第3章 3
人は死を嫌い、ひたすらに生を望む。誰一人として、生ける者が死を体験することは出来ないから。僕はもしかして安堵しているんだろうか。これは恐怖ではなく、願いではなく、罪悪感なのだろうか。あの時、何があったのかは分からないけれど……僕は運良く生き残ってしまった。
そう。僕だけが、今此処にいる。
- 生への執着 -
魔物はフレイさんの気配に気づいて動きを見せた。不穏な気配を見せるフレイさんをターゲットにしたのだろう。地面に突き刺さっていた爪がフレイさんに飛びかかる。
僕は咄嗟にその攻撃の下に入っていた。まだ心の中はモヤモヤしていたけれど、これだけははっきりと分かる。僕一人ではこの魔物をどうすることも出来ないし、フレイさん一人でも倒すことは出来ない。
「っ、……う」
剣に衝撃が伝わってくる。それは重い攻撃だった。飛びかかったわけでもなく、ただ前足を振り上げただけなのに、この力は一体なんなんだろう。下半身を蛇の体で支えているのに、どうしてこんな攻撃が出来るのか。
攻撃を阻まれた魔物は、片方の頭で僕を睨みつけた。息が詰まるような、殺気の籠った目。
「クリフ、離れろっ」
フレイさんの言葉に僕は剣を相手側へと押しやった。本当に僅かな隙を縫って、僕は魔物の後ろへと転がり出る。勿論、今まで体験したこともない状況に、心臓から今までにないスピードで脈打っていた。
次の瞬間、フレイさんの足下に大きな魔法陣が現れた。白い光を放つ陣に、魔物が一瞬身構える。強い風が陣の中につむじ風を起こし、巻き上げられた砂が人の形を作り出した。
褐色の肌に、左頬の傷痕。フレイさんの前に現れたヴァルナは、僕等の前に立ちはだかる魔物を見て、憂いのこもった目をした。
『……獣とはいえ、生を弄ぶか……やはり人に知など無い方が良いようだ』
「ワケ分からねぇこと言ってないで、なんとかしろっ!」
フレイさんは上を向いてヴァルナにそう叫んだ。僕らにとっての要はヴァルナしかない。本当ならば、対メーリング卿のための力だったんだけど。
ヴァルナはチラ、とフレイさんを見下ろすと、溜め息を吐いて右手を差し出した。
『よく聞け、ファーレンの血を受け継ぎし者。……その獣は人の手によって縫合された命。しかしどうやら失敗作と見える』
「失敗……?」
僕はそう呟いて、魔物に視線を向けた。心を落ち着けてよく見てみると、たしかに獅子の上半身、刃の翼、蛇の尻尾……それぞれが微妙に別々の動きをしている。上半身の2頭分の頭は互いに別な意思によって動いているらしく、互いに互いが疎ましそうに見えた。
フレイさんは言う。
「つまりは……繋ぎ合わせたそれぞれの体に別々の意思があって、思った通りに動かないってことか」
『いかにも。しかし、不完全ではあるが生命の縫合……その技術と知を持った者がいるようだ』
フレイさんが舌打ちをした。メーリング家が沢山の冒険者を集めていることは知っていたけれど、まさか預言書を使ってこんな技術まで持っていたなんて、思いもしなかった。
でも……どうしてメーリング家は、こんなことを……。
「んなことどうでもいい……さっさとコイツを片付けるぞ。クリフ!援護しろっ」
フレイさんの一喝で、また柄を握る手に力が入った。ヴァルナがしっかりと獣を見据えている。
魔物と対峙しながら、背中に汗が流れていく。僕は思った。サーシャさんは何故、あの影を追っていってしまったのだろう。サーシャさんらしくない行動だった。
剣がカチャリと鳴る。一瞬浮かんだ疑問は、また恐怖と罪悪感の中に消えていった。
☆
「『ルミナリィ』……?」
私はラフィタの体を引き離してクロノスを構え直した。『ルミナリィ』とは初めて聞いた言葉だった。しかし彼の言葉から察するに、不老不死の技術のことを差しているように思える。
ラフィタは黒い瞳を細めた。
「メーリング家は代々、トゥアス帝国のルミナリィを再現するために独自の知を積み重ねていた」
「第二の帝国となる為……ですか」
私はクロノスの引き金に力を入れた。発砲はしないものの、メーリング家の愚行が癪に障っていたことはたしかだ。不老不死などというものに左右されなければ、カタリナはあんな風に死んでいくことはなかった。実の息子に殺され……娘に嘘をつかれながら、死んでいくことも。
私は嘲笑の表情で口を開く。
「……その『ルミナリィ』としての実験体が必要ならば、私よりジェイロードが適任では?彼は不老不死の力の他に、預言書の蒼天の章と、科学技術も持ち合わせていますよ」
あえて私達が持っている原初の章の話は口に出さなかった。しかしラフィタは私を見つめ、口元で笑う。そして彼は、違和感のある瞳で私を見た。
強い風が麻薬畑を揺らして去っていく。
「ジェイロード・レヴィアスは……『ルミナリィ』ではない」
私は目を見開いた。ジェイロードが、ルミナリィではない……?
かき消そうとしていた幼い記憶の中から、いくつかの思い出を呼び起こす。ジェイロードは確かにカタリナの血を受け継いで不老不死の力を持っていた。互いに訓練を繰り返す中で、私はそれを知った。
「……っ!」
一瞬、頭の中に1つの答えが浮かんできて、私は息を詰まらせた。そしてその言葉を導き出した自分自身を呪った。
無意識に足が後ろへと下がる。ラフィタはクロノスを持つ腕を掴むと、逃げることが出来ないように力を込めた。強い力に私は顔を顰める。細い体の何処にこんな力があるのか。
「もう一度言おう。ジェイロード・レヴィアスは『ルミナリィ』ではない」
「……、黙れ」
私はクロノスの引き金を引いた。しかし、ラフィタの力によって照準を逸らされていた銃弾は、虚しく畑の向こうに消える。
ラフィタが近づくと同時に、私は後ずさった。それ以上言うな。その言葉を、私は聞きたくない。
「黙れと言って……っ!」
やろうと思えばすぐに出来ることだった。しかしこの男の前では何故か、そうすることすら無意味に思える。目の前にいる敵は一人のはずだ。それが何故か……2人いるように思える。
ラフィタは私の手を捻りあげた。クロノスが虚しく地面に落ちる。
「そして……ジェイロードがそうでないように、彼の母カタリナもまた……ルミナリィではない」
顔を近づけて彼は囁く。私は顔を逸らしたまま、動けずにいた。
「聡明な貴女が気づいていないはずはないのだが……それとも、その真実すら放棄したのか」
「……っ」
私は渾身の力でラフィタの腕を振り払った。
そうだ、気づいていないはずはない。本当は分かっていた。分かっていたことを、私は全て閑却した。否定することも肯定することも放棄し、私の中でその真実は零になった。
カタリナは不完全ながら不老不死の力を持っていた。ジェイロードを生むことで不老不死の力を失い、彼女は老いていくこととなった。
ならば、私は?
ラフィタは優しく、労るように囁きかける。
「真実を知ることは恐ろしい。……サーシャ・レヴィアス、貴女は」
私はラフィタと顔を合わせないまま、静かに、そしてはっきりとした声で言った。言ってしまった言葉は、おそらくもう隠すことは出来ない。それでも、構わない。……もう、構わない。
それはもう、陽の下に晒されてしまったのだから。
「……私は……」
☆
土を押し上げる、微かな揺れ。僕はレイテルパラッシュを構えたまま、突然の地震に耐えた。次の刹那、魔物の四方から植物の蔦が這い出てきた。アンブロシアでサーシャさんを捕らえた、あの蔦だ。
蔦は獅子の前足を拘束し、体のバランスを崩す。2本の前足と蛇の尻尾で支えられていた体は、簡単に体勢を崩した。
「クリフ!」
フレイさんの言葉に僕は一度だけ躊躇した。でも……ここで僕が動かなければ、負けるのは僕たちだ。あの魔物の餌になるのか、それとも単に引き裂かれて終わるのかは分からない。
勝たなければ……殺さなければ、殺される。それが全ての、単純過ぎる摂理。殺したくないけど、殺されたくないなんて、そんな都合の良いことは通らない世界。
僕は歯を食いしばった。そして叫んだ。
「ああぁぁーっ!!」
レイテルパラッシュを持つ手に力が入った。蔦を切ろうともがく獣めがけて、刃が近づいていく。しかしその瞬間、もがくのをやめた獣がこちらに向き直った。
「!」
ストッと、風を切って何かが突き刺さるような音がした。次の瞬間左腕が熱くなって、僕はとっさに左腕を見る。そこにはあの獣の羽根……刃のように鋭いあの羽根が一枚食い込んでいた。じわりと滲み始める血を見た瞬間、僕はやっと痛みを覚える。
「うっ……」
咄嗟に深く食い込んだ刃を抜くと、零れるように血液が流れ出した。血の臭いに、魔物はまた咆哮する。
「クリフ!」
フレイさんの叫び声で、僕は左腕を押さえたままハッとした。獣が蔦を喰い破り、こちらに飛びかかって来ようとしている。逃さないようにとヴァルナの蔦が絡み付くけれど、蛇の下半身はそう簡単に捕らえることが出来なかった。
噛み付くように伸びてきた蛇の尻尾が足を捕らえる。地面に転がされた僕の背中に、魔物の鋭い爪が突き刺さった。引き裂くような爪の動きに、僕は声にならない悲鳴をあげる。流れ出す血の臭いが更に魔物を興奮させているようだった。
「くそっ」
フレイさんは舌打ちをして、口の中で何かを唱えた。その瞬間、獣めがけてカマイタチが起った。強い風が獣に絡み付き、その体に無数の傷を追わせていく。
僕は近くに落ちていたレイテルパラッシュを拾ってフレイさんを見た。本当なら、フレイさんもヴァルナの召喚だけでかなりの魔力を使っているはずなんだ。
突風によって砂が巻き上がり、砂嵐となる。僕等を隠すように吹き上がる砂の壁。視界が悪くなる中で、僕はフレイさんの声を聞いた。
「クリフ、ここは一旦引いて、サーシャを探すぞっ」
「っ、はいっ」
獣の姿は見えなくなっていた。でも同時に、フレイさん達の姿も見えない。僕は後ろに警戒しながら走り出した。流れ出した背中と腕の血は止まることなく、僕は歯を食いしばる。
滴り落ちる血の後が点々と僕の足跡に続いていた。