第4章 3
わたしはただ、連れてこられて何も教えられずに部屋に運ばれた。わたしは何も知らなかった。わたしはただ、何も知らずにされるがままだった。わたしはただ、時間が過ぎていくのを待った。天井を見つめながら待った。わたしにはただそうしているしかなかった。わたしは、その時まで確実にわたしだった。そのときまでは……。
- mad to obsession -
大鎌の一閃は一度きりだった。弧を描いて振り下ろされた刃が、途中で阻まれる。ライラはハッとして私を見た。驚くのも仕方ない。先ほどまでそこにあった姿が、間合いの更に中に入り込み、ライラの眼前で振り下ろされるメタトロニオスの柄を掴んでいるのだから。
肩で揺れる金の髪。夕日に鈍く光る鎌を掴んで、私はライラを見上げる。
「……実験とはいえ、痛めつけられるのは御免被りたいですね」
私はそう言うと、柄を思い切り腕で弾いた。尋常ならざる技を持つライラ・メーリングとはいえ、所詮は女。私の力に軽くバランスを崩して後ずさる。
「それよりも私は『魂の共有』とやらを見てみたいものです」
「も、モルモット風情が何を……っ!」
彼女がそう騒ぎ立てたとき、その脇腹を轟音が駆抜けた。ライラ・メーリングの体が弓なりになり、力が抜ける。赤い血が噴き出し、床板を濡らした。咄嗟にメタトロニオスを杖にして踏みとどまった彼女は、驚いたように後ろを振り返る。
振り返る彼女の視線と反対に、銀色のバレルが放物線を描いて私の手元に落ちてくる。私はカチャリと音を立てて銃口をライラに向けた。そして背後では全く同じ体勢で、ジェイロードがヒュペリオンを手にしている。その照準は私の後ろにいるラフィタだった。
「……どうやら悪趣味という点では我々の方が上手のようですね」
「なっ……!いつから協力関係に……!?」
ライラが目を見開いてジェイロードに視線を向ける。しかし彼の視線がライラに向けられることはない。彼の照準は、ラフィタ・メーリング。敵と決めた人間から視線を外してはいけない。それが私の……私達の、ルール。
「協力関係になったつもりはありませんよ。……モルモットになる気はないという意見が一致しただけです」
私はクロノスを構えたまま言う。
「私達は互いが憎い以上に、自分のことが大事な人間ですから。……インセスト的な愛情を持つ人間は見ているだけで吐き気がします」
「……ふっ。ふ、……ふふっ……」
ライラは脇腹に広がった血の染みを抑えながら、私を睨み返した。ジェイロードは自分の懐から愛用のリボルバー、カイロスを取り出し、クロノスを私の方へと投げた。これを返して寄越すということは、おそらく注意を促しているのだろう。
ジェイロードの考えが分かってしまう自分に苛立ちながら、私はライラの言葉に耳を傾ける。
「貴女達も……ルールなんてものに縛られてるのね……可哀想な人たち」
フラフラとライラはラフィタに近づいていく。ジェイは静かにカイロスの引き金に指をかけた。見ると、ラフィタの手にはいつの間にか双剣・サンダルフォンが握られている。私は右手にクロノス、左手にヒュペリオンを構えたまま、メーリング兄妹の動きを警戒する。
「お父様は、おっしゃったわ……。この世界に、タブーなどない……不可能などないのだと」
ライラは天を仰ぐようにそう呟く。私はチラ、とその後ろにいるラフィタを見やった。
タブー、ルール……その全てをライラ・メーリングは否定している。確かに、その言葉の全てが間違っているわけではない。人を殺してはいけないというルールがある一方で、人殺しはこの世に数えきれないほど存在している。そして人殺しを裁くために死刑という言葉もまた、存在している。
タブーなどというものは、個人個人の割り切る場所で変化する。その曖昧な値が重なり合う部分をそう呼ぶのだ。少なくとも私はそう思っている。だが……この、違和感は何なのだろう。何かが引っかかるこの……感覚は。
「そんなもの、に……囚われている貴女達は……っ、……可哀想ね」
ライラは兄に同意を求めるように後ろを向く。しかしラフィタは何も言わず、ただ静かにサンダルフォンを握りしめる。
ラフィタの視線は、静かに私達を見ている。ジェイロードがふと、何かに気付いたように眉を動かした。
「っけれど……、それが分からないというのなら……」
この者達に死を。
そう聞き取れた言葉は、僅かだった。
☆
たとえば、生きながらにして自分の墓を見た人間の気持ちを、君は知るだろうか。墓を目の前にして泣き崩れる母、その肩を抱く父、手向けの花を握りしめたまま唇を噛み締める少年。夕日に長い影を作る墓石は、静かに彼らを見守っている。たとえその下に、あるべき遺骨がなかったとしても。
「あ……」
呟いた言葉はそれだった。耳障りな、他人の声だった。何かを言わなければと、喉元まで出かかった言葉は温い風が攫っていった。麻薬畑の草原が揺れる。
やがてこちらの気配に気付いたように、父が振り返る。その目は悲しみから、すぐに畏怖の色に変わった。
「あ……っ!!」
慌てたように、両親は地面に額を擦り付けた。少年もまた、2人を習って同じように頭を下げる。大人と違い、彼はどこか納得出来ない表情を浮かべていた。
「ご、ご病気から回復されたのですねっ……。わ、我々も、喜んで……っ」
母はそう言いながら、言葉に詰まった。頬を流れる涙が、悲しみのものだと気付くのは簡単だった。
私は、必死に頭をすりつける両親の肩に手を伸ばそうとした。違う、その子は死んではいない。その下に遺骨も何も存在しない。していたとしたら、それはどこか別なところから持ってきた、別な者の骨。
肺の奥底に、モヤモヤとしたものが溜まった。吐き出したいのに吐き出せないのは、何故なのだろう。この体が……自分のものではないせいだろうか。
「も、申し訳ございません……」
怒っているように見えたのか、父がこちらを見上げて、再び頭を下げた。それを隣で見ていた少年が、堪えきれなくなったように立ち上がる。
「なんで……なんで謝るんだよ、おじさんっ」
こんなやつに、と少年はこちらを指さした。思わぬ行動に、母が少年の腕を掴んで頭を下げさせようとする。
「どうしてだよっ、なんでだよっ!!こいつも同じようなもんじゃないか!こいつらが、連れていったんじゃないか!」
母の手を振り切り、少年はこちらに駆寄った。忘れ去られた手向けの花が、地面に落ちる。
次の瞬間、子供ながらに鋭い拳が左頬を打った。バランスを崩して倒れる体。私を追ってきた者達が、すぐに気付いて少年を取り押さえた。
「絶対許さねぇ……」
少年はもがきながら、ひたすら吠え立てる。最後に叫んだ言葉が、私には一番深い傷を追わせた。
「ラフィタ・メーリング!」
私を捜しに来た使用人が、私の体を抱き起こした。私はしばし呆然としていた。いや……呆然とていたが、口は全く違う言葉を吐き出していた。胸の中に溜まったものを全て、別な色へと変えて。
聞き覚えのない、自分の声が言う。
「目障りな奴らだ。……殺れ」
世界が、壊れる音がした。
☆
空気を吐き出す音だけが、その場に響いた。次いで聞こえたのは、転がり落ちた首が床にぶつかる音。噴水のように吹き出した血の雨が、銃口を濡らした。
私は目を見開き、そしてジェイロードは眉を顰めていた。今、目の前で起ったことをただ言葉にするのならば……二本の刃が、後ろからライラ・メーリングの首を飛ばした。それだけだった。
驚きを隠せない私の横で、ジェイロードが言う。彼のカイロスを持つ腕もまた、ライラの返り血で真っ赤に染まっていた。
「……錯乱したか、ラフィタ・メーリング」
「ふっ……」
状況を理解したかのように、血を噴き出していたライラの胴体が崩れ落ちる。その後ろで返り血を浴びた男……ラフィタは、静かに私に視線を向けた。
「種明かしをしようか、サーシャ・レヴィアス嬢」
「……!」
名前を呼ばれ、私は我に返ってクロノスとヒュペリオンを握り直した。生暖かい血液が指先を滑って落ちていく。ラフィタは私に向かって苦笑すると、ジェイロードにも視線を向けた。
「……ラフィタ・メーリングは十数年前に既に死んでいる」
私は顔を顰めた。ラフィタ・メーリングが既に死んでいるとはどうゆうことなのか。ジェイロードはカイロスの銃口を相手に向けたまま、静かに問いかける。
「……どうゆうことだ」
「言ってしまえば簡単だろう。此処にいるのはラフィタの偽物……いや、ラフィタの皮を被った別人ということだ」
2つの声のやり取りを聞きながら、脳裏には私に『真実』を教えた時の彼の言葉が蘇っていた。歪んだ答えを真とする世界、歪んでいるのはこの世界。
先ほど感じた違和感はこれだったのだろうか。ライラの謳う言葉とラフィタの発した理想には、微妙な差異があった。タブーを否定する妹と、歪んだ世界すべてを否定する兄。いや、兄の偽物。
「父は幼くしてなくした息子を、実験によって作り出そうとした。材料になったのは同い年の奴隷の少女。実験は成功したが、別の意識が入り込んだこの体では『魂の共有』など出来るはずもなかった」
淡々と語られていく彼の言葉。私は改めて彼を見る。確かに、最初に見た時は中性的な顔つきだと思ったが、体つきも骨格も、全て男だ。ならばメーリング家は、時の止まったラフィタの体に、まだ機能の死んでいない少女の臓器を繋げたのだろうか。預言書……万物の章によって得た知識で。
「……『魂の共有』は、父の理想だった。物心つく前から何度もその理想を聞かされたその女は、妄執者どもと同じ人間でね。兄に溺愛し、兄が死んだことを認めず……そして私と魂が繋がっているのだと言い出した」
最初から、その女は壊れていた。そう言いながら、ラフィタの皮を被った何者かは、赤く染まったライラの体を爪先で軽く蹴った。
「ジェイロード・レヴィアス。君が見た『魂の共有』は、私の魔力と彼女の自作自演で出来ていた。……どうだったかな、偽りの『魂の共有』は?」
「……」
ジェイロードは相手を睨みつけた。殺気がその場に満ちる。それは合図だった。戦いの火蓋が切って落とされるサイン。
しかし私は、それを無視して呟いた。
「あなたは……貴方は、取り乱すことをしないのですね」
2人の目が私に向けられた。ラフィタは微笑む。冷たい表情で。
「狂っている……」
「ふっ……それなら取り乱すのが正常な人間だろうか。もしかしたら狂っているのは貴女の方かもしれない」
「!」
「考えたことはないか?サーシャ・レヴィアス。……貴女はなぜ兄であるジェイロード・レヴィアスだけではなく、『過去の預言書』をも追うのか」
微笑むその漆黒の瞳が、私に寒気を起こさせた。
ラフィタはそれ以上のことを言わなかった。それでも彼が伝えようとした言葉は私の中に響いてきた。此処は理なき庭。正も否も分からない闇の中。何が間違っていて、何が正しいというのだろう。
「……それでは始めようか、レヴィアス兄妹?」
左手に握りしめたヒュペリオンが揺れている。