第2章 1
もしも、過去のあの一瞬をもう一度繰り返すことが出来たなら。もしも、この時間をやり直すことが出来たなら。例えの話をしても仕方ないことは分かっている。戻って来ないものをいくら願っても、それは永遠に失われてしまったものだから。
だから今日も、逝く人に願うのは唯1つ。安らかに、と。
- The godless world -
日が暮れていく。窓から見える麻薬畑の向こうに太陽が沈むのを見つめながら、僕はそう呟いた。今日はこのサナトリウムの中もやけに静かだ。僕のためにと、ガセトさんが用意してくれた部屋は、小さいながらも大きな窓がある部屋だった。メーリング家の所有する『微睡みの庭』の畑に夕日が沈んでいく様子は、美しいながらも少し悲しい。窓辺に立ったまま、僕はじっと窓の外を見つめていた。
「クリフ。いるか?」
ふと声が聞こえて、僕は振り返った。見ると、風通しのために開けておいた扉からレンナートさんが顔を出している。
「はい。……どうかしたんですか?」
まだ夕食には早い。僕は窓を閉めると、困った表情を浮かべているレンナートさんに首を傾げた。
「先生にクリフとシルヴィを呼んでくるように頼まれたんだが……シルヴィの姿が見当たらなくてな」
ここには来てないか、とレンナートさんは溜め息をついた。そういえば、今日は昼頃からシルヴィの姿を見ていない。僕が病院の手伝いをしていたせいもあるけれど……。
でも、ガセトさんが僕とシルヴィに話って、なんだろう。
「自分の部屋にもいなかったし……ここにもいないとなると、子供達のところか」
「あ、それなら僕が探して、一緒にガセトさんの所に行きますよ」
レンナートさんは夕食が出来たら、各病室に食事を運ばなければならない。もちろんそれは他の人達も手伝ってくれるけれど、ここでは医師より患者の数の方がはるかに上回っている。そのため、彼らはこういった食事の世話まで行わなければいけないんだ。
僕がそういうと、レンナートさんはほっとした表情を浮かべた。
「悪いな。……2人の食事は後でシルヴィの部屋に運ぶことにするよ」
「えっ、あ、……は、はい……」
2人分ということは、今日も僕はシルヴィの分まで食べなければいけないということだ。ここにお世話になり始めてから、運動量は減っているのに食事の量は増えていく一方。太らないかな、僕……。
仕事が残っているから、と去っていくレンナートさんを見送って、僕はふと首を傾げた。
「それにしても、ガセトさんの話って……?」
首を傾げながら。僕は部屋から出る。とりあえず、シルヴィを探して来なければいけない。多分居場所は子供達のいるあの病棟だ。随分懐かれていたみたいだから、もしかしたらまだあそこで遊んでいるのかもしれない。
西の病棟は、さながら子供達の王国だった。シルヴィがあの病棟に出入りするようになってから、子供達はシルヴィを『おねえちゃん』と呼んで慕うようになっていた。大人から見ると少し機械的に思える仕草や表情も、子供達にとってはさほど気にならないものらしい。
そしてシルヴィも、約束した、と言って昼頃から夜まで子供達の相手をすることが多くなっていた。
「約束、か……」
病棟の渡り廊下を渡り、西の病棟に入る。扉を開けると、すぐに子供達の視線がこちらに集まってきた。1、2階は軽傷の子供達が多いせいか、何かとこの病棟に訪れる人にちょっかいをかけたがる。……多分、寂しいんだろう。
「あっ、おにいちゃんだ」
見覚えのある男の子が僕のところに駆寄ってきた。ええと、たしかミリアムだったかな。
「こんばんは。……シルヴィ来てないかな?」
「みどりの髪のおねえちゃん?おねえちゃんなら、3階だよ」
ミリアムは天井を指さしてそう言った。3階は治療中の子供が収容される病室だ。僕はミリアムが指さした天井を見上げて、そして首を傾げる。
「3階?」
「そう。ニニナが病気にかかって、3階にいっちゃったんだ」
ニニナはたしか、いつも子供達の集団の後ろにいた女の子だ。大人しくて体が弱いと聞いたことがある。僕も何度か顔を合わせたけれど、最近は見なくなっていた。
ミリアムは僕の手をひいて階段前まで連れて行ってくれた。
「病気、うつらないけど、ぼくら3階に行っちゃダメなんだって」
レンナートに言われた、とミリアムは頬を膨らませた。僕は階段を見上げる。3階へ続く階段は少し暗くて、ひっそりとしていた。
「そっか……じゃあ、ミリアム達はここにいて。ちょっと行ってくるよ」
わらわらと集まってきた子供達に手を振って、僕は階段を上がっていく。まるでそこに見えない壁があるかのように、階段の前で立ち止まる子供達。その様子を不思議に思いながら、僕は上を目指した。
☆
「……むかしむかし、あるところに……」
階段を上がって聞こえてきたのは、シルヴィの声だった。絵本でも読んでいるのだろうか、童話を語るような言葉が廊下に響いてくる。僕は階段を上ると、辺りを見回した。ひっそりとしていて、静かな廊下。人の気配はあるのに……。
「……小さな少女が、おりました……」
聞こえてくる声を頼りに、僕はニニナの病室を見つけ出した。半開きになった扉から、シルヴィの声がしてくる。扉に手をかけると、夕日の緋色の光が廊下に差し込んでくる。
ふと人の影が僕の足下まで伸びて、僕は顔をあげた。
「シルヴィ……?」
「!」
窓際にイスを置いて、絵本を片手に座っていた彼女は、僕の気配に気付くと驚いたような顔をした。しかしそれもすぐにいつもの表情に戻る。
「クリフ。……夕食の、時間?」
シルヴィは緑色の髪を耳にかけると、僕を見上げてそう言った。僕は首を横に振る。
「ううん。そうじゃなくて、ガセトさんが……」
呼んでたんだ、と言いかけた僕は、病室内に足を踏み入れてすぐに凍りついた。
薬とは違う、腐った何かの……臭い。僕はふとシルヴィに近づいた。シルヴィは何も感じないのだろうか、表情1つ変えずに椅子に座っている。
「……シルヴィ、これは……」
問いかけようとした瞬間、僕はシルヴィの目の前にあるベッドに目を奪われた。目を閉じたまま眠っているのはニニナだ。毛布から突き出た二本の足。その片方は……くるぶしの辺りから下がなくなっていた。
切断部分には包帯が巻かれていたけれど、そこから見える皮膚の色は生きた物の色ではなくなっていた。僕は咄嗟に口を押さえる。シルヴィも人差し指を唇に添えた。どうやら、今眠りについたばかりらしい。
「……シルヴィ、ニニナは……」
僕が問いかけると、シルヴィは本を閉じて立ち上がった。椅子の上に本を置くと、ニニナに気付かれないように病室を後にする。僕もその後を追った。
シルヴィは階段の前まで辿り着くと、振り返って静かに言った。
「……ニニナ、ここに来たときから足の指、なかった」
下から子供達の声が響いてくる。元気に走り回る音、騒ぎ合う声。一方、こちらの階はまるで生気を失っているかのようだった。たった階段1つなのに、ここと下とでは世界が違うような気がした。
シルヴィは僕を見上げたまま、淡々と続ける。
「でも……傷口から、皮膚、壊死してきて……ガセト、悪化しないように足切った」
でも、とシルヴィは俯いた。その後に続く言葉は恐らく、僕が目にしたものと一緒だろう。皮膚の壊死が広がっている。ガセトさんたちじゃ……治せないんだ。
「……」
シルヴィは長く俯いていた。僕も何も言えずに沈黙に沈んでいるしかなかった。きっと、この3階から上に収容された子供達は同じように病気や怪我に一生苦しんでいかなければいけないんだろう。下で元気に駆け回る友人達の声を聴きながら。
このサナトリウムにいる患者達は、みんな同じようなものだった。傷つき、苦しむ人たちしかいない。回復する人は少なく、いてもすぐにあの『微睡みの庭』へと戻されていく。
「……このままだと、危ないってレンナート言ってた」
シルヴィは静かにそう呟く。
「クリフ……ニニナ、死ぬ……?」
「それは……」
僕は否という気持ちを込めて首を横に振ろうとした。でも、あの一瞬、目に焼き付いたあの皮膚の色。僕だって、一応戦いの中に身を置いてきた人間だから分かる。……『助かる』なんて、軽く口にすることは出来ない。
死。生と同時に、人に与えられた絶対的な運命。人は誰でもいつかは死ぬ。早いか遅いかは誰にも決められず……誰にも分からない。僕だってもしかしたら明日運悪く死ぬかもしれない。ニニナだって、明日運良く治るかもしれない。
ふと脳裏に、懐かしい人たちの声が響いた。
『いってらっしゃい!』
『おにーちゃーん!頑張ってねーっ!!』
僕を笑顔で見送った妹、心配しつつもいつもの調子で背中を押してくれた姉。いつまでもそこにあると信じていた人たちでさえも……いつ奪い去られるか分からない。
僕は拳を握りしめた。いつも僕の思いを受けとめてくれるレイテルパラッシュはここにはない。ただ固く握りしめた拳だけが震えた。