第5章 1
このような形でのご報告をお許し下さい。唐突な話ではありますが、屋敷の中に反逆を企てる者がいるのです。主の寛大なお心の許でこの屋敷にお仕えする身でありながら、その御顔に泥を塗る者。彼らの罪を裁くべく、一度話し合いの機会を設けたいと思いたった次第であります……。
- 絶望へのハジマリ -
手紙には、用件の他に時間と場所が指定されていた。場所はボードワール家の敷地の南側にある建物の一室。たしかに、そこにはヴァレリオと数人以外に寝泊まりする者たちはおらず、下男もあまり近づかない場所だ。そして時間は、日が沈み、召使いが食事の片付けを始めた頃。たしかに、人目を避けるには丁度良い時間帯かもしれない。
俺はいつも通り主と同じ時間に食事をとった。魔術師達は仕事の都合で食事の時間が前後するが、俺が食事をしているときにヴァレリオの姿は見当たらなかった。
「……」
食事を口に運びながら、俺はふと視線を感じて扉へと視線を向ける。仕事を終えて戻って来た者、食事を運ぶ召使い達。食事を運ぶために開け放されたままの扉の向こうに、あの男達の姿が見えた。俺の視線に気付くと蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
今回のことで一体どれだけの使用人達の顔が変わるのか、俺はそんなことを想像していた。5人……いや、もう少しいそうな気もする。処罰が誰の手に委ねられるかが楽しみだった。どうせなら、生とも死ともつかない永遠の苦しみを与えてやった方が良い。
「……」
ニヤけ顔を表に出さないように笑いを噛み殺しながら、俺は席を立った。使用人達の間をすり抜けて指定された場所へと向かう。
けれど俺はまだ知らなかった。誰よりも早く夕食を済ませて密会へ向かう俺の後ろ姿を、ジョットが見つめていた事を。
召使いの一人が人目をはばかるようにジョットを隅へと連れていく。
「……ジョット。……が、……に」
「うん、……にも、協力を……」
ジョットは何かに頷きながら、集まってきた数人に視線だけで頷いた。思えばその時にはもう、取り返しのつかない時間が、俺を飲み込もうとしていたのかもしれない。
☆
夕日が山の稜線に消えゆき、辺りは薄暗く虫の音が響いていた。俺は南の棟の階段を上がり、メモに書かれた部屋を目指す。南の棟は俺が使っている部屋よりも広く、贅沢な部屋のようにも思えたが、辺りが木々に囲まれているせいで暗く陰鬱とした空気を放つ場所だった。
そういえば、爺さんの家もこんな感じだったと、俺は心の中で呟く。ガキの頃……まだ何も知らない子供だった頃には、爺さんの家は遊び場のようなものだった。けれど爺さんの葬式の後からは、俺にとってあの屋敷はそう、こんな暗澹とした場所に変わった。
「……廊下の端の部屋か」
俺はメモをポケットに入れると、ヴァレリオの部屋の前で足を止めた。二度ノックをして中に声をかける。しかし返事は返ってこなかった。
食事から帰ってこないのか。俺はふとそう思った。しかし夕食をとっているのならば、何処かですれ違うはず。俺は首を傾げながらドアノブに手をかけた。
……開いている。
「……ヴァレリオ、いるのか……?」
扉を開けて中を覗き込むと、部屋の中は真っ暗だった。カーテンも締められ、籠った空気と共に別な臭いが鼻についた。これは……。
「っ!」
もう一歩、部屋の中に足を踏み出した時だった。俺は突き飛ばされた感触と共に、扉が閉まる音を聞いた。バランスを崩して床に転がった俺は、ハッとして扉を見やる。ガチャン、という音と共に錠が落ちる音が響いた。
「何っ!?」
俺は咄嗟にドアノブに手を伸ばした。開かない。開けろ、と声を荒げながら扉を叩くも、応じる声はなかった。ドアの向こうにはたしかに、誰かの気配がある。くそっ、一体誰だ……!
気配はパタパタと足音を立てて去っていった。階段を下りていく音が聞こえる。俺は扉を蹴り飛ばし、そして奇妙なものを見つけた。
「何だ……?」
異様な臭いが部屋の中に漂っていた。何か薬品を燃やした後のような、そんなキツイ香り。頭がクラクラしてくる。俺は窓を開けようと、カーテンに手を伸ばした。まだ薄暗い外の風景が目に入ってくる。
薄明かりが部屋の中に差し込み、俺はふとヴァレリオのベッドに視線を向けた。そこには、真っ赤に染まったベッドと床、口から血を滴らせ倒れ込んだヴァレリオの姿……。
「!?」
その死体には深々とナイフが差し込まれていた。それは一度だけではない。何度も背中から突き刺した痕がある。そのナイフは何処かで見覚えがあるような気がした。刃の長い、特殊なナイフが月光を受けて赤く煌めいている。
俺は凍りついた瞳で辺りを見回した。ベッドの周りは何か争ったような形跡が残されている。そして俺は気付いた。ヴァレリオの死体の傍らにある魔法陣。そしてその上に盛られた、何かを焼いたこの灰。これは確か……。
「うっ……」
ぐらりと視界が揺らいだ。途端に永遠の眠りに落ちるのではないかと思うほどの睡魔が襲ってきた。何処かで誰かが自分の名前を呼んでいる。それは冷静な自分の声か、それとも深層から語りかけるフィオの声か。どちらにせよ、それは眠ってはいけないということを警告していた。
そうだ、こんなところで眠ってしまっては……。
「っ……く、そっ……」
けれど俺は、特殊な魔法によって作り出された協力な睡魔に勝つ事は出来ず、死人のように眠りに落ちていた。
☆
次に目を覚ましたとき、俺は南の棟を取り囲む林の中にいた。一部の木を切り取って作られた、楕円形の広場のような場所。此処もあの陰鬱とした空気のせいで人が寄り付かない場所だったが、何故かこの時、この場所には賑やかすぎるほどの人が集まっていた。
目を開き、そして俺は気付く。主の冷たい視線が、少し離れたところからこちらを見ていた。
「っ!」
俺は一瞬にして状況を理解した。慌てて立ち上がろうとするが、両足がまるで地面に掴まれているかのように動けない。俺は前のめりに倒れて、やっとそこに人を縛り付ける魔法が張られていることに気付いた。
「ご主人様」
ふと、少し離れたところから、聞き覚えのある幼い声が聞こえてきた。見やると、ジョットが赤く染まった布の中から一本のナイフを取り出す。神に捧げるように主に向かってそれを差し出すと、主は柄を手にして俺に刃先を向けた。
「……アイルーク。先ほどヴァレリオが部屋で死んでいるのが見つかった」
「……っ」
俺は何かを言おうと口を開く。しかし、思ったように声が出てこなかった。辺りを見回すと、俺を囲むように十数人の魔術師達が立っていた。どれも低級な奴らだったが、互いに互いの魔力を重ね合わせ、俺を縛り付ける魔法を構成している。
主はナイフを舐めるように見つめながら、あの蛇のような目で俺に言った。
「証言した者によれば、死因はこのナイフだそうだ……そして、その部屋にはお前が転がっていた」
このナイフを持ってな、と主は信じられない事を口にした。俺は咄嗟に身を捩る。倒れ込んだとき、ナイフはヴァレリオの背中に刺さったままだった。主は氷のような瞳で俺を見下ろした。
「違うと言いたいのか」
「っ……」
俺は微かに首を縦に降った。主は俺の目を覗き込んだ後、ジョットにナイフを手渡し、フン、と冷たい視線を浴びせる。
「ヴァレリオと争っているところを見た者が数名いるのだ。……アイルーク、お前には失望した」
「!?」
スッと俺の視線を避けるようにジョットが主人の後ろに隠れた。そしてその背中から顔を出し、子供とは思えない恐ろしい表情でニヤリと笑う。それは……そう、ヴァレリオにも、そして今の俺にも、そっくりの笑い方で。そしてその瞳は、一年前の記憶を呼び覚ますものだった。
『り……リウ、を……た、すっ……けて、下さ……いっ』
今でもはっきりと覚えている。潰され粉々にされた父の死体を凝視する姿、母と弟を無惨に殺されあげた悲鳴も。俺やヴァレリオを呪う声も。
俺は自分の愚かさに気付いた。何故今まで気付かなかったのか。少年の格好をしているが、顔の作りもそのままあの子供じゃないか。顔の傷のインパクトが強過ぎて、まさかそうだとは思わなかった。
「……っ!」
俺は叫ぼうとした。そいつが、全てやったんだと。主すらも騙し、そいつはおそらく俺の次に主人である貴方を殺そうとしているのだと。しかし弁解は全て息になって消える。
ふと、魔術師の中の誰かが呟いた。
「アイルーク様……往生際が悪いですね。許しを請うつもりですか?……あのファーレンの孫である貴方が」
「ファーレン様も嘆いておられるでしょうなぁ。手塩にかけた孫である貴方が、まさか人殺しとは……」
「!」
俺は辺りを見回した。誰もが残念だ、残念だ、と口々にそう言っている。誰も反論する者はなく、同じ事を言う者しかいない。ふと、嫌な予感が頭の中を過った。
ジョットが下働きとして志願してきて、おそらく使用人達の多くが溜まった鬱憤を晴らすべきではないかと、ジョットにそそのかされた。だとすると、ヴァレリオの部屋の中で見たあの眠りの魔法陣。あれは下男達に出来る芸当じゃない。
「ああ、尊敬していたアイルーク様に我々が手を下す事になるとは……悲しい限りだ」
俺は睨みつける気力すら失って、ぼうっと浴びせられる言葉を聞いていた。中身のない罵り、皮肉、罵倒、呆れたため息。俺は何処か空虚な目でジョットを見た。甘えるフリをしながらこちらを嘲笑うその表情。その残酷さはまるで、いつか見た母の笑い方にも似ていた。
俺は声にならない声で呟く。
(……ああ、そうか。ヴァレリオのあのメモは、主人に向けたものだったのか。……それなら『反逆を企てる者』は、使用人だけじゃなく……)
全てはひどく単純だった。強いものは生き残り、弱いものは虫けらのように死んでいく。幸せは、結局誰かを踏み台にして築き上げるものでしかない。自分のうえに邪魔な者がいるならば、排除するのが当然のこと。
そうじゃないか。俺が歩いてきたこの世界は。いつだって……そうだったじゃないか。
主はこの世で一番残酷な一言を口にする。俺は何の感慨もなくそれを聞きながら、ただ……ぼうっとしていた。
「やれ」
一斉に魔術師達が何かを唱え始める。その呪文を聞きながら一思いに殺す気か、と少し残念に思った。そうか、邪魔とはいえ怖いのか。ファーレンの孫という肩書きを置いても、俺は低級な奴らより遥かに強い。だからこそ弱い者達が群れて反逆を企てる。
一人一人の魔力が、まるで一本の縄のように俺を縛り付けていく。俺はそれを確かに感じながら目を瞑った。
「……」
一人なら何も出来ない者達。束になれば、と安心でもしたのか。甘い考えの奴らばかりだ。もしここで俺を殺したとしても、次に立つ者はまた、下の者に羨まれ、恨まれ、同じ運命をたどる。誰かを蹴落として、蹴落とされて存在する世界。
この世はどれだけ醜いのか。この世界はどれだけ悲しいものなのか。
『……お嘆きですか、アイルーク』
ふと、耳元で懐かしい声が聞こえた。俺は声にならない言葉で応える。おそらく発せられずとも、相手はしっかりと聞いているはずだ。
『……ああ。久しぶりにその声を聞いた気がする。フィオ』
目を瞑りながらも、その姿は見えた。いつもは言葉を発することのないフィオの姿。灰色の体に翼のような両腕。思えば爺さんの次に出来る魔術師になりたくて召喚する相手をフィオに選んだけれど、実を言えばもう一つ理由があった。
『俺も……フィオのようになりたかった』
翼があれば、あんな場所旅立っていけたのに。こんな場所に、……こんな地獄のような場所に囚われることもなかったのに。
『貴方が望むのならば……私は貴方の翼になりましょう。全ては……貴方の望むがままに』
フィオは俺の体をその翼で覆うと、静かに呟く。憂いを秘めた瞳を閉じて。
思えばフィオはどうだったのだろう。召喚された精霊は、魔術師の生が終わるその時までずっと傍にいる。魔術師の心の奥深くに潜むのだという。フィオはずっと、そこで見ていたのだろうか。何も言わず、ただ、俺の全てを。
魔術師達の詠唱はあと少しで終わりを迎えようとしていた。それが終われば、おそらく刹那の隙も与えずに体が砕け散るだろう。俺は目を閉じたまま呟く。
『……あの時、ただ自尊心のためだけにフィオを喚び出した俺でも?』
『ええ』
ふっと、俺は見えない目でフィオが微笑うのを見た気がした。