第2章 3
預言書は真っ白なページで埋め尽くされている。指先で触れれば、微かに光が宿った。バラバラとページが捲れていき、そして白紙のページに文字が浮かび上がる。全ての始まり、原初の章。事の発端を暴く過去の預言書。
始まりが、ここに記される。
- Her destination -
フレイさんの手を離した後は、全て簡単なことだった。地下通路に着地した私は、そこから脱出口を探し外へ出た。後は船に乗りながら情報を集め、ネオ・オリとアクロスの停戦を知った。どうやら戦いはネオ・オリ優勢のまま、アクロスが親書を送ったことにより終決したらしい。事実上のアクロスの敗北だ。
おそらく、ネオ・オリは大地の章を手に入れている。あの少年王が何を考えるかは分からないが、預言書を国という大きな組織が手に入れた以上、他国からの警戒が強まることは目に見えている。
「……」
私はネオ・オリの北東にある峰にいた。ネオ・オリの都が一望出来る崖の上。砂漠が見渡せるこの場所なら、部族の居場所も街の地形も頭に入る。
ここ数日ネオ・オリの周囲を歩き回って、情報収集は万全だった。フェオール・マルスは現在、戦いによって疲弊した国力を立て直すべく、自国の強化に取り組んでいる。彼の傍には常に三大戦士の1人がつき、補佐及び警護を行っているという。
1人は他国に対する牽制を行い、もう1人は表には姿を現さない。恐らく、預言書絡みで動いているのだろう。先日私に忠告に来たフリッツ・コールのように。
「巧妙ですね。……彼らだからこそ、手を出しにくい」
あの3人はそれぞれ得手不得手を補うことが出来る。スピード、パワー、コントロール……どれを取っても隙のない完璧な壁。打ち破るには……壁が少しでも薄い場所を探すしかない。私は目を細めて城下を見やる。
三大戦士と戦うことは最初から覚悟している。しかし確実に勝利するには、狙いを定めなければいけない。誰から潰すのか。それが重要事項。
(士気を手折るにはジャン・ユサク)
彼を潰せば確実に事は進めやすくなる。しかし彼はあのメティスカの人間。戦いにおいて彼が優位に立つのは目に見えている。
(謀を断つにはフリッツ・コール)
参謀役でもある彼を消す事が出来れば、奇策にかかることもない。しかし彼は私の存在を警戒している。彼に戦いを挑むにはこちらもそれなりの戦略を立てなければ。
(……そうなると、残るは……)
テレジア・ケベリ。部族の中でも1、2を争う強力な戦士。得物はメイスだが、魔術をある程度使用する事が出来る。だが彼女は女性。2人に比べれば、多少戦闘能力に差が出る。
しかし、問題は、本人も、そして他の2人もそれを十分承知の上だということだ。おそらく私が彼女を狙う事も全て読まれているはず。
「……」
私は静かに溜め息をついた。三大戦士は強い。しかし、ジェイロードはその更に上を行く。こんなところで……足止めを食らうわけにはいかない。
全ては、ジェイロードを殺すこと。唯1つ、唯そのためだけに。
☆
今ではもう通い慣れた、小さな工房の一室。エンディア諸国と呼ばれる群島の1つにこの工房はある。ミス・ジュリアを筆頭とした時計職人の子孫達が集まって出来た、小さなギルド。此処で殺人人形は作られている。
俺は工房に足を踏み入れると、麗しのミス・ジュリアのいる2階に向かった。ジェイロードはいつも通り、一階のソファに座る。……相変わらず、愛想がないな。
「ミス・ジュリア!戦いから生還した俺に美しいその姿を見せて……」
おくれ、という俺の台詞は、突然開け放たれたメンテナンス室の扉の音にかき消された。派手な音をたてて、ジュリア嬢が外に出てくる。彼女は俺には目もくれず、2階の吹き抜けから1階のソファに座っているジェイロードに向かって怒鳴り声をあげた。
「ちょっと、ジェイロード!!どうゆうことなのか、説明してっ!!」
ミス・ジュリアの剣幕は相当なものだった。普段、俺に向かってこれくらい怒鳴りつけることはあっても、ジェイロードに向かってこれだけの態度を見せるのは初めてだった。
頭上から響く声に、ジェイロードは溜め息をついて見上げた。
「騒々しいぞ、ジュリア」
「っ、あのねぇ!」
ジュリア嬢は吹き抜けの手すりから身を乗り出し、下にいるジェイロードを睨みつけた。その目は赤く、目尻に涙が溜まっているのが、横にいる俺からははっきりと見えた。
ふと俺はメンテナンス室の中を覗き込む。中央に設置された椅子は、シルヴィの為のエネルギーの充電装置だった。このメンテナンス室自体も、殆どシルヴィの調整用にジュリアが倉庫を直して作ったものだ。
それが今は、誰の姿もない。あるのはただ、椅子だけ。
「シルヴィがっ……シルヴィが、戻ってこないのよ!!」
どうして2人が戻って来て、シルヴィは戻ってこないの、と、ジュリアは枯れた声で呟いた。俺は呆然としたまま、部屋の中の椅子を見つめる。いつも任務を終えたあとは誰より早くこの椅子に座って眠っているはずのシルヴィ。その姿が、此処にはない。
ジェイロードは、ジュリアのところへ戻れと命令した。ここに戻り、待機しているのがシルヴィの最優先事項のはずだ。それがここに居ないということは、考えられる可能性は3つ。
俺達と離れた時点で、既にシルヴィは動くことの出来ない状況になっていたか。戻る途中で何かあったか。……シルヴィがマスターであるジェイロードの命令に背いたか。
「……シルヴィが?」
どれも状況としては最悪だった。ジュリアを見上げていたジェイロードは、視線を持ち帰ってきた預言書へと落とす。
俺は涙を拭うジュリア嬢の肩に手を置くと、1階のジェイロードに声を投げた。
「俺が探しに行ってくる。……しばらくはリリィ達の動きを見ることになるだろうし、いいだろ?」
ジェイロードはしばらく考えるように目を瞑ると、階段の上の俺を見上げた。
「アイルーク。……お前も此処に待機だ」
「!」
その言葉に、俺は驚いた。ジェイロードは荷物の中から預言書を2冊取り出すと、奥の部屋へ向かって歩いていく。そこはジェイロードの寝室がある部屋だった。
ジュリアが抗議の声をあげようと、顔を上げる。しかし先手を打つようにジェイロードは言った。
「シルヴィには戻ってくるよう命令した。……戻ってこなければ、それまでの話だ」
「最低……っ、最低よ!」
ジュリアは俺の手を振り払うと、メンテナンス室へと駆け込んだ。大きな音を立てて扉が閉まる。一拍置いて、涙を流しているだろうミス・ジュリアの声が微かに聞こえてきた。
俺はギリ、と奥歯を噛んだ。ジュリア嬢の気持ちも分かる、そして……ジェイロードの言うことも正しいと分かる。
戻って待機しろと。そう言われた時のシルヴィの顔を今でもはっきりと覚えている。愕然としたあの表情は、今まで見たことのない顔だった。確かに、シルヴィは人形だ。俺達が、目的を果たす為の助けとなるように作った、殺人人形の1つ。
それでも……。
『シルヴィ……シルヴィ、嬉しい』
ああやって純粋に、俺達を慕う彼女を、人形と割り切ることが出来るだろうか。
「……ジェイロード」
寝室へと向かっていくジェイロードを呼び止める。その足は一度止まったが、俺の方を振り返ることも、言葉を発することもなく……その姿は扉の向こうに消えた。
☆
夕日を見つめながら、私はふと思う。何故此処にいるのだろう、と。私には帰るべき場所があり、そして帰れと命令されている。それでも私が此処に留まっているのは……怖いから、だろうか。
「っ、ニニナ……」
あれから数日後、ニニナは静かに息を引き取った。皮膚の壊死は留まらず、弱い体は耐えることが出来なかった。私は毎日ニニナのために絵本を読みにきて、クリフもニニナのことを知ってからはいつも顔を出してくれていた。
それでも、彼女は逝った。
「……クリフ?」
ニニナの病室には、レンナートとクリフと私がいた。レンナートはいつものように泣いていて、クリフは呆然としたまま、動けなくなっていた。
泣きながらも慣れてしまった手つきで処理を行うレンナート。クリフは私の言葉に答えることなく、ふらりと病室を出た。
今日は病棟全体が静まり返っているかのようだった。いつも聞こえてくる下の階の子供達の声も聞こえない。お葬式なのだと、ミリアムがそう言っていた。
「クリフ、どこ行くの?」
クリフの足は、まるで逃げるように上の階へと向かっていた。上へ、更に上へ。私も入ったことのない階の、もっと上へ。
やがて階段は終わり、屋上に出た。柵すらなく、ただ強い風が吹き付ける、サナトリウムの屋上。メーリング家の麻薬畑が、夕日の向こうに輝いていた。
「……クリフ?」
クリフはただ、夕日を見つめていた。その背中が小さく見えて、夕暮れの中に消えてしまうのではないかと、私らしくないことを、考えてしまった。
静かに、風が通り過ぎていく。畑から抜けてきた空気はこの街の塵を含んで、海へと消える。
「人は死んだら星になるって……小さい頃、そう聞いたんだ」
私はクリフの隣に並び、空を見上げる。夕暮れの空にはまだ月すら浮かんでいなかった。それでもクリフは空を見上げて、そして呟く。
「だから、星の並びが昨日と変わらないなら……誰も死んではいないんだって信じてた」
「クリフ。それ……」
人の生と星の並びが関係するはずがない。人が死ぬと星になるという考えは、昔の誰かが生み出した愚かな思想。人は死ぬと、体は腐り、やがてその屍は土に還る。ただ、それだけ。
でも。違う、と言いかけて、そんな非科学的なことは有り得ないと言いかけて、私の声は出なくなった。
「誰もいなくなってなんかいないって……信じていたかった」
言葉を失ってしまったのかと思った。データが破損して、何も言うことが出来なくなったのかと思った。思うように言葉が出てこない。どうすればいいのか分からない。こんなところで、エネルギーがつきてしまったのかと一瞬だけそう思った。胸が痛いのも、体が動かないのも、全部そのためか、と。
けれど、そうではなかった。
『シルヴィ』
あの声が、何処かで私を呼んでる。
「……」
私はクリフの右腕を掴んだ。どうすればいいのか分からなくて、何かしたいのに、どうしたらいいのか……思いつかなくて。
胸が痛い。そして、悲しい。これは、何。この気持ちは、何?
「……リ、フ」
クリフは泣いていた。空を見上げたまま、頬を伝う涙。何故だろう。それを見た瞬間、思考も言葉も、全てが止まってしまった。そして……何故だろう、そこにある涙が、全ての答えのような気がした。
苦しい。でも、そう感じているのは体じゃない。コードと信号で作られた体じゃない。
『シルヴィ、泣いてる……?』
あの声が、まるで私のような口調でそう言う。そう、私みたいに。
(わ、た、し……?)
痛い。悲しい。そう悲鳴をあげているのは……わたし……。
『……シルヴィ』
うん。分かった。シルヴィ、やっと……分かった。痛いのも、怖いのも、嬉しいのも、悲しいのも、どうしていいのか分からないのも、声が出ないのも。
嬉しいという気持ちを理解したのも、悲しいという気持ちを理解したのも、全部同じ場所だった。機械の体を巡っても見えてこない、1と0が意味を成さなくなるほど深い深い奥底にあるもの。
そう。貴女は、私。私は貴女。シルヴィの……ココロ。
「クリフ……」
クリフまでいなくならないように、と私は両手を回して抱きしめた。慰めの言葉も、何も浮かんでこない。今までならただのエラーだと思っていたけれど、違う。
声が出ないなら、出さなくていい。喋ることだけが正しいことじゃない。だって、今、シルヴィはとても悲しい。クリフと同じように、シルヴィも……泣いてる。
「はは……ごめん、シルヴィ」
クリフは目尻に溜まった涙を擦ると、悲しそうに微笑んだ。私はただ首を横に振る。私の様子にクリフがまた俯くと、冷たい風が屋上を通り過ぎていった。
私達は無言のまま、ただ麻薬畑に日が暮れていくのを静かに見つめていた。