第1章 1
砂埃と塵の舞う街。道にはごろごろと浮浪者が転がり、世も末の風景が日常だった。汚い空気に海の匂いが混じって、鼻孔に残る。旅人も長居を避けるこの街。
それでもこの場所が、この街が、僕の……僕等のひとときの居場所だった。
- 戻らない幻影 -
灰色の建物を白く染める朝焼け。僕はこの街でも一等大きな建物の前で箒を片手に大きく深呼吸をした。まだ辺りに人の影はなく、浮浪者達もまだ毛布に包まったまま眠りについている。僕は箒を門の裏に立てかけると、白い息を吐きながら建物を見上げた。
石造りで少し古びたサナトリウムは、朝の光を真正面から受けて輝いている。反射する窓の光が眩しい。上の方を見上げていると、建物の影から足音がしてきた。
「おはよう、クリフ」
「ガセトさん」
顔を出したのは、ガセト・パンデロスという、このサナトリウム専属のお医者様だ。白髪に恰幅の良い格好をしていて、常に白衣を身に纏っている。ニコニコと笑う顔には笑い皺がしっかりと刻まれている。
ガセトさんは門の前に立っていた僕と立てかけられている箒を目にして、苦笑してみせた。
「……何も、無理をして此処の手伝いをせんでも良いのだよ」
「いえ、でも……危ないところを助けてもらったのに、何もお返しが出来なくて……」
僕はそう言って視線を落とした。ガセトさんはフフ、と笑う。
「そんなことを言ったら、私は此処の患者全てから謝礼を貰わなければいけなくなるな」
「あ……。……えっと」
僕は建物の窓に視線を向け、そして言葉を無くした。
そう、あの日、サーシャさんの弾丸を受けて倒れた僕は、運良く通りかかった奴隷達に見つかった。そして此処に運ばれたんだ。此処は港の近くにある、奴隷専用の病院……その療養所。ガセトさん曰く、本当は普通の病院だったらしいのだけれど、畑の付近で倒れている奴隷達を助けたことがきっかけで、病気や怪我をした奴隷達の駆け込み寺になったらしい。
「良いのだ。私が好きでやっていることなのだから」
何度も言われたその言葉に、僕はジンとしてしまった。旅をしてから、殺伐としたものばかりを見て、残酷なものに触れてきた。だからこんな優しい人に出会えるなんて、思いもしなかったんだ。
「それに……私が救える人間は、あの『庭』で亡くなる奴隷達のほんの一握りでしかない」
ガセトさんはそう言って畑のある方向を見つめる。まだ薄暗いリル・インの畑が、建物と建物の隙間から広がっていた。
此処に運ばれる奴隷達は殆ど働けなくなった者が多い。原因は怪我、病気、過労……放っておいてはただ飯食いになると、メーリング家から追い出されて此処に来る。健康な者はあの『理なき庭』で働き続けることを運命づけられる。逃げ出すことは……許されない。
僕は朝の光に目を細めた。メーリング家……今、あの『庭』はどうなっているのだろう。いくら悪名高い彼らとはいえ、何事も起らないわけがない。あの2人が、あの場所で再び出会ったとするならば。
ふと、僕は昇り始めた太陽を見てハッとした。いけない、食事の時間になってしまう。
「あっ……僕、行かないと……っ!」
慌てて走り出した僕に、ガセトさんは苦笑した。
「彼女なら、二階の個室だ。……早く行ってあげなさい」
☆
サナトリウムの中は、療養所とは思えないほど汚れている。病室には収容可能人数を越えた患者達が転がっていて、廊下には比較的軽傷の奴隷が治療を待っている。朝も晩も、この施設にはあってないようなもの。医師達は常にあちらへこちらへと走り回っている。でも……ここで助かる命はほんの一握りでしかない。
僕は廊下に寝転がった患者達を避けて歩きながら、二階の個室へと向かった。あそこは病室ではない。彼女のために、ガセトさんが貸してくれた物置のような場所。僕は部屋の中に駆け込むと、息を切らしながら言った。
「す、すみませ……!下で玄関の掃除をしてたら、遅くなっちゃって……っ」
はぁ、と大きく深呼吸をして部屋の中に視線を向けると、病室で使わなくなったベッドの上に1人の少女が座っていた。緑色の長い髪が胸の辺りまで伸びている。白い両手は食事のトレイを持ったまま、瞳はじっとその中身をみつめていた。
少女の目の前に立っていた男の人が言う。
「……ああ、やっと来てくれた。やっぱりキミがいないと食事をしないんだ、彼女は」
「すみません、レンナートさん。あの、……知らない人ばかりで、緊張してるみたいで」
僕は2人に近づくと、少女の方に視線を向けた。皿に乗せられたパン、そしてミルク。静かにそれを見つめる目は、人形みたいに穏やかだ。……そう、人形みたいに。
男の人はガセトさんと同じ白衣を身につけていた。彼の名前はレンナート・ラハティ。医師の中でも最年少で、ガセトさんからも信頼の厚いお医者様だ。僕とは歳が近いから、何かと話もしやすい。
レンナートさんは苦笑してみせる。
「そうか……まぁ、少々言語障害のようなところもあるから仕方ないんだけどな」
「そ、そうなんですよね……はは、ははは……」
話がしやすいと言っても、彼女のことはやっぱり話せないんだけど……。
「……」
ふと下を見ると、食事を見つめていた彼女の目が、こちらを見ていた。透き通った硝子玉のような瞳。僕は息を吐いて、レンナートさんに視線を向ける。
「……すみません、ちょっと2人にしてもらってもいいですか?」
「ああ。じゃあ、食事が終わったら下に食器を持って来てくれ。……それじゃあな、シルヴィ」
レンナートさんはぽんぽん、と彼女の頭を撫でると、部屋から出ていった。僕はそれを見送って、改めて後ろを振り返る。物置の小さな部屋に申し訳程度に置かれたベッド。その上に座っている彼女の姿はどうしても違和感があった。
彼女は食器のトレイを自分の隣に置くと、僕を見上げる。
「……クリフ、遅い。シルヴィ、待ってた」
朝の光が開かない窓から差し込んでいる。彼女……シルヴィは眩しさに目を細めることもなく、そう言った。
どうして僕がシルヴィと一緒にいるのか……それは本当に、偶然としか言いようがない。時々ポツリポツリと呟くシルヴィの言葉を繋いでいくと、どうやらシルヴィはあの麻薬畑で襲撃に遭い、ジェイロードさん達とはぐれてしまったらしい。
重症で動けなくなっていたところを、シルヴィもまた奴隷達に発見された。運が良かったのはそれが夜で、比較的人目につかないうちにこの療養所に運ばれたこと。そしてシルヴィを担当した医師がガセトさんただ1人だったこと。
「レンナート、食べないと怪我治らないって言う。……シルヴィ、食事出来ない」
「ごめん」
僕はシルヴィの分の食事を口にしながら謝った。シルヴィは食事をすることが出来ないから、僕と2人の時にしか食事をしないことにしている。勿論、シルヴィの分まで食べるのは僕なんだけど。
この病院の中で、シルヴィが『人』ではないことを知っているのはガセトさんだけだ。運ばれてきたシルヴィを見て、ガセトさんはいち早く奴隷達に口止めをした。信頼の厚いガセトさんからの言葉に奴隷達は頷いてくれたらしい。それでも衝撃的な事実というものは、いつかは何処かから漏れていくもの。ガセトさんもそう言っていた。
「……シルヴィ、怪我の具合はどう?」
僕はおそるおそるそう聞いてみる。シルヴィの右腕には包帯が巻かれていた。ガセトさん曰く、右肩から左脇腹にかけても刃物のようなもので切り裂かれた痕があるらしい。
シルヴィは食事をする僕の隣で、右手を握ってみせた。
「右腕の破損、47パーセント……腹部の破損、4パーセント。……これ以上の自己修復、出来ない」
「えっと、よく分からないんだけど……自分ではこれ以上治せないってこと?」
人に自然治癒の力があるように、シルヴィにも自己修復機能というものがあるらしい。シルヴィは静かに頷く。
「右腕、上手く動かない。でも、お腹、縫えば治る。ガセト言ってた」
「そっか。……じゃあ、ガセトさんに治してもらえるね。良かった」
僕はほっとして笑った。僕みたいな人間と違って、シルヴィはお医者様でも治せない。それはやっぱり、シルヴィ自身が預言書の……過去の知識によって造られた存在だからだ。
「……」
ミルクを飲んでいると、シルヴィがじっとこちらを見つめてきた。何か言いたそうな視線。僕は首を傾げる。
「?……どうかした?」
「……。……なんでも、ない」
シルヴィはそう言って窓の方に顔を向けた。端正に造られた表情が少し翳って見えたのは……僕の、気のせいかもしれない。
☆
人には眠りというものがある。眠ることで人は夜に行動を制限することを覚えた。食事の回数を減らし、体力を回復する手段。生き物が寝静まる時間帯に、人もまた眠る。
夜のサナトリウムは少しだけ静かになる。患者達の大半が眠っているから。けれど治療を待つ患者達に時間など関係ない。そして治療に追われる医師達もまた同じ。
バタバタと廊下で人が駆け回る音がする。新しい患者が運ばれてきたか、それともまた誰かが命を落とそうとしているのか……私はベッドに座ったまま、静かに月を見上げていた。
「……」
私の正体が殺人人形だと知っている人間は、ガセト・パンデロスとクリフだけ。2人は何故かそれを隠そうとしている。私にとっては隠しても、隠さなくてもいい事実。たとえそれを隠匿しても、私が『人形』であることは変わらない。
私は、人形。動くだけのただの人形。マスターを助け、マスターを守る為の人形……。
「……」
なのに時々、私は夢を見る。
最初はクリフに言われて、眠る真似事をしていた。消費を抑える為にシャットダウンすることも考えた。それでも、そうすると私は人形と……人でいうところの死んでいる状態と同じことになる。
眠る真似事は、不思議だった。目を瞑り、闇の中に落ちる。全てが漆黒に解け合い、意識もまた消えていく。やがてそれが、眠りに変わった。機械であるはずの私に……必要としないはずの眠りが訪れた。
「……」
眠りにつく瞬間は、まるでエネルギーの補充をしているときのように安らかだった。意識がふわりと霧に包まれ、何も分からなくなる。何も考えなくなることが最初は怖かったけれど……やがてそれも心地良さに変わった。
闇の中にただよう意識。時折、私は夢を見る。
『シルヴィ』
誰かが私を呼んでいる。今まで何度も聞いてきた、あの声。声はいつも私に呼びかけ、毎晩違うことを言う。私を困らせるようなことばかり言って、そして気付くと朝になっている。
最初、彼女はこう言った。
『シルヴィ。……貴女はだぁれ?』
次の日、彼女はこう言った。
『シルヴィ。……貴女はどうして此処にいるの?』
次の日、彼女はこう言った。
『シルヴィ。……貴女は私を知ってる?』
私はいつも彼女の言葉に答えることは出来ない。彼女は質問をするだけすると、消えていく。手の届かない月のように、彼女は何もかも知っているかのように、私に問いかける。そして自分のことは何も語らない。
ふと気付くと、また彼女の声がする。
『シルヴィ。……シルヴィ』
どうして貴女はいつも私を困らせるの?どうして貴女は私のことを知っているの?どうして貴女は……。
『シルヴィ。……さっき何を言おうと思ったの?』
あれは……別に、重要なことじゃない。どうしてクリフが私の怪我が治ることを喜ぶのかと、そう思っただけ。クリフは敵で、私のメモリには排除対象として記憶されていて、それで……。
でも、私は……。
「……あ……」
気付くと、夜が明けていた。私はベッドに横になっていて、いつの間にか眠っていたらしい。何処かで鐘の音が聞こえる。また誰かが死んでいったのだろう。今日も少しだけ落ち込んだレンナートが食事を運んでくる。少し遅れてクリフがやってきて、そしてまた一日が始まる。
「……」
私も、私に問いかけたい。
……シルヴィ、いつまで此処にいるの?