第2章 2
離した手は空を切り、全てはそこで断ち切られた。あいつが簡単に死ぬような女じゃないことは分かってる。それでも、サーシャがこれからどこへ向かうのか、俺には全く分からなかった。クリフとも合流することができず、俺の手元に残されたのは預言書の原初の章、ただ一冊のみ。
- records the first -
「ああ、クソッ!」
俺は八つ当たりで砂利を蹴りあげた。焚き火の脇を通り越した小石が雑草の影に消える。あの一方的な別れから数週間、俺は苛立ちの収まらない日々が続いていた。
焚き火の傍に腰を下ろすと、手元にある荷物に目を向ける。ゴチャゴチャと詰め込んだ荷の中にあるのは、預言書の原初の章だ。使い方を調べるように、とサーシャから手渡され、そのまま俺の手の中に残っている。
「ルミナリィ?知の申し子?……何だってんだ」
舌打ち1つして、焚き火を見つめる。真っ赤に燃える炎は何も語らず、ただゆらゆらと揺れ動いている。俺はそのまま後ろへと寝そべると、星の見えない夜空を見上げた。
サーシャの言った言葉も、目の前から消えた理由も……全て分からないことだらけだ。ただ1つ、なんとなく理解出来たのは、別れの間際に聞いた台詞。
『……私はどうやら、カタリナの子ではないそうです』
カタリナの子じゃない。それがどうゆうことなのかは分からない。カタリナ以外に、半不老不死の人間なんて存在しないだろ。それじゃあお前は何者なんだよ。
炎が揺らめき、俺の影が後ろの木に映し出される。ふと気配を感じて顔を上げると、影が1つ、俺の真正面に現れた。姿のない影だけが焚き火の向こうに座っている。
『……知の申し子……それはかつて、トゥアスが求めた理想だ』
現れた影は、いつも通り俺を見下すようにそう言った。炎を挟んで反対側に座っている影は、俺より一回り大きな体で背後の樹に寄りかかっていた。
俺は顔を顰めてヴァルナを見る。このタイミングで出てくるとは、お前は俺の八つ当たりの餌食になりたいらしいな。
「トゥアスの理想だ?知るか、そんなもん」
『完璧なる不老不死……それを創る研究を、帝国はルミナリィ計画と呼んだ』
ヴァルナは炎を見つめているのか、ただ静かに語り続ける。……そうか、こいつも堕落した蛉人とはいえ、悠久の時を生きてきた精霊。トゥアス帝国が存在していた当時のことも知ってるってことか。
俺は薪を放り込むと、ヴァルナに視線を向けた。
「不老不死を創る、か。……馬鹿げてんな」
『ふっ……魔術師ならば分かるだろう。その計画事態が狂気の沙汰だ』
ヴァルナの言葉に俺は頷いた。
魔術師は本来、世界の均衡を重視する。簡単に言うならバランスだ。人も獣も虫も植物も、全て均衡の上に成り立っている。どれかが欠けることは許されず、またどれかが力を持ち過ぎることも許されない。
精霊と魔術師の関係も同じだ。契約上、魔術師が主となり精霊は使役される側になるが、互いに等価交換の理が働いている。魔術師は精霊を使役することでその力を得、そして精霊は魔術師の死後、その魂を供物として再び精霊に転生するために用いる。つまりは、どちらかに力が偏ることは禁じられているってことだ。
力が偏れば、世界は均衡を取り戻す為に偏ったものを排除しようとする。まぁ、こっからは神だとか信仰だとか、そうゆうもんが絡んでくるから割愛する。
「完璧な不老不死……」
俺はそう呟いて、焚き火に視線を落とした。
『ルミナリィ計画は、身分の低い人間達の赤子を利用したと聞く。何千、何万という命がそこで研究に利用され、そして消えていった。あの女がルミナリィだとするならば……』
「サーシャもその計画に使われていたってことか」
そしてサーシャがルミナリィと呼ばれるということは、不老不死を創る研究は成功したということだ。俺は頭が痛くなってきて、ガシガシと頭をかく。答えが見えてきたようで、まだ霧の中にある。
つまり……つまり、何なんだ?ルミナリィのことは分かった。サーシャの知った事実も分かった。それでも此の先が見えない。サーシャが何をしようとしているのか、俺はこれからどうすればいいのか。
ヴァルナの影が炎に照らされて揺らめいている。俺の苛立ちを感じているのか、ヴァルナは静かに口を開いた。
『ファーレンの血をひく者。……お前はどうするのだ』
「……」
どうするって?勿論、あいつを追うに決まってんだろ。なのに、あいつが何処に行って、これから何をしようとしているのかが分からない。……分からねぇんだよ。
『……』
言葉にしなくても、ヴァルナには伝わったようだった。魂を賭けて契約してるだけあって、蛉人は魔術師の感情の機微に敏感だ。それが鬱陶しい時もあるが、余計なことまで口にする必要がなくて助かる。
ヴァルナはゆっくりと左手で何かを指さした。影だけで具現化した姿ではその表情も読み取れないが。奴は静かに言う。
『ならば……預言書を使え、ファーレンの孫よ。其処にあるのは原初の章。……この世の全ての始まりが其処に在る』
☆
ガセトさんに呼ばれて、僕とシルヴィは2階にある医務室の前まで来ていた。思ったよりも時間に遅れてしまった気がする。廊下には夕食の片付けをしている人たちの姿が目立った。シルヴィは医務室の扉をノックすると、中からの返事を確認して扉を開ける。
「ああ……入りなさい、2人とも」
ガセトさんは僕等に椅子をすすめてくれた。患者用の小さな椅子だ。僕等は並んで椅子に座ると、机の前で難しい顔をしているガセトさんを見た。シルヴィがふと首を傾げる。
「……ガセト、どうかした?」
シルヴィの言葉に、ガセトさんはふぅ、と重い溜め息をついた。僕はふと嫌な予感を覚える。
ガセトさんはチラ、と窓から下に視線を向けると、改めて僕等を見た。木製の椅子がギシ、と音を立てる。
「つい数時間前だが……『微睡みの庭』から男たちが来た」
「!」
ふと僕は顔を上げた。
「……メーリング家の屋敷が何者かに襲われ、当主と妹君が亡くなっていたそうだ」
血の気が引いた気がした。当主と妹君……おそらくそれは、ラフィタ・メーリングとライラ・メーリングだろう。2人が亡くなっていたということは……つまり、サーシャさんかジェイロードさんが屋敷に辿り着いたということだ。そしてどちらかが……預言書を手にした。
「近くにはこの世のものとは思えない化け物の死骸もあってな……」
ガセトさんの話を、シルヴィは真剣な表情で聞いている。けれど僕は話の半分も耳に入っていなかった。あの2人が『微睡みの庭』を目指していたのは確かで、どちらかが預言書を手にしたということは……最悪の場合の可能性もある。
「……メーリング家の使いの者達が、犯人を血眼になって探し始めている」
「……。……ガセトのところ、来た?」
シルヴィがふと、そう呟いた。おそらくガセトさんの言葉の意味に気付いたのだろう。メーリング家の使いはおそらく、最近『微睡みの庭』から出た人間の情報を探している。勿論それは僕等のことだ。正確に言うなら、サーシャさんとジェイロードさんを指す。
ガセトさんはじっとシルヴィの澄んだ瞳を見つめ、そして溜め息をついた。
「……ああ。勿論、知らないとは伝えたが……」
「シルヴィ、奴隷に此処、連れてこられた。クリフも同じ。……奴隷、シルヴィ達のこと知ってる」
例えガセトさんが隠し通そうとしても、奴隷や街の人たちは見慣れない僕等のことを知っている。情報は、いつか何処からか漏れ出すもの。僕等もいつまでもこの場所にいることは出来ない。
ガセトさんは薄暗くなった紺色の麻薬畑を見つめる。その瞳は何処か、物悲しい色をしていた。僕はふと首を傾げる。『微睡みの庭』がなくなれば、苦しむ人はいなくなるはずなのに。
声を掛けると、ガセトさんは困ったように視線を落とした。
「『微睡みの庭』の終わり、か……」
「どうかしたんですか……?」
いや、とガセトさんは首を振り、そして僕等を見た。さわさわと麻薬畑を駆抜ける風の音がする。重い口を開いて、ガセトさんは呟いた。
「あの庭がなくなることは……メーリング家が断たれることは、本当に良いことなのだろうかと思ったんだよ」
「ガセトさん……?」
薄暗い闇の中で、『微睡みの庭』はまるで海のようだった。風に靡く草原がうねりを起こして、街へと襲いかかる。強い風がカーテンを揺らした。
このサナトリウムにいる沢山の人々が、その終わりを願っている。きっと当主の死の一報を聞けば、みんな喜ぶはずだ。虐げられることも、苦痛に耐えることもなくなる。平和が彼らに訪れる。
でも。
「……クリフ君。キミにとってこの街はどう見える?」
「え?あの……」
この街。麻薬畑の隣にあって、空気は汚いけれど栄えている港街。優しい先生のいるサナトリウムがあって、街は入り組んでいるけれど様々な店が並んでいて……。良い所と悪い所を思い浮かべて、そして僕は気付いた。
この街は……『微睡みの庭』によって存在している。
「旅人のキミには分かるだろう?グロックワースやルクスブルムから比べれば、此処は猥雑で低俗だ。大国の都のように自身で栄えてきたわけではない……全ては、あの庭によって形成された」
そして、とガセトさんは僕等を見る。
「あの庭がなくなれば、奴隷達は職を失う。……少ないながらもメーリング家から与えられていた供給が止まってしまう」
麻薬畑が機能を果たさなくなれば、街は衰退し、数多くいる奴隷も職を求めて彷徨うようになる。荒んでいた街が更に荒んでいく様が脳裏を過って、僕は俯いた。
ガセトさんは窓を閉めると、カーテンに手をかけた。
「『微睡みの庭』は此処に住まう者にとって地獄だった。しかし……地獄がなければ天国もなく、天国もまた地獄になるかもしれない……」
僕とガセトさんを交互に見ながら、シルヴィは首を傾げていた。しかしすぐに、何かに気付いたように後ろを見やる。蝶番が音を立てて、扉が内側へと開いた。
ガセトさんが驚いた顔で立ち上がる。
「レンナート……!」
そこにいたのは、2人分の食事を手にしたレンナートさんの姿だった。白衣を羽織っているところを見ると、食事の介護の後に僕等を探していたのかもしれない。レンナートさんは夕食のトレイをテーブルの上に置くと、真っすぐにガセトさんに歩み寄った。
「お前、まさか聞いて……」
「大体の話は聞きました。先生……本当にそう思っているんですか?」
レンナートさんの目は真剣だった。いつもガセトさんの右腕として働いている彼がこんな険しい表情を浮かべているのは始めて見た。
ガセトさんも困ったような顔を浮かべている。
「庭さえなければ……メーリング家さえいなければ、失われることもなかった命。貴方はそれを誰よりも見てきたはずだ!」
このサナトリウムで亡くなる人は数知れず。その一人一人をガセトさんは看取ってきた。そして経験は少ないものの、それはレンナートさんも同じ。真っ白な白衣を血で濡らして、病院中を駆け回って看病をする。助けを求められても、助かる人は一握り。
「街の衰退より、奴隷達の未来より、もっと大きなものをあいつ等は奪っていった」
多分、レンナートさんの怒りは、この街に生きる人の怒りなんだ。でも……だからと言って、ガセトさんの考えが間違っていないわけじゃない。僕は今にもガセトさんに掴み掛かってしまうそうなレンナートさんを慌てて押さえる。
「あいつ等さえいなければ……カロラだって!!」
「レンナート……」
ガセトさんは悲しそうに目を伏せた。レンナートさんも誰かの名前を呟くと、体から力が抜ける。僕はレンナートさんを押さえていた手を離すと、沈黙に目を伏せた。シルヴィだけがキョロキョロと僕等を見回している。
暗く沈んだ夜の出来事だった。