第3章 2
彼は全てを見ていた。微睡みの庭の中心で、静かに笑う。そろそろこの暗い暗い部屋を出なければいけない。待っていたもう1つのモノが、自分の屋敷を目指しているのだから。
それが手に入った時、彼の願いは叶う。
- 彼は見ている -
太陽が照りつける草原。林も森もないまっさらな大地では太陽から隠れることが出来ない。陽光の集中攻撃を受けるように、俺たちは麻薬畑の広がる道の上を歩いていた。
「その屋敷ってとこまで、どれくらいかかんだよ?」
俺はいっこうに見えてこない目的地を探しながら呟く。朝早くに街を出たが、畑の中に入ってからずっと同じ風景が続いている。どれだけ歩いても同じ風景ってのは、考えているよりもずっと人を苛立たせるもんだ。
横を歩くサーシャは、歩いてきた道のりを振り返り、そして太陽の位置を確認した。
「……あと2、3時間といったところでしょうか」
「の割に、全く見えてこねぇぞ。屋敷」
遠くを見つめる俺に、サーシャは道の傍らに生えている細い葉を引き抜いてみせる。
「おそらくこのリル・インの葉に隠れて見えないんでしょう。……思ったよりも背の高い植物のようですし」
そう言ってサーシャは俺の鼻先にリル・インを突き出してみせた。俺はそれを受け取って、葉の一枚をむしり取る。微かに鼻孔に薫るこの香りが、この麻薬の特徴だ。
俺は葉を裏返し、しみじみとリル・インを見つめた。
「どんな麻薬かと思ってみれば……そこら辺に生えてる草の変形種か」
葉脈の形や根が複雑に絡み合った様子をジジイの本で見たことがある。思えばあの野草も、干して粉々にすれば特殊な薬になったはずだ。サーシャは俺の手の中のリル・インからもう一枚葉を千切り取ると、くしゃくしゃと手の中で揉んで、葉の香りを嗅いだ。
「噂によれば……干した葉を粉状にして、火で燃やすとその効果が現れるそうですね」
「ああ。干さない状態で燃やすと、効果は少ないな」
俺は根のついた茎の部分を畑の中に放り投げた。そしてふと隣を見ると、サーシャがこちらを見ていることに気づく。
「……何だよ」
「いえ。やはりファーレン様に反抗して植物の勉強をしていただけのことはあると思っただけです」
俺は眉間に皺を寄せた。誰だ、コイツに俺の子供時代を話したのは。ファリーナか、それともオフクロか?それに大体、褒めるならもっとマトモに褒められないのかコイツは。
サーシャはふぅ、と息を吐いて後ろを振り返った。少し離れたところをクリフが歩いている。徐々に俺たちから遅れていくクリフ。あいつ、チンタラ歩いて何考えてやがるんだ?
「……」
様子がおかしくなったのは、船の上で機械人形に襲われたときだった。あの時はいつも通り足を引っ張っているように見えたが……もしや、久々に機械人形に襲われて怖くなったのか?
「オイ」
俺がそう呼ぶと、クリフは少し遅れて顔を上げた。
「あ……は、はいっ!な、なんですか?」
慌てて駆寄ってくるクリフに、俺は大きく溜め息をつく。そして先を歩くサーシャの背中に問いかけた。
「……コイツ連れて来て正解だったのか?」
「さあ?」
サーシャは振り返ることもなく、そう答えた。ふと振り返るとクリフがじっとサーシャの背を見つめている。なんだ?コイツ、この化け物女に惚れやがったか?
俺が口を開こうとしたとき、唇を結んでいたクリフが何かを決心したような顔で声を投げた。
「あ、あのっ……僕、サーシャさんに、聞きたいことが……っ!!」
クリフの言葉に、サーシャがふと足を止めた。クリフの話を聞くのかと思いきや、続けて口を開いたクリフを左手で制止する。
「?……サーシャさん?」
「ちょっと黙って下さい」
俺はサーシャの見ている方向に視線を向けた。道の向こうで、黒い影がくるりと背を向ける。遠過ぎてはっきりと顔までは見えなかったが、奴隷には見えない服装をしていた。
サーシャは素早くクロノスを手にすると、その影を追って走り出した。
「ちょっ……オイ!」
制止の声をあげたが、サーシャが立ち止まるはずもない。しかもアイツは体力も化け物なら、足の速さも人より上。追いつくはずもない。
俺がもう一度サーシャの名を口にしようとしたその時、真後ろにいたクリフが引きつったような声をあげた。振り返るとクリフが口をパクパクさせながら、何かを訴えている。
「うるせぇっ、今それどころじゃ……っ!?」
俺はクリフが指差した方向に視線を向けて、そして凍りついた。
「……な……」
俺は後ずさり、そして辺りをもう一度見回す。クリフもまた、カタカタと震えながら視線を巡らせている。
背中をぞくぞくと駆け巡る、本能の警告。俺は声を失ったように、ただ突然現れたモノを見つめていた。状況を飲み込むまで要した時間に比例して、サーシャの姿は小さくなっていく。
「……んだよ、コレは……っ」
俺はもう一歩後ずさりながら、たった一つだけ理解した。
過去の預言書に記された『万物の章』の意味を。
☆
影のように見えていた姿が、徐々に大きくなってくる。私はクロノスを片手に逃げていく影に照準を合わせた。そしてそこから少し下へと狙いを下げる。空に向かって威嚇射撃をしたところで、相手の足は止まらないだろう。私は相手の地面に向けて、2、3発の銃弾を放った。
「っ……」
狙いは狂わなかった。相手は足を止めると、こちらを振り返る。私はクロノスを構えたまま、一歩、二歩と近づいていった。やがて影にしか見えなかった相手の姿がはっきりと浮かび上がる。
それは漆黒の正装を纏った男だった。黒髪に、長い前髪……かすかに見える瞳もまた黒く、白い肌がまるで石膏か何かのようだった。体は細いものの、虚弱な印象は見受けられなかった。
私は目を細め、クロノスの銃口を向けた状態で口を開く。
「ラフィタ……ラフィタ・メーリング卿ですか?」
男は黒い手袋で顔の右半分の前髪をかきあげた。闇のような漆黒の瞳が笑う。一度息を吸い、そして吐き出すと、ハスキーな声で応じる。
「……いかにも」
「……私のことはご存知で?」
ラフィタは頷くと私の方に一歩一歩近づいて来た。私はクロノスを構え、指先に力を入れる。撃つことはいつでも出来た。それでも実行に移さなかったのは、今すぐこの男を殺すよりも、必要な情報を搾り取ることの方が重要に思えたからだ。
ラフィタは私の空いているほうの手を取ると、手の甲にキスをした。
「勿論。……『サーシャ・レヴィアス』嬢」
「……そうですか。その名を呼ぶということは、随分色々と知っておられるようですね」
私は手を離すと、ラフィタを睨みつけた。彼はフッと笑って私を見下ろす。前髪で見えない表情は、彼のすぐ近くにくるとはっきりと見ることが出来た。
私は静かにクロノスの照準を目の前のラフィタ・メーリングに合わせた。この距離ならば、外すことはまずない。
「ならば、単刀直入に話していただきましょう……わざわざこちらを出迎えた理由と狙いは?」
「……」
ラフィタは静かにこちらを見つめる。クロノスを目の前にして、微動だにしない様子はさすがメーリング卿といったところだろう。
答えて下さい、と再び銃口を近づけると、ラフィタは焦る様子もなく両手を上げて見せた。
「……私には、貴女が必要だ」
「必要?」
前髪に隠れた瞳と、私の視線が混じり合う。私は即座に顔を顰めた。この男……何か違和感を感じる。
クロノスはいつでも撃つことが出来るようになっている。私は静かに相手の目を睨み返した。ラフィタは瞳の奥で笑うように、こう言った。
「有史以前の歴史、トゥアス帝国が生んだ『ルミナリィ』……研究者としては是非見ておきたい。それに……」
つ、とクロノスの銃口に指を滑らせ、ラフィタは私の右腕を掴んで引き寄せる。私はその手を見つめ、そして眉間に皺を寄せた。
ラフィタは囁く。
「……貴女と私はよく似ている」
☆
地面に爪をたてる。畑の肥えた土は爪の跡を残し、そして麻薬の畑は静かに揺れた。
僕たちはただ呆然としていた。そこに現れたものが、今まで見たこともないほど奇怪で、グロテスクなものだったから。恐怖は背中を駆け巡り、力を忘れた腕からレイテルパラッシュが落ちた。
「……んだよ、コレは……っ」
フレイさんでさえ、そう呟くのが精一杯だった。
「……っ」
僕は震える足で一歩、後ろに下がる。その瞬間、その奇妙なモノはチラ、と僕に視線を向けた。
「ひっ……」
その目は真っ赤に充血していて、牙の見える口からは涎が滴っていた。獅子を思わせる上半身は肩の辺りから2つに分かれていて、2頭分の頭は互いにこちらを睨みつけている。
背中には鳥の羽根を思わせる翼があったけれど、一枚一枚の羽根はまるで金属の刃で出来ているようだった。下半身は波を描くように動く、蛇のような体。
「……っ!」
それはまるで、ありとあらゆる生物、無生物を無理矢理繋ぎ合わせたような体。魔物とか、悪魔とか……例える言葉は何でもいい。兎に角、僕等の目の前に現れたのは、自然界では有り得ない生物。
その魔物は鋭い爪を畑に突き刺し、そして威嚇するように高く咆哮した。その恐怖に、僕は足がガクガクと震え、立っていることさえ容易ではなかった。
チッ、とフレイさんが舌打ちをする。相手がこちらを狙っているのは明白だった。そして先に行ってしまったサーシャさんがこちらの状況に気づいている可能性は低い。
フレイさんは言う。
「俺たちをサーシャから引き離すのが目的か……。クリフ!」
「は、はいっ」
僕は慌ててレイテルパラッシュを拾い上げた。フレイさんは魔物に視線を向けながら言う。魔物はお預けをくらう犬のように涎を垂らしながら、地面を何度もかいていた。
フレイさんは真剣な面持ちだった。
「……剣を抜け」
「!」
僕は驚いてフレイさんを見る。そんな、こんな訳の分からないものに……剣を向けることなんて、出来ない。
「いいから、剣を抜け!お前も一応剣士なら、俺一人でどうにか出来る相手じゃないことくらい、分かんだろっ」
「で、でも……っ」
「早くしろ!」
フレイさんが叫ぶ。その声に魔物が反応を示したようだった。地面をかいていた前足に力が入る。きっとこちらに接近しようとしているんだ。
僕は泣きそうだった。レイテルパラッシュの柄を握る利き手に、迷いが生じる。駄目だ、やっぱりあの頃のように剣を振るうことが出来ない。
臨戦態勢のフレイさんが、僕に最後の一声をぶつける。
「さっさとしろ!死にたいのか!?」
「っ、死にたくないです!!」
僕は叫んだ。詰まっていた何かを吐き出すような一言だった。死にたくない。死にたくないなら、剣を抜くしかない。
戦うしか、ない。
「……っ」
僕は鞘から剣を抜いた。鞘と刃が擦れる静かで澄んだ音。少し前までは、なんて綺麗な音だろうと思っていた。でも……これは同時に、大切な何かを奪う予兆。その殆どは命であり、『生』なんだ。それを奪うことはこの世界を形作る幾重もの生物にとって、絶望でしかない。
今になって、僕は後悔してる。サーシャさんについてきたこととか、そうゆうことじゃない。もっともっと昔……剣士に憧れて、剣の道を目指そうとしたときのことを。
もし僕がその道を目指さなければ、今僕はどうしていただろう。家族と共に、あの場所で幸せに暮らしているんだろうか。それとも……。
「我、汝が主の名を受け継ぎし者。汝、この声に答え、我らの道を阻むものに制裁を……」
フレイさんの声が木霊する。あの蛉人を喚び出すつもりなんだ。
僕はスッと剣を構える。ここのところまともに剣を振るっていないのに、傭兵学校で染み付いた動作は消えていなかった。
ヴァルナの名を、フレイさんが口にする。
「イデア・トゥルーン・レ・ヴァルナ!」
刃の震えは、まだ止まらない。