第2章 1
この世界に、正しいことは一つも存在しない。個が集まり複数を形成するという概念すら、人が決めた規則に過ぎないからだ。時として人を殺める行為ですら、正当な意味を有することもある。
この世界に成否など存在しない。正しい答えなど存在していない。成否なきこの世界をどう生きるのか、その答えは己の中にしか存在しない。
- 正否なき世界 -
死というものを強く意識したのは、初めてのことではなかった。ただ、あの時、あの瞬間、私の中に溜まったすべての感情が流れ出し、体は強く死を求めたのだ。まるで乾いた喉が水を欲するように、それはごく自然の成り行きのようだった。
「……」
私は地下室にいた。正確に言うのならば、地下の武器倉庫の中で、私は確実に自分を殺すことのできる武器を選んでいた。まるで他人事のように、ナイフと剣を選別する私の腕。銃器にも一度手を伸ばしてみたが、それを使うにはまだ私の心が静まっていなかった。
「……」
静かに指先がナイフの刃をなぞり、その切れ味を確かめる。赤く染まった一筋の傷跡が、赤く冷たい液体を垂れ流していた。慣れた手つきで逆手に持ち直し、刃の先を自分に向ける。
確実に死ぬ方法は分かっている。数年前まではグロックワースの暗躍部隊として幾人もの人間を手にかけてきたのだから。まさか自分がこんな静かな死に方をするなど当時は微塵も思っていなかったが。
「……」
深く息を吐き、ナイフの柄を握る手に力を込めた。その瞬間はまるで永遠のように長く感じられた。刹那に通り過ぎるいくつもの記憶。それはどれもが、あの人を思い出させるものばかりだった。
この刃が皮膚を貫き、赤い血が流れ出す頃には死神の顔を拝むことが出来る。深い深い溜め息が、まるで耳元に響いてくるようだった。
刃が皮膚の上を滑る直前、私の手はまるで錆び付いたように動きを止めた。
「っ!?」
微かな人の気配を、私は感じ取った。それは上手く気配を隠すようにして近づいてくる。まさか軍部の人間が異常事態に気付いたのか。私はナイフを首筋から放した。
こちらの様子に気付いたのか、相手は気配を消すことを止めて、地下室の扉を開いた。
「……誰だ」
「ただの通りすがり……と言うわけにもいきませんね」
扉を開けたのは女だった。歳は40過ぎといったところだろうか。乾燥し日焼けした肌、潤いのない三つ編みの髪、歳の割に締まった体……一目で旅人だと分かった。整った顔立ちと切れ長の目が印象的な女。それがカタリナだった。
「少々水を分けていただければと思って立ち寄ったのですが……上の階に子供が一人いるだけで、親の姿がないようなので家の中にあがらせていただきました」
カタリナは見なかったようにそう言った。私は顔を顰めて立ち上がる。苛立ちの籠った声が、彼女の言葉に応えた。
「……水なら今はない。少し下った所に川があるはずだ」
私は服の埃を払い落とし、ナイフを鞘に納めた。すると、カタリナの後ろから小さな影が二つ、顔を出す。
「!」
まるで私が武器を仕舞うのを待っていたようだった。それまでカタリナの気配しか感じていなかった私は、現れた2人の子供に目を奪われる。子供はどうやら兄妹のようだった。
カタリナは振り返ると、子供達に視線を向けた。
「ジェイロード、サーシャ。……水を汲みに行ってもらえますか?」
カタリナの言葉にサーシャは素直に頷き、ジェイロードは少し考えたうえで、こちらに背中を向けて歩き出した。サーシャがその後を追って歩き出す。
気味の悪い子供だ。私ははっきりとそう思った。2人とも、完璧に気配を消していた。子供達の背中を見つめる私に、カタリナは口角を上げる。
「……気になりますか?」
「別に。……それより、お前も子供達についていったらどうだ?川辺はまだ賊が多いぞ」
早く出ていけ、という念を込めて私はそう言った。賊が多いのは本当のことだ。子供が2人で川辺に現れれば、すぐに目につくだろう。たとえ自在に気配が消せるのだとしても、あの兄らしき子供でもまだ13にも満たない。
しかしカタリナは後を追うことはしなかった。
「構いません。それより……ここは随分と寂れた場所ですね」
「!」
カタリナは扉の横の壁に背中を預ける。私は奥歯に力を込めた。
ここは中立国グロックワースが隠し持つ唯一の剣、国王直属の暗躍部隊が暮らす小さな村だった。帝国時代に武器保管庫として利用されていた施設を改良したもので、帝国終焉の混乱に乗じてグロックワースが大量に手に入れた兵器が納められている。
しかしそれは、つい先日までの話。今ではここはただの武器の墓場でしかない。
「外の風化具合は実に奇妙……最近作られた建物が風化しているように見えますが」
「……」
「人の気配があるようでない。貴女と、上の階の子供以外には」
まるで全てを見透かすような透き通った青い瞳。乾いた肌や髪に不釣り合いなほど、強く美しい瞳だった。もしかしたら彼女が死神かと思うほど……人間に必ずあるはずの未熟さが、彼女には見当たらなかった。
私は彼女との間合いを計算しながら口を開く。
「……数日前に、全てが風化した。信じないとは思うがな」
「……」
「私と娘は都に出ていた。……帰ってきたらこの有様だ」
たった一夜だった。全てが消えてしまったのは。其処にあったはずの仲間、生活……たった1人の、娘の父親も。全てが灰になってしまったかのようだった。
暗躍部隊の私達はその存在さえ国家機密。此処には花を供える者すらない。……誰一人として。
「ここもですか……」
カタリナは足下を見つめながら静かに呟いた。
これに似た現象は、私も幾つか伝え聞いたことがあった。もちろん、当時は国家同士の緊張状態が高まっていた時代。国家に揉み消され、その情報は一般の人々には届かなかったのだが。
「……お前にとっては他人事だろうな」
私は苛立ち紛れにそう言い放つ。仲間と大切な人を失い、死を望んだ私にも怒りという感情はあった。何も言わないカタリナに、この無念を、この絶望を、叫び散らしてやろうかとも思った。しかし生来の性格か、それとも私の何処か……普通の人間が持つはずの感情が死んでしまっているのか、唇はそれ以上を吐き出すことなく閉じられた。
そう、どれだけこの苦しみと悲しみを語ろうと、この女は他人。口にするのが言葉ならば、その時点でもう、痛みは客観へと変化する。命の重みと、命という言葉の重みは絶望的な差があるのだから。
カタリナは息を吐くと、壁から背中を放した。そして静かに私を見下ろす。
「ええ。他人事です。……私達はただ水を貰う為に立ち寄っただけですから。貴女が死を選ぼうが、私には関係のないこと」
カタリナの青い瞳はまるで鋭利な刃のようだった。嘘のない瞳とは彼女のことを言うのではないかと思うほどに。
「ですが、もし気が削がれたというのなら……」
こちらに背を向けると、カタリナは静かに呟く。
「子供達の食事をお願い出来ますか。ここ数日、まともに食べさせていないので」
☆
静かな雨音が船を包み込んでいる。私は船内から甲板を見つめながら、溜め息をついた。この状態では航海も少し遅れが出るだろう。微睡みの庭に着くのも遅くなるかもしれない。そうなると、預言書を手にするのはジェイロード達か、メーリング卿か……。
船の中は酷く静かだった。おそらくもう真夜中を過ぎたのだろう。船員の姿もほとんどなく、窓硝子には冷たい空気が漂っている。私は船室の扉が立ち並んだ廊下を見つめ、静かに壁に背もたれた。
「サーシャお姉ちゃん」
ふと聞き覚えのある声に視線を向ける。見ると、少し離れた船室からメイが顔を出していた。私は窓硝子から外を確認してメイに近づく。
「メイ。……もう子供の寝る時間では?」
月並みな言葉に、苦笑が込み上げてきた。メイは頬を膨らませると、キョロキョロと辺りを見回す。
「だって……お母さんまだ帰ってこないんだもん」
「セルマが?」
私はもう一度廊下を見渡した。しかし人の気配はない。セルマに心配は無用と思うが、やはりメイは不安なのだろう。しきりに母の姿を探しては、寂しそうな顔をしていた。
『……貴女とメイは母娘という感じがしませんね』
ふと、私の脳裏に母の……カタリナの言葉が過る。それは随分前の記憶だ。まだ私がセルマ達と出会って間もない頃。暗躍部隊として生きてきたセルマの情報収集能力を買い、カタリナがよく彼女の元を訪れるようになった時のことだ。
『そうか。……そうだろうな』
その日、あの家の居間には私とカタリナ、セルマしかいなかった。ジェイロードは地下から取引の商品を持ってくるように言われて席を外し、まだ4歳ほどだったメイはジェイロードの後を追って地下の階段へと消えていった。
母はソファに腰を下ろしたままのセルマを見下ろして、静かに呟いた。
『地下室で出会った時……貴女はメイを置いて死のうとしていましたね』
『……』
私は客用のソファに座ったまま、母とセルマの会話を聞いていた。口を出すべきではない雰囲気が、2人の間に漂っていた。もちろん私は何かを問われるまで口を開くことはしなかったけれど。
セルマは武器庫のリストを確認しながら、溜め息をついてペンを下ろした。その時の彼女の横顔は、不思議と私の中で強く印象に残っている。まるで懺悔をする人間のような……そんな顔だった。
『私は……メイを母親として愛せない』
『……!』
当時まだ幼かった私も、セルマの言葉に衝撃を受けた。愛情といった言葉はなんとなく理解していたが、母と子の間にあるものを、否定する人間は初めてだったからだ。それは必然的に……絶対的に存在するものと、幼かった私はそう思っていた。
しかしそれは、小さかった私の視界で見ることのできた範囲の話。
『あの日……全てが消え去ったあの日、メイがいなければ私はこの場所に留まっていたはずだった』
メイを連れて武器庫を離れた理由。それは実に些細なものだった。辺境特有の冷たい風に体調を崩したメイを、セルマはグロックワースの都の医者のところへ連れていったのだ。
当たり前で、些細な理由。それでも、それはセルマにとって最悪なまでのタイミングだった。
『……』
私は静かにカタリナを見上げた。何故そうしたのかは、自分でもよく分からない。ただ私は、カタリナが次に何かを言うであろうと、そう思っていた。
しかし、私の思う通りに事は進まなかった。
『……サーシャ』
兄の声が、地下室の方から響いてきた。手伝ってくれ、という言葉に、私はソファから飛び降りる。地下室へ続く階段から2人の姿を振り返った時、カタリナはじっと足下を見つめていた。
あれ以来、セルマとカタリナの間でその話は交わされなかった。問いかけることも憚られ、結局私は未だにセルマの気持ちを知ることが出来ない。
ただ分かることは一つだけある。セルマがメイを本当に愛していようがなかろうが、セルマがメイの母親であることに間違いはないのだ。
「?……サーシャお姉ちゃん?」
ふと下から顔を覗き込まれ、私は我に返った。メイが不思議そうな顔で首を傾げている。私は息を吐くと、メイの顔を見て言った。
「考え事をしていただけです。……セルマに会ったら、早く部屋に戻るように伝えましょう」
「うん。ありがとう」
メイはセルマに似た目元で、彼女には出来ない笑顔で笑って見せた。