第3章 1
どうするべきかなんて、最初から分かっているのかもしれない。逃げて、逃げて、逃げて……前に進もうと決めても、その足は動かなかった。ただ、目の前に突きつけられた真実を肯定すればいい。それだけのこと。
でも、肯定してしまえば……何かが音をたてて崩れていってしまう。そう、僕は思った。
- 避けられない事実 -
また時は過ぎて、やがてまた新しい朝を迎える。サナトリウムの庭を掃除しながら、僕は麻薬畑の方向から昇る太陽を見つめていた。冷たい風が頬を撫でていく。今日もまた、早くに目が覚めてしまった。寝不足なのか風が目にしみる。
僕は深く溜め息をついて箒を動かした。木の葉が風に舞って、一度掃いた場所に広がる。それをもう一度かき集めては、風に遊ばれて……単調な作業を繰り返していると、考え事も頭から離れていく。
「……おはよう、クリフ」
ふと後ろから聞こえた声に、僕は驚いた。掃除に没頭していたところだったから、誰かの気配に気付かなかった。振り返ると、レンナートさんが苦笑している。その手には一輪の花があった。
「驚かせたな。また掃除をしてるのか?」
「あ、はい。……レンナートさん、早いですね」
掃除に気を取られていたとはいえ、まだ日が出始めたばかりだ。レンナートさんは欠伸1つして、目を擦ってみせた。
「ああ。……というより、寝ていないんだ」
「え?夜に何かあったんですか?」
また患者が運び込まれたんだろうか。メーリング家の支配が崩れつつある今、奴隷の患者は以前より少なくなっているけれど……それでも病気や怪我を負う人は世の中にいっぱいいる。だからこの病院に休みはない。
レンナートさんは困ったように笑った。
「街の子で、何年か前に流行病で治療した女の子がいるんだ。……その子が昨日の夜に体調を崩したとかで、家まで診にいってきた」
ガセトさんもレンナートさんも、時々こうやって街の人のところへ出向いて診察したり、治療したりしている。普段は病院が忙しくて訪問もなかなか出来ないらしいけど、今はメーリング家の件があってか仕事も少し落ち着いている。
「レンナートさんも、ガセトさんも、ゆっくり休んでもいいのに……」
「ははは、それはありがたいな」
いっそクリフが医者になってくれれば、もっとゆとりが出来るんだけどな、とレンナートさんは笑う。僕はその言葉に曖昧に笑った。ガセトさんたちのお仕事は本当に素晴しいと思う。患者が医師に向ける信頼の眼差し。それを僕はここで何度も見てきた。
でも……多分、僕には真似出来ない。だってここは、何処よりも一番『死』に近い場所だから。
「……あの、ところでその花は……?」
暗い考えを振り払うように、僕は話題を変えた。
「ああ……その子の母親が帰り際にくれたんだ。いつもなら礼は断るんだけどな……」
ふと手元に視線を落として、レンナートさんは溜め息をついた。
レンナートさんが持っていたのは、この辺りではさほど珍しくない一輪の花だった。街から少し外へ行けば、麻薬畑の横に点々と咲いているのを見ることが出来る。
「……そういえば、手向けそびれていたな……」
レンナートさんは何かを思い出すように、目を瞑ったまま静かに呟いた。夕焼けの色をした花は彼の手の中で小さく震えている。それが風のせいではなく、レンナートさん自身のせいだと気付いたとき、僕はこの間から気になっていたことを思い出した。
『あいつ等さえいなければ……カロラだって!!』
元は奴隷の出身だとレンナートさんは言っていた。それが今はこの街で医者として働いている。詳しいことは分からないけれど、おそらく奴隷として生きていたレンナートさんはもう既に死んでいることになっているんだろう。
レンナートさんは花から視線をあげると、向こうに見える麻薬畑を眺めた。
「まだ俺が子供の頃、メーリング家の奴隷だった時にな……幼なじみの女の子が突然行方不明になった」
麻薬畑はどこまでも平坦で、緑の絨毯を敷いたように広がっている。僕もここの患者さんに聞いた話だけど、この畑で行方不明者が出ることは殆どないらしい。メーリング家の敷地は確かに広いけれど、生まれてからずっと其処で生きてきた奴隷達にとっては自分達の庭のようなもの。微睡みの庭で迷うのは大抵、新参者の飼い犬か、僕等のような旅人らしい。
だから……奴隷の中で行方不明者が出ると、『連れていかれた』ことになる。
「二日経って、三日経って、四日経って、五日経って……俺もその子の親と一緒に探しまわった。畑の西南の川、メーリング家の庭園近く、子供達の秘密基地、あの子が好きだったコスモスの花が咲く場所……」
朝日が緑の草原を照らし出し、レンナートさんは目を細めた。沢山の人を生かし、そして殺す、メーリング家の庭。麻薬畑がもたらすのは甘く混沌とした……永遠への微睡み。
「……1週間経って戻ってきたのは、見るも無惨になった屍だった。俺は彼女の両親が小さな墓を作るのを、ずっと見ていた……」
手の中で揺れる、小さな花弁。手向けそびれた花というのは、もしかしたらこのコスモスの花だったのかもしれない。秩序を意味する夕焼け色の花……。
レンナートさんは深く溜め息をついた。そして、ふ、と微かに苦笑した。
「あとは以前話した通りだ。メーリング家にたてついたことが原因で殺されかけて……俺はここでガセトさんに助けられた」
「……」
僕は何も言うことが出来ずに、ただレンナートさんを見つめる。本当は、簡単に言葉で片付けれらた部分に一番重要なことが隠れている気がした。メーリング家に逆らうとどうなるか、僕にもなんとなく分かる。たった1人がやったことでも、その家族、関係者全てが責任をとることになる。責任とはつまり……。
レンナートさんは静かに朝日に視線を向ける。そこに広がる過去を見るように。そして微かに呟いた。
「人というのは薄情なものだよな。自分が死にそうなときは何も考えていないくせに……今頃になって思い出すなんて……」
☆
扉を開ける音がして、私は溜め息をついた。ノックを無視すれば諦めてくれるかと思ったけれど、どうやら彼は私が思っていたより紳士ではないみたい。私は大きく最後の息を吐いて、椅子から立ち上がった。目尻を擦って明かりをつけると、入り口に経っているジェイロードに視線を向ける。
「……頼んでいたものは?」
弁解の一言もなく、彼はそう言った。言い訳を望んでいたわけじゃないけど、ここまで冷静だと怒りを通り越して呆れてくる。
私は無言のまま机の上に置いていた小瓶を手に取った。透明なガラスの瓶の中には微かに紫がかった液体が入っている。私は泣き腫らした顔を隠しもせずにジェイロードに歩み寄る。
「……はい。これでしょ、目的のものは」
「ああ。……効果は?」
私は肩を竦めてジェイロードを見上げた。
「残念ながら即効性ではないの。でも……そうね、貴方くらいなら1週間で『殺せる』わ」
精一杯の嫌味を込めて私はそう言う。ジェイロードは端正な顔を曇らせることもなく、私から小瓶を受け取った。本当に……その顔を見ていると悔しくなるわ。
「……」
彼はじっと小瓶の中の液体を見つめる。これは、ジェイロード達が持ち帰ってきた万物の章を利用して、私が作った毒薬のようなもの。毒、と呼ばないのには理由がある。
私は机の上に散らばった資料の1つをつまみ上げた。
「生物実験は分野じゃないから、なんとも言えないけど……一応、成功と呼べる程度の結果は出てるわ」
それにしても、と私はジェイロードを見上げる。今日はなんだか全てが静かな気がする。いつもは五月蝿いアイルークも何処かにいったのかしら。それとも……この人と2人きりだから、そう思うのかしら。
「貴方は眠り姫でも作るつもり?……急にこんなもの作れだなんて」
小瓶の液体は、人の心臓を止める遅効性の薬。勿論、私みたいな人間には普通の毒薬だけれど……ジェイロードのような人間にとっては、心臓の動きを止めることは死ではなく眠りを意味する。
永遠の眠りを生む薬。言葉だけはロマンティック。
「……随分刺のある言い方だな」
珍しく、ジェイロードがそんなことを口にした。私は彼の手の中にある薬を奪い取ると、机の上に戻す。貴方は本当に、仕方のない人なのね。アイルークだったら一発殴るわ。
私はまた目尻に溜まってきた涙を拭いた。ごめんね、シルヴィ。貴方の大好きなご主人様に一言だけ言わせてもらうわ。
私は彼の碧眼を真っすぐに見た。
「ジェイロード。貴方って馬鹿ね」
きっと思いもしない言葉だったんだと思う。彼は瞬きをすると、少しだけ首を傾げた。
「……初めて言われたな」
「でしょうね。だから言わせてもらうわ」
アイルークからジェイロードの過去は聞いた。本人の口から聞かせてもらえなかったことは腑に落ちないけれど……でも、そんなことはどうでもいいの。
「ジェイロード、貴方は分かってない」
「……」
そうやって考えるのは、多分別のことでしょう。きっと貴方には私の言葉なんて理解出来ない。そう、貴方は頭が良過ぎるから。だからきっと、単純で簡単で、普通の人なら分かるべきことが分かっていない。
でも……誰にも、貴方の馬鹿さ加減を口に出来る人はいないわ。
「何のことか分からない?」
「……ああ」
私は肩を竦めてみせた。言葉で教えることは簡単だけど、それは本当に理解したことにならない。だから……私の口から答えは言わないわ。貴方自身が気付かなければいけない。それを彼が気付くかどうかは別の問題としても。
私は窓から外を見る。もうすぐ夜が来て、そしてまた朝が来る。あと何回か同じことを繰り返したら、また彼はここから出ていくのだろう。
「悩んでみればいいのよ。……答えは、次に戻って来た時に教えるわ」
きっとその時には、彼は過去の預言書を全て手に入れるだろう。その時に彼が此処に戻ってこようとするかどうかは分からないけれど。
夕焼けが街並に沈んで、夜の風が窓を叩いていた。