第2章 4
今宵は本当に月の美しい夜だね。美貌と狂気を併せ持つ女神フィオレンティーナも、かのトゥアス帝国の華と呼ばれたカタリナ嬢も、この白銀の輝きを放つ月の前にはしおれて見えるだろう。もっとも、その美しい月に照らされたキミはこの枯れた世に咲く、一輪のリリィ。……どう?月夜に咲くリリィの香りに誘われたこの道化と一夜限りの戯れを……
- 公国の闇市場 -
ふとサーシャが歩みを止めたのは、セルマの家を出てしばらくしてからのことだった。家を出た時、まだ東の端にあった太陽が、今は真上まで昇っている。空を見上げると、思いがけず近くに雲がたなびいているように見えて、俺は口を開いた。
「……何処まで昇るんだ?」
俺の声に反応したのか、それともそこが行き止まりだったせいか、とりあえずサーシャは足を止め、眼下に広がる風景を見渡した。ゼェゼェ息を切らせながらついてきたクリフが、剣を杖代わりにへたりこむ。
サーシャが足を止めた場所は崖だった。下には鬱蒼とした森が広がり、その先には平野が続いている。あの世界地図によれば、森と平野の境がグロックワースとエレンシアの国境にあたる。平野の辺りにはチラ、と黒い点が動いているのが見えた。おそらくエレンシアの警備兵だろう。
そしてその向こうには街が横に広がっているのが見えた。
「……どうすんだ?いっとくが、俺は姿を消すような魔法は使わないからな」
「それは『使えるのに使わない』んですか?それとも『最初から使えない』んですか?」
鼻で笑うサーシャに俺は怒鳴りかけた。しかしぐっと怒りを飲み込む。下手に挑発されて魔法を使うことになったら困る。だが勘違いされると困る。俺は『使えるのに使わない』のだ。
サーシャは目を細めて平野に視線を向けた。そして後ろで息を整えているクリフを振り返る。
「……先ほどの道を左に曲がりましょう。ここからエレンシアの街の近くに出る抜け道があります」
「ぬ、抜け道……ですか?」
脇を通り過ぎて歩き出すサーシャに、クリフが声をかけた。サーシャは顔だけこちらに向けると、ニッコリと微笑んで頷く。俺はとたんに嫌な予感に襲われた。この女がこうやって笑うときは、いつもろくでもないことになる。
サーシャは視線をもと来た道に戻すと、はっきりとした声で言った。
「地下洞窟です。……そこを通れば、今日の夜にはエレンシアに着きます」
しばらくして俺たちの前に現れたのは、まるで木の枝の陰に隠れるようにして掘られた小さな穴だった。さっきの崖の下の方、一番背の高い俺が頭から入るのもギリギリの小さな穴だ。サーシャは木の葉やクモの巣を避けると、小さな洞窟の中を覗き込んだ。
「さ、サーシャさん……あの、いくらなんでもこの大きさは……」
不安げな声を上げるクリフに、サーシャは穴の中を覗き込んだまま言う。
「大丈夫です。入り口は狭いですが、中に入ればフレイさんでも立って歩けるくらいの広さですから」
そんなことを言われても、馬車の車輪ほどしかない穴の向こうにそんな空間があると誰が想像出来る。サーシャは俺とクリフの顔を交互に見るとクリフに視線を止めて、先にどうぞというポーズをとった。
「えっ、えっ、僕ですか!?」
「はい、レディーファーストは要りませんので、お先にどうぞ」
ニッコリと笑うサーシャ。これは悪魔の笑顔だ。助け舟を求めるクリフの視線を受け流し、俺は気づいていないフリをした。
サーシャに急かされ、クリフは半分涙ぐみながら穴の中に片足を突っ込む。俺もクリフもすぐに足が地面につくものと思っていたが、予想外に穴は深いようだった。剣を持って降りようとしていたクリフは、一度それをサーシャに預ける。
「あ、ちょっとお願いします……よい、しょっと」
クリフは地面に手をつくと、足から腰、腰から肩と徐々に穴の中に潜っていく。転がり落ちたりするんじゃないかと淡い期待をしていたが、つまらないことにクリフは冷静に穴の中に降りたようだった。中でクリフの声が反響している。
「あ、けっこう広いですよ!空気も悪くないし……」
クリフの声を聞きながら、サーシャが顎で俺に指示を出す。さっさと入れということらしい。クリフは何やら感動したように声を反響させている。
「天井も、フレイさんぐらいなら大丈夫だと思いま……あいたっ!」
俺は洞窟に降りるフリをして、クリフの頭を蹴ってやった。フレイさんぐらいって何だ、ぐらいって。
「足場にいるなっつの。邪魔だ、邪魔!」
適当にそう言って胸の辺りまで潜ると、思った以上に足場が遠かった。俺は頭をぶつけないように穴に潜る。次いでサーシャも中に降りてきた。
サーシャはセルマのところで、俺の金で買ったランプを取り出した。器用に灯りをつけると、辺りの様子が浮かび上がってくる。
「……うわぁ……」
そう声を上げたのはクリフだった。俺たちの足下は滑らかな岩盤になっており、奥には水が溜まっている。いや、実際はゆっくりと流れているのかもしれない。
近づいて覗き込むクリフに、サーシャが言った。
「ここは地下水脈になっています。平野の下に網の目状に広がっているので、エレンシアまで辿り着く人間は殆どいません」
「お前……そこを行くのか?」
俺の抗議の声に、サーシャは憮然として頷いた。
「道は覚えています。実際に私はここを何度も行き来していますから」
行きましょう、とサーシャはクリフに声をかけて歩き出した。まるで何かで磨いたように滑らかな岩盤に手をつきながら、俺たちはサーシャを先頭にして歩き始める。二番目にクリフ、三番目に俺……。って、なんで魔術師の俺がしんがりなんだよ。
天井から滴り落ちる水滴がピチャン、ピチャンと音を立てた。なんとなく俺たちは無言になって道を進む。道はいくつも分岐していたが、サーシャは迷うことなくその中の一つに向かって歩き出した。
「……」
不思議なものだった。サーシャの足に迷いは全く見られない。だから俺たちもサーシャの案内に疑いは持たなかったし、サーシャも何も言わずに黙々と進んでいくことが出来た。
水滴の音、そして何処からか入ってくる風の鳴き声。足下に流れる地下水の中では小さな魚が泳いでいる。この水流を辿っていけば大きな川に出るのかもしれない。
「……おい、サーシャ」
ふと俺は足下から視線をあげた。サーシャは視線を前に向けたまま答える。
「何ですか?」
「……お前、どんくらい前から旅してんだ?」
きっかけも何もかもを端折って、俺は単刀直入にそう聞いた。クリフや俺はともかく、この女は全てが謎だ。あの世界地図、そしてリボルバー、あのセルマとかいう軍人崩れの武器商人。護衛業では依頼人の素性をとやかく言わないのが決まりだが、今回は事情が事情だ。クリフもまた興味を持ったようにサーシャに視線を向ける。
サーシャはしばらく無言で歩いていたが、後ろから刺さる視線に鬱陶しさを感じたのか、大きくため息をついて、ランプを更に高く掲げた。
「……どれくらい、と言われると私も答えづらいのですが……そうですね、フレイさんよりは長いと思います」
当てつけかよ、とつい口を滑らしそうになったが、サーシャの言葉には続きがあった。
「フレイさんやクリフさんは魔法や剣術を誰かに習ったんでしょう?……私は戦いに関する知識は全て、実践で覚えました。そう言えば、どれくらいの年月かは分かるはずです」
ゆらゆらと揺れるランプの光が、岩盤に反射して淡い色に浮かびあがった。俺とサーシャの間にいたクリフがふと首を傾げる。
「……あれ、でもそれじゃあ、随分小さい頃になりますよね?」
「……」
クリフの言葉にサーシャは答えなかった。何も言わず、サーシャは段になった岩場を飛び降りる。振り返ると、無言のままクリフに手を貸す。クリフは片手に剣を持って岩場を降りた。隣では地下水が小さな滝のようになって流れている。
俺もまた下へと飛び降り、先を歩くサーシャに視線を向けた。その背中はそれ以上のことを何も語らず、そしてまた、何も答えようとはしなかった。
☆
「……着きました」
どれくらい歩いていただろう。先頭を歩くサーシャが、暗闇の中に一つの光が浮かぶ上がっているのに気づいて指を差した。その先には橙色に染まった光がぽっかりと浮かんでいる。どうやら入ってきた時のように苦労をする必要はないらしい。その出口は三人が並んでも余りあるほどの広さがあった。
サーシャは足下が見えてくると、慣れた手つきでランプの火を吹き消した。そして靴の泥を払い落とすと、改めて出口の先に視線を向ける。
出口はやはり川へと繋がっており、その先には平野とエレンシアの街が見えた。どうやらここは平野の中にある小さな丘で、警備兵が見張っているところからは死角にあたるのだろう。
夕焼けに染まる平野とエレンシアの街並みは昔、ジジイの家で見た、写真の色あせたものに似ていた。この一瞬を切り取れば、きっとあのような形になるんだろう。原理は今じゃ全く分からないが、そんな粋なことを考える人間が、ずっと昔にいたということだ。
風が後ろから平野へと吹き抜けたかと思うと、今度は逆に流れ始める。サーシャは髪をおさえながら言った。
「……エレンシアが別名『榛の街』と呼ばれるのはこの風景ゆえですね」
ひたすら感動しているクリフの隣で、俺は川の先に視線を向けた。向こうに一本だけ天を見上げた木が立っている。どうやら川沿いに道があるのだろう。木の下には古びた看板が立っていた。
サーシャはランプを荷物の中に戻すと、河原を上り、道の上へと出た。
「行きましょう。……もうすぐ夜になります」
俺はいつまでも風景に見惚れているクリフの頭を軽く殴って、サーシャの後ろ姿を追って歩き出した。
☆
太陽が平野の西に消えるのを確認して、俺たちは街に入ることになった。エレンシアは敷地の周りに警備兵を置いているせいか、街に入る際に旅標の確認をとる必要はなかった。以前は一つ一つを確認していたと思われる詰め所も、今では人気がなくなっている。
街はグロックワースほど大きくはなく、こじんまりとしていた。大通りの周りに申し訳程度に飲食店が立ち並んでいるが、それ以上のものは何もない。エレンシアは旅人にとっては一度は行ってみたい街だと聞いていた俺とクリフは、街の様子に少々落胆してしまった。
サーシャは俺たちの落胆を完全に無視したまま、大通りを途中から奥へと曲がった。奥に入ると、今にも崩れそうな家が軒を連ねている。
「……まずは宿をとりましょうか。田舎の方から出てきたといえば、旅人だと悟られることもないでしょう」
「でも、これって本当に大丈夫なんですか……?もし旅人だって分かったら、僕たちどうなるんでしょう……」
クリフは半分屋根に穴の空いた廃墟を覗き込みながら、そう呟いた。俺は呆れたように、クリフに視線を向ける。
「警備の目をくぐって国境を越えたんだ、そりゃあ捕まればエレンシアの大監獄『淵霊嶺』行きだろ」
「え、えんれいりょ……むぐっ!」
「ば、バカっ!デカイ声を出すなっ」
素っ頓狂な声を出したクリフに、俺は慌ててその口を抑えた。こんな裏路地で、もし誰かに聞かれるとマズい。エレンシアの『淵霊嶺』という場所は、つまりはそうゆう所だった。エレンシアは法律に厳しい。法に逆らったり、滅多なことをすればすぐに『淵霊嶺』行きとなる。そしてそこは、帰って来た罪人が一人もいないという、大監獄。
少し前を歩くサーシャはふと足を止めて俺たちを振り返った。
「……『淵霊嶺』ですか。たしかにあまり行きたくはない場所ですね」
普通の監獄ならば、食事が貧しい、労働が辛いなどの噂が流れるものだが、『淵霊嶺』はそういった噂が一つもない。たった一言いえるのは、あの監獄に入るくらいなら死んだ方がマシだということだ。
ふ、とサーシャが何かに気づいて俺たちに目配せをした。夕日が沈み始め、裏路地は所々から漏れる家の薄明かりによってかろうじて足下が見えるくらいだった。首を傾げるクリフに、俺はもう一度口を抑える。
しばらくすると俺の耳にもその音が聞こえてきた。足音だ。俺は弾かれたようにサーシャを見つめ返すが、サーシャの瞳は路地の先に向けられていた。
「……」
まさかこんなところにまで機械人形がいると思えないが、サーシャはゆっくりと左手を腰にまわした。瞬時にリボルバーを構えることが出来る体勢だ。俺はじっと路地に視線を移す。クリフが呼吸困難でギブアップを求めているが、俺の意識はもう路地の先にあった。
俺たちが完全に立ち止まったとき、スッと薄明かりの中にその姿が見えた。ボロ布を頭から被った男だ。身長は高く、体つきはしっかりしている。そいつは何か長い棒のようなものを布に包み、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
チラ、と視線がサーシャへ向けられる。サーシャは見ていないように視線を逸らしたが、男が俺とクリフの隣を通り過ぎたとき、何かを思い出したように振り返った。
「!」
その表情は、俺たちが今まで見たことのない表情だった。最初に浮かんだのは驚き、そしてそれは困惑に変わった。
「……なんだ?」
俺の声が聞こえているのかいないのか、サーシャは男の姿が路地を曲がったのに気づくと俺に宿代の金を渡し、一言だけこう言った。
「……宿はこの道を真っすぐ行った左側にあります。先に行っていてください」
「おい、ちょっ……!」
俺はわけも分からず呼吸困難だったクリフを離して、押し付けられた金を受け取った。サーシャは俺の制止も聞かず、男の後を追うように駈けていく。
残された俺たちの影が、困惑したように裏路地の壁に張り付いていた。
☆
私は走りながら、後ろから聞こえる制止の声を振りきった。さきほど擦れ違った男の瞳を、私ははっきりと見てしまったのだ。ボロボロになった布の間から私を見下ろすあの緑がかった瞳。それを私はよく覚えている。
男の影を追って路地を曲がると、辺りは暗闇だった。向こうに大通りの灯りが見える。行き交う人々の姿に私は顔を顰めた。あの中に紛れ込まれては、いくらあの長身とはいえ探しづらい。
壁際に積んである空の酒樽を避けながら、私は大通りへと飛び出した。思わぬ攻撃のために、左手はリボルバーにかけてある。もっとも、これを抜いた時点で騒ぎが起ることは確実で、本当の緊急事態にならないかぎり、これを抜く気はない。
雑踏の中に出てくると、男の姿を完全に見失ってしまっていた。私は苛立って、バレルを指先で弾いた。おそらくあっちも気づいているだろう。はっきりと顔を見られたのは不覚だった。
私は足を止め、辺りを見回す。
(……そうなると彼以外の人間がいる可能性もありますね……)
厄介なことになりそうだとため息をついて、私は再び路地裏へと戻ろうとした。私が指定した宿はマナーもサービスも最悪で、その代わり客の入りは少なく、店員の頭も弱い。警備の目を潜ってエレンシアに忍び込んだ私たちにはぴったりの宿だ。
戻ろう、と足を路地裏に向けたとき、向こうから歩いてきた人の体がぶつかった。混み合う夜の大通りではよくあることだ。しかし不覚にもこのとき片足を踏み出していた私は、相手とぶつかった衝撃でバランスを崩しかけてしまった。
「ああ、すいません……急いでいたもので。お怪我は?」
柔和な笑顔を浮かべて、ぶつかってきた男は私の顔を覗き込んだ。まるで貼付けたような笑みだ。身長はさきほどの男ほどではないが、歳は私と同じくらいだろう。中肉中背、茶色の髪に優男風の笑顔を浮かべて、男は微笑んだ。
ふと、私は違和感を覚える。寒気、嫌な予感、とりあえずそんな感覚だ。そしてそうゆう感覚は、大体相手に下心があることを示している。女の勘としか言いようがないが。
「……いえ、大丈夫です」
「本当に済まない……今日はよく晴れたから、つい空を見上げてしまっていたんだ」
男の視線を追って空を見上げると、確かに群青色の闇の中に透き通った月が浮かんでいた。今日はどうやら満月らしい。野宿をしていればこうやって空を見上げる暇もあるが、街にいると建物や人の姿に目を囚われて、あまり空を見上げる機会も少ない。
男は優男の笑みで笑いかけた。飄々とした笑顔で軽く顔を傾ける。それだけで十分だということを、彼はよく分かっていた。そして私も、それで大体の事情は察した。やはりナンパだ。
男は謳うように言う。一昔前に舞台か何かで流行った物語の台詞のように。
「……今宵は本当に月の美しい夜だ。美貌と狂気を併せ持つ女神フィオレンティーナも、かのトゥアス帝国の華と呼ばれたカタリナ嬢も、この白銀の輝きを放つ月の前にはしおれて見えるだろう」
もっとも、と男は言葉を切った。横流しの目線で、歩み寄ってきた相手に思わせぶりな視線を送る。
「その美しい月に照らされたキミはこの枯れた世に咲く、一輪のリリィ……。……どう?月夜に咲くリリィの香りに誘われたこの道化と一夜限りの戯れを……」
私は差し出された右手に自分の手を重ねた。男の笑みが、少々意味の違う微笑へと変わる。私はそれを観察しながら、ニッコリと微笑み返して言った。
「……急いでいたのでは?」
ロウソクの火が風に揺れるように、男の笑みが揺らぐのを、私は微笑みながら眺めていた。




