい。確かにそう言われてみると、それっぽく見えてくる。数字を表すには数が中途半端だけど。
「それに関する逸話もある。……昔、アナスタシアと呼ばれる女がいた。彼女は父親によって盗みの濡れ衣を着せられ、死刑に処されることになった。アナスタシアは牢屋に入れられた星の刻から、死刑が行われる翌日の月の刻まで、1時間ごとに詩を歌った」
トゥアス帝国の時期よりもっと昔に、時間は二十四刻と呼ばれ、初(1時)、影(2時)、涼(3時)、碧(4時)、白(5時)、覚(6時)、光(7時)、動(8時)、花(9時)、暖(10時)、風(11時)、中(12時)、葉(13時)、針(14時)、鳴(15時)、燐(16時)、夕(17時)、沈(18時)、月(19時)、星(20時)、帝(21時)、亞(22時)、睡(23時)、深(24時)と呼ばれている。
「彼女の詩はどれも素晴らしかったが、その中でも月の刻……死刑の間際に歌われた詩は神々にも届いた。刑に処された彼女の命を哀れんだ神々は、彼女に神としての座を与え、敬虔なアナスタシアを月神とした」
「……それで、あの星が二十四刻のエトなの?」
私は冷えてきたコーヒーを飲みながら、そう呟いた。ジェイロードは上を見つめたまま言う。
「……数百年に一度の確率で、月があの星の中央にくることがある。月が三日月の形をとるとき、端は彼女の死んだ月の刻を指し、もう片方の端は始まりの初の刻を指す。終わりと始まりを意味する文字盤が出来ることで、『エト』は完成する」
「途方もない先の話じゃない」
少なくとも、月があの中央にくるなんて、明日明後日の話じゃないような気がする。私がお婆ちゃんになったって見れそうにないわ。
私の言葉に、微かにジェイロードが笑った。
「……そうだな」
本当はちょっと口元が緩んだだけなのかもしれないけど。でも、見間違いじゃない。
「……それでも、それを本当に見ようと言った人がいた」
私は何も言わなかった。多分、口を挟んだら、ジェイロードは言うのをやめてしまうかもしれない。だから私はただ静かに、その言葉を聞いていた。いや、本当は一瞬の笑顔に見とれていたのかもしれない。ちょっとだけ幼い感じに笑ったその表情に。
「本当に見れるとは思っていなかったが……その表情は何よりも印象的だった」
そこまで話して、ジェイロードがこちらに視線を向けた。私は少しだけ赤くなった顔を隠すように視線を逸らして、そしてコーヒーを口にした。
月明かりがバルコニーを照らし出す。ジェイロードの腰にはリボルバーが下がっていた。
「……この間の答え合わせをしても良いか?」
この間の……。思い出して、私はきょとんとする。もしかして、ジェイロードなりに考えたんだろうか。私の言葉なんて聞く気ないと思ってたのに。
何か言わないと、先に答えを口にしてしまいそうで、私は大きくため息をついた。
「今度帰ってきた時でいいわ。……さっさと行ってらっしゃい、アイルークも待ってるんでしょ」
「……そうだな」
ジェイロードはこちらに背を向けて歩き出す。シルヴィを起こして、部屋から出て行くのを静かに見つめていた。奥でアイルークの声が聞こえていく。三人分の足音が徐々に遠ざかっていく。ぽつん、とバルコニーに立ちながら、私は一人。結局、また一人。
でも、孤独感を抱くことはない。私は静かに空を見上げる。未完成のエトが、静かに夜の星空に浮かんでいた。