第3章 4
赤。その色を人は、誰かの教えによって知る。その色が赤なのだと、深紅の薔薇の色であり、人の体内を流れる血の色なのだと知る。しかし、知の根源たる教えが違っているとしたら、どうなるのだろう。
それは悪意の有無に関わらず……こう呼ぶべきではないだろうか。
- 嘘 -
知らなかったわけでも、考えなかったわけでもない。ただ、私はその真実を見ようとしなかった。口に出せば何かを失い、考えてしまえば私の根本にある全てを壊してしまうと気づいていた。
カタリナは何も言わなかった。私は赤子の頃から彼女に育てられ、生きていく方法を学び、身を守るために戦う術を叩き込まれた。そこに疑問は感じなかった。そう、カタリナが普通の人間だったならば。
「……私は」
最初の記憶など、持ち合わせていない。それは誰でも同じことだろう。この世に生まれ落ちた時の記憶がある者など、いたとしても殆どは何かの間違いか、後から刷り込まれた記憶だ。
私はただ、物心ついた時から旅をしていた。カタリナと……ジェイロードの3人だけだった。父の記憶は全くない。カタリナは父の存在しか語らなかった。
「……私は……」
私は、クロノスのバレルを握りしめる。
例えば赤という色を、人は誰かの教えによって知る。その色が赤なのだと、深紅の薔薇の色であり、人の体内を流れる血の色なのだと知る。しかし、知の根源たる教えが違っているとしたら、どうなるのだろう。青を赤と刷り込まれた人間は、誰かに教えを指摘されるまで気づくことはない。
それが何かの間違いであれ、悪意の有無に関わらず人はこう呼ぶ。
嘘、と。
私は大きく息を吐き出した。そしてラフィタ・メーリングの前髪に隠れた目を睨み返す。そして私は口にした。もう戻れない1つの真実を。
「私は……カタリナの実子ではありません」
ラフィタは唇を笑みの形に歪めると、それを隠すように片手で覆った。私はクロノスを握り直してラフィタに銃口を向ける。この男の笑い方は私を怒らせるには十分だった。
「……これで満足ですか?」
ラフィタは銃口を目の前にして恐怖した様子すら見せなかった。ただ静かに私と銃口を見つめ、そして右手を差し出す。自然な動作で……そう、吐き気がするくらい自然な動作で。
「満足?……いや、満足したのは貴女の方だろう。自身の歪な存在をはっきりとさせることが出来た……いや、歪んでいるのは貴女ではなくこの世界」
その手が訴えているものに、私はすぐに気づいた。この男は『ルミナリィ』を求めている。私がそれに該当すると考え、そして手に入れようとしているのだろう。
彼の手は静かに訴えかける。口にする言葉よりも多いものを。
「此処は理なき庭……歪んだ答えを真とするこの世界を、貴女は間違っているとは思わないか?」
同時に脳裏を過る母の顔。ヒュペリオンを手にして、どんな屈強な人間を相手にしても軸のぶれない立ち姿、あの精悍な表情。時にこちらに剣を向け、銃口を向け、私達を育ててきた『母親』。
思えば、最初は純粋に憧れたのかもしれなかった。嫌なら逃げれば良かったのだ。生きる為の術、戦う為の術、そんなものが無くても生きていく方法は数えきれないほどあった。もっとも……青を赤と教えられた人間には、逃げるという言葉すら与えられていなかったのかもしれないが。
『立ちなさい、サーシャ。早くクロノスを取りなさい。……一秒の遅さが、一時の迷いが、自分の命を脅かします』
過去の言葉が蘇る。それでも、立ち上がれない時はあった。足が棒のようになり、立ち上がれない時もあった。私は……ジェイロードのように強くはなかった。
母と兄が私を見下ろしている。カタリナは私を急かし、兄は立ち上がらない私をただ見つめていた。
『足があるのならば立てるはずでしょう、サーシャ。立ちなさい』
そう、私は立つしかなかった。立ち上がるという道しか敷かれていなかった。物心ついた時から私の生き方はすべて決められていた。それを憎むことも、嘆くことも教わらなかった。それが真なのだと、当然なのだと思わされていたのだから。
「……」
此処は理なき庭。差し出された手はそう言っている。頑なに歪んだ真実に固執することはないと、白い指先がそう語っている。
目眩がした。そして吐き気がした。私は何に嫌悪しているのだろう。私自身か、それとも……私自身か。
「サーシャ・レヴィアス」
いつの間にか、利き手が伸びていた。私は、私の手が彼の手を取るのをただ見ていればよかった。そう、その手を取った瞬間に、まるで憑き物が取れるように体が軽くなった。軽くなったのを通り越して脱力した。
「そう……それでいい」
ラフィタは私の手を取り、唇だけで微笑んだ。
☆
左腕が痺れてくる。血の気が引いて、指先の感覚が曖昧になっていく。僕は血を滴らせながら走った。フレイさんとははぐれてしまったけれど、サーシャさんのところに辿り着けば合流出来るはずなんだ。押さえた左腕の傷から血が滲み出して、服の袖を汚していく。
どれくらい彷徨ったんだろう。ただひたすらに走っていた僕は、小さな小屋のようなものを見つけた。麻薬畑の端に作られた木造の建物は、農作業用の蔵のようにも見える。
ふと僕はその小屋の入り口に探していた人の姿を見つけた。
「サーシャさん!」
安堵して、僕は声をあげた。サーシャさんは入り口の前で足を止める。こちらに背中を向けたままのサーシャさんに、僕は駆寄っていった。
「サーシャさん!良かった……無事だったんですね」
僕は振り返らないサーシャさんに、さっきのことを話した。魔物のような化け物に襲われたこと、フレイさんとはぐれてしまったこと……サーシャさんは何も言わずに、ただ足を止めていた。
「フレイさんとは会いましたか?あの、僕、サーシャさんと合流しろって言われて……あ」
ふと僕の後ろで、小石を蹴る音が聞こえた。フレイさんかと思って振り返った僕の思考は、そこで停止する。
ポタ、ポタ、と滴り落ちる、透明な液体。その赤く濁った目は僕等を餌として認識しているようだった。僕はハッとして自分の左腕を見る。指先から落ちた血液が、僕の立っている場所まで点々と続いていた。
「……自分で自分の居場所を知らせているようなものですね、それでは」
振り返ったサーシャさんは、溜め息をついて冷たくそう言い放つ。魔物のような姿に驚いた様子すら見せずに、ただ鬱陶しいといった表情だった。クロノスを持った腕が気怠げに上がっていく。
銃口は静かに真っすぐに、『敵』へと向けられた。迷いもなく、躊躇いもなかった。真っ黒な銃口は確かに……僕を見ていた。
「え……?」
引き金が引かれる。その瞬間、僕は咄嗟に飛び退っていた。
轟音はただの一発。興奮した魔物が呼応するように咆哮した。僕は腰を抜かしたまま、サーシャさんを見上げる。
「な……っ」
僕は、撃たれそうになったのか。今、あの銃口は僕を狙っていたのか。まさか……そんな、はずは……。
サーシャさんは顔を顰めて僕を見た。その冷たい瞳……ぞっとするような殺気を、僕は全身で感じた。いつもジェイロードさんに向けている、足を動かすことさえ難しいあの殺気。それが、僕に向けられて……?
「外しましたか……一発で仕留めようと、配慮したのですが」
サーシャさんがそう呟くのを、僕は信じられない気持ちで見つめていた。何故、どうして。ありきたりな僕の疑問に、サーシャさんは全て理解したような表情で堪える。
「……少々、気が変わりました」
「き、気が変わったって……ど、どうゆうことですかっ」
クロノスの銃口が再びこちらに向けられる。僕は腰を抜かしたまま後ろへと後ずさった。サーシャさんは僕の惨めな姿を目の前にして、冷たい瞳を変えない。
もう一度引き金に指が伸びたその時、小屋の扉が音をたてた。サーシャさんは視線だけでそちらを見る。そこに現れた男が誰なのか、僕は朧げにだけど理解した。
黒髪の男は銃声に気づいて扉を開け……クロノスを構えたサーシャさんと、力なく座り込んでいる僕を見て、唇をあげた。
「……ほう、まさか生き延びてくるとは。いや……」
男は漆黒の瞳で向こうにいる魔物を見る。僕があの場所から逃げてきたのは、それで一目瞭然だった。サーシャさんは銃を下ろしてその男に近づく。無警戒の様子に、僕はまた声をあげた。
「サーシャさん!?」
その人は、おそらく……いや、きっとラフィタ・メーリングだ。僕等が敵とするはずだった相手。刃を向けるべき、この『微睡みの庭』の主。奴隷達に麻薬を作らせ、裏では預言書を我がものにしようとしている人間。
サーシャさんはまるで従属するように彼の隣に立つと、僕の方を振り返ってこう言った。
「……ここは見逃して差し上げましょう。フレイさんにも伝えて下さい」
ラフィタ・メーリングは少し眉を動かしたけれど、サーシャさんの言葉に反論する様子は見られなかった。生かしても殺してもさほど変わりはない。そう言われているかのようで、僕は一気に頭の中が真っ白になった。
だって、サーシャさんはいつも強くて、自分の信念を持っていて……それが復讐っていうドロドロしたものだったけれど、その背中に僕は憧れたんだ。たった一つの、己の目的のためだけに生きるその姿。崇高で、荒野に咲く一輪の花のように気高くて。
だから。
「サーシャさんに……サーシャさんにとっては、僕らはまだ『契約』の関係なんですね……」
何も考えられなくなった頭の中に、初めて自分のことを話してくれたサーシャさんの背中が浮かび上がる。カタリナさんのこと、ジェイロードさんのこと……この人と一緒なら、僕は何かが変えられるような気がしたんだ。
あの時から……きっと僕だけじゃなくて、フレイさんだって……契約なんか、とっくに辞めていた。
「それは……逃げてるんじゃ、ないんですか……」
僕はレイテルパラッシュを強く抱いたまま、メーリング卿の隣にいるサーシャさんにそう言った。サーシャさんがこんなことを言い出した理由……そんなの、たった一つしかない。嫌な予感がしていたんだ。けど、その理由を口にするなんて、僕には無理だったから。僕が口にしちゃいけないことだったから。
「自分がカタリナさんの子供じゃないから、自分が一番信じていた人に『嘘』をつかれていたから……っ」
僕はサーシャさんを睨みながら、同時にメーリング卿を睨みつけた。どうしてそれを知ったのかは分からないけれど、きっとサーシャさんにその真実を教えたのはこの人だ。
サーシャさんは顔を顰めて僕を見ていた。僕は叫ぶ。
「だから、……だからっ!!」
サーシャさんにとってカタリナさんは絶対だった。それはきっと優しい記憶だけじゃない。厳しく、辛く、憎い時だってあったかもしれない。そんな全てが絶対だった。
だから、カタリナさんの命がジェイロードさんの手で奪われたとき、サーシャさんは復讐だけの人になった。カタリナさんに対する全ての感情が、全て復讐へと色を変えたんだ。
でも……一欠片も曇りのなかった信念に、カタリナさんの罪が、傷を付けた。
「……」
地面に向けられていたサーシャの視線が上がった。僕を見つめ、そして抱きしめたままのレイテルパラッシュに向けられる。
「……いつも逃げてばかりの貴方に言われたくはないですね」
サーシャさんの言葉は極めて冷静だった。僕の言葉に怒る様子もなく、ただ冷静に事態を見つめている。言葉が届かないことを、僕は悟った。
サーシャさんは続ける。
「戦うことも守ることも出来ない。過去にばかり囚われて、前に足を踏み出そうともしない。……その魔物に襲われて、私の所にくれば助かると、そう思ったのでは?違いますか」
「っ」
僕の腕の中でレイテルパラッシュがカチャリと鳴った。滴り落ちる血液。指先から力がなくなって、僕は自分の体が死んでいくような錯覚をおこした。
いや、違う。サーシャさんの視線に……微かに殺気が帯びた。僕は恐怖している。
「警告はすでに終わりました。私としては情けをかけたつもりでしたが……それでも引かないというのならば、引導を渡して差し上げましょう」
サーシャさんはそう言うと、クロノスの銃口を僕へと向けた。はっきりと定められた照準、そしてこの距離。間に合わない。足が動かない。
「サーシャ、さ……っ」
銃声が轟く。背後で魔物が咆哮している声だけが、痛みに悲鳴をあげる体の中に残った。