第5章 3
違ってしまった道は、もう戻ることはない。だから人は過去に想いを馳せるのでしょう。懐かしき日々を恨み、羨む。二度と戻ることのない追憶の日々を思いながら、人は明日を生きていかなければいけないのだから。
だから……そう、いってらっしゃい。過去を背負い、そして未来へ。
- 彼女の優しい瞳 -
光は眠気の覚めやまない目には眩しく、刺激のある色で煌めいている。フレイさんとクリフさんよりも早く朝食をとった私は、またあの一本木の前に来ていた。あの『ビルギット』と名付けられた鳥が忙しなく雛に餌をやっている。茶色の羽毛から白い翼へ変化したところを見ると、もう少しで巣立ちの時期なのだろう。ふと私は足下に視線を向ける。
「……」
そこには、弱々しい声で鳴く小さな白い雛の姿があった。巣から落ちたのだろうか。私はそっと雛を手に取る。
「……怪我は……なさそうですが」
人間に拾われたことが怖いのか、雛はピイピイ鳴くのを止めてじっとこちらを見つめている。巣に帰しても良いかもしれないが、人間の臭いがついていることに気付いて『ビルギット』が餌を運ばなくなってはどうしようもない。
どうするべきかと、巣と雛を交互に見つめていると、後ろから声をかけられた。
「あら……早いのね」
「おはようございます」
私はこちらへ歩いてきたエメリナさんに頭を下げた。盲目とはいえ、私の行動は気配で分かっているのだろう。彼女は私の隣まで来ると、手の中の雛に顔を向ける。
「あらあら……拾ってしまったのね」
「ええ。今どうするべきかと悩んでいたところです」
エメリナさんは私の言葉に微笑むと、人差し指で雛の頭を撫でた。雛は撫でられて巣の中の感触を思い出したのか、指先に擦り寄ってピイピイと鳴く。特に怪我はなさそうね、とエメリナさんは微笑んだ。怪我が無いと判断したのは、彼女の魔力だろうか。それとも鳴き声を聞いての判断だろうか。
後でファリーナに世話を頼んでみましょう。そう言ってエメリナさんはビルギットを見上げた。青空にビルギットの翼が羽ばたいていく。
「……ねえ、サーシャさん。貴方はどうしてその雛を拾ったのかしら?」
ふとエメリナさんはそんなことを呟いた。私は少し考え、そして呟く。
「そうですね……深く考えていませんでした」
「ふふっ……そうかもしれないわね。でも……」
エメリナさんはそう言って空を見上げる。今日は快晴だ。フレイさん達と話をして、朝食を食べ終わった後にアンブロシアを出ることに決めている。エメリナさんは止めるかと思ったが、どうやら一人息子を引き止める気はないらしい。
ただ彼女は言った。いってらっしゃい、と。
「貴方は……それが雛だと気付いて、心の中で可哀想だと思った。違うかしら?」
ふと盲目の視線を向けられて、私は足を止めた。手の中の雛が小さな声で答える。私は大きく息を吸った。
「違いますね。……私はこんなもの、いつでも見捨てることが出来ますから」
「あら……じゃあ、フレイと剣士さんも?」
ピヨ、と雛がこちらを向いて鳴いた。まだ柔らかい茶色の羽を散らしながら、飛び立つフリをするように翼を震わせる。私はそれをじっと見つめた。
弱くて小さな命。私のような特殊な体とは違う、ましてや人間でもない命。見捨てようとすればいつでも出来る。ここで撃ち殺すことだって出来るだろう。現に、食事に困れば鳥でも兎でも殺して食べることもある。
その命を、フレイさん達と比べる……?そんなこと、考えるまでもない。
「ええ。私は、情に流されるような人間ではありませんから」
私は頷いてみせた。状況が変われば、いつでも切り捨てることは出来る。私は、やらなければいけないことがあるのだ。そのためになら……そのためにならば、どんなモノでも犠牲に出来る。
エメリナさんはこちらを見つめながら、悲しげに笑って見せた。
「そう……。……貴女は正直ね」
「そうですか」
私は少し前に同じ会話を交わしたことを思い出しながらそう言った。エメリナさんは一歩こちらへ近づくと、私の手から雛を受け取る。手の大きさのせいか、温かさのせいか、雛は所在無さげにピイピイと鳴き始めた。
エメリナさんは顔をあげる。
「貴女は……とても冷静で、理知的な人だわ。そんな『色』をしている」
雛はエメリナさんの手の中で暴れると、翼をはためかせてこちらへ飛び移ってこようとした。しかし、まだ飛ぶことに慣れない翼はその体重を支えきれず、エメリナさんの手の中からバランスを崩す。
私は咄嗟に地面に落ちそうになった雛の体を片手で受けとめた。雛は自分が再び地面に叩き付けられそうになったことを知っているのかいないのか、機嫌を直した様子でぬくぬくと指先に擦り寄ってくる。
私はため息をついた。エメリナさんは苦笑する。
「でも……貴方は心の奥底で、誰よりも……そう、言ってしまえばフレイよりも、情熱的で激しい性格を隠している。まるで赤と青が混じり合いそうで混じり合わない、そんな『色』よ」
「あの二人が聞いたら、揃って否定するでしょうね」
雛を両手で包んだまま、私はそう言った。エメリナさんはそうね、と微笑みながら私の顔を覗き込む。彼女の瞳は機能していないが、もっと他の、別な部分を覗き込まれそうで、私はすっと視線を逸らした。雛が落ちそうになったフリをしながら、朝焼けに染まる草原に視線を向ける。
「エメリナさんは先日……私の中に4つの心があると言いました。憎しみ、警戒心、罪悪感、嘘……それだけではないと仰っていましたが、そのことですか?」
「ええ。でも……詳しくは言わないでおくわ。貴女は否定するでしょうから」
エメリナさんはそう言って笑った。私は大きく息を吐いて、ファーレン様の屋敷の方を見る。あの庭園水没からかなりの時間が経った。しかし庭園の水は決して濁らず、最近では村の子供達が水遊びに使い始めていた。この風景は、おそらくファーレン様の望んだものなのだろう。
私の視線の先にあるものに気付いたのか、エメリナさんは言う。
「ああ……今日も水が綺麗ね」
「……。……最初から、知っていたのではないですか?」
エメリナさんに視線を向けると、エメリナさんは悪戯が見つかった少女のような微笑みを浮かべてみせた。
フレイさんから、ファーレン様の死後、この村を取り仕切る仕事は全てエメリナさんに任せられていたと聞いた。屋敷の管理から、預言書をエレンシアに渡すまで。預言書の冊数が足りないことを、エメリナさんは気付いていたのかもしれない。
ファーレン様が亡くなった後、部屋は簡単に片付けられていた。本や机の中身はそのままに、散らかっていたものだけエメリナさんが片付けたのだろう。ならば、あの仕掛けにも気付くはず。全てはあの蛉人に聞けば分かることだが。
「ふふ……やはり、気付いていたのね」
「ええ。屋敷の管理は貴女が行っていたと聞きますし、もしやと思いまして」
私がそう言うと、エメリナさんは頷いて見せた。
「最初は……フレイが連れてきたのが貴女達で、どうしようかと思ったわ。でも……おそらく違ってしまった道は、もう戻らないだろうと思ったの」
フレイさんとアイルークさん。同じ状況に生まれながら、互いに互いの持たざるものを羨み、そして道を外れた二人の魔術師。
私が頷くと、エメリナさんは苦笑して見せた。
「でも……そうね、ファーレン様の思い描いた未来とは違うけれど、彼らはいつまでも巣の中の雛ではないわ。飛び立つ時を迎えれば、全く別の空へと去っていくもの……過去を背負い、そして未来へ……」
エメリナさんは草原の向こうに視線を向ける。二羽の鳥が競うように地平線の向こうへと飛び立っていった。眩しい太陽の中に、その姿が小さくなって消えていく。
全ては、過去の思い出。そして……そこから繋がる今という未来。一人の祖父が願った結末は、向かえることが出来なかった。しかしそれを悲観する者はない。
「おい、サーシャ!」
ふとフレイさんの声が聞こえて、私は振り返る。見ると、家の窓から身を乗り出して声を張り上げるフレイさんの姿があった。
「早く仕度しろって言ったの、お前だろっ!!さっさと準備しろっ」
「私はもう出発出来る状態ですが?」
そう言い返すと、中で癇癪を起こしているのが伝わってきた。クリフさんの慌てる声と、ファリーナさんの苦笑がこちらまで聞こえてくる。私は雛を持って玄関へと歩き出した。
再び、旅立ちの時が来る。過去の預言書を求めて私達の旅が、再び始まろうとしている。……そう。
過去を背負い、そして未来へ。