第3章 4
嗚呼、幾許かの月日を経て彼らはこの道を辿るのだろう。それが何時のことなのか、私には想像することができない。だから私は願うのだ。ただただ願うのだ。
彼らの旅路に、幸運を。
- 今は亡き貴方へ -
「サーシャさんっ」
「サーシャ!……って、なんだよ、これ……!?」
呪いの解除に成功した俺たちは、足早にナラカの最深部へと向かった。しかし、俺たちが目にしたのは水の中に沈んだ部屋と、水位を増やし続ける水、そして部屋の前に立つヴァルナの姿。
その顔に浮かんだ薄ら笑いを見た瞬間、俺は頭の中で何かがぶち切れる音を聞いた。
「てめぇっ!!サーシャはどうしたっ!」
『……水の中だ』
「っ!」
クリフは咄嗟に水没した部屋へ視線を向ける。俺は怒りに任せてヴァルナに殴り掛かる。しかし召喚していない蛉人は霊魂か何かのようにその体を通り抜けた。
俺は歯噛みをしてヴァルナを睨みつける。
「ふざけんなっ!!サーシャを殺したってんなら、てめぇを此処で……っ!」
俺は咄嗟に利き手に力を込めた。ヴァルナはまだ笑いを浮かべている。その体ごと焼き殺してやろうかと思った瞬間、部屋の中から聞き慣れた声が聞こえた。
「……勝手に殺さないでくれませんか」
「あっ……さ、サーシャさんっ!?」
視線を部屋の中へと戻すと、水の中から顔を出したサーシャの姿がある。クリフは一瞬俺の方に視線を向けて、どうフォローしたものかという顔をしたが、俺と視線が合うとわざとらしく顔を逸らした。
ヴァルナもまた、笑いを堪えているのか口元を抑えて苦笑している。俺はギッとそれを睨みつけた。
「てんめぇ……騙しやがったな……!!」
『我は、水の中と言っただけなのだがな……』
サーシャはこちらまで泳いでくると、大きく息を吐いて階段をあがってきた。
「いないくらいで死んだと思わないで下さい。そんなことでいちいち勘違いされては面倒です」
「お・ま・え・なっ!!助けたやつに礼も無しかっ!」
「私は一応契約者ですから。救出するのは当然の行為だと思いますが」
サーシャは濡れた髪をかきあげて、さも当然といった様子でそう言う。この女……やっぱりもう少し呪いの解除を遅らせてやればよかった。痛い目にあったかと思っていたが、気分的に俺の方が痛い目にあった気分だ。
今にも喧嘩を始めそうな俺たちに、クリフが慌てて止めに入る。
「ま、まあまあ……で、でもサーシャさんはどうしてまた水の中に?」
ん?たしかに、そう言われればそうだ。なんでこいつ、俺たちが来たとき下に潜ってたんだ?
サーシャは大きく息を吐くと、ヴァルナをチラと横目で見て、そして呟いた。
「呪いに掛かる少し前から気付いていました。……だいたい、何故私があの水瓶の中に手をいれようとしたのか、分かりますか?」
「……?」
首を傾げる俺とクリフに、サーシャは右手に握っていたものを俺たちの目の前に突き出した。握られていたのは一冊の本。深い紺色の表紙で綴じられたその本は、水の中から引き上げられたわりには濡れた様子が全くなかった。
「……え」
そう呟いたのは、俺か、それともクリフか。サーシャは髪を耳にかけると、呆れたようにため息をついてみせた。
サーシャの手の中にあるその本に書かれていたのは<Past prophecy book>の文字。俺もクリフも声を失った。
「過去の預言書『原初』の章、だそうです」
彼が言うんですから間違いはないでしょう、そう言ってサーシャはヴァルナに視線を向ける。ヴァルナはいつも通りの無表情に戻り、確かに頷いた。
『……ああ』
サーシャはパラパラと中身を捲ると、すぐに預言書を俺たちの方に放った。水に濡れた様子さえない皮の表紙が、空中で弧を描いてクリフの手元に収まる。クリフは慌てながら改めて表紙の文字を確認し、自分の手の中にある預言書に声を上げた。
「え、えぇっ!?だ、だって屋敷にあった預言書は全部、エレンシアが持っていったはずじゃ……!」
俺はクリフから預言書を取り上げ、そしてパラパラと中身を捲る。表紙に触れた瞬間に伝わってくるのは懐かしいあの感覚。ガキの頃に肌で感じた、ジジイのあの魔力だ。
死してなお残る、本当に力を持った人間の成せる技。サーシャは呆れたような視線をクリフに向ける。
「ファリーナさんの言葉を覚えていますか?『何か大きな宝箱のようなものが運ばれていった』と。……もしもそれが施錠されたものであったと仮定するなら、エレンシアの人間が預言書の冊数を把握していないことも理解出来るでしょう。現に、フレイさんでさえ預言書が5冊あることを知らなかったんですから」
預言書の入った施錠済みの箱が屋敷にあったとして、ジジイの死後、それを引き取りにエレンシアの人間が来る。死ぬ直前に誰かに箱の場所さえ教えておけば、誰もそれを疑う人間はいないだろう。大体、そんなことをする必要はない。
「それに……」
サーシャは髪の水を絞り、上着を脱ぐと、俺の手の中にある預言書に視線を向けた。深い紺色の表紙に金色の文字が踊る表紙。サーシャは不敵に笑う。
「……それに、もしも此処がフレイさんとアイルークさんを誘う罠だとするならば、それ相応の餌が必要ですからね」
俺は呆然と手の中にある硬い本の感触を握りしめる。厚い表紙は多少色あせているものの、しっかりとした作りになっていた。
これが、預言書。強大な国も、大地も、世界も、全てを揺り動かす過去の知識を秘めた、あの『過去の預言書』。そんなものがジジイの亡くなったあの日から、ずっとこの村に眠り続けていた。アイルークが村を出て、俺が旅に出るその時も。
……。……いや、ちょっと待て。
「……お前、いつからそのことに気付いてやがった!?」
俺の言葉にサーシャは微笑んだ。いや、あいつの微笑みはただの微笑みじゃないことくらい、もう言わずもがなだろう。
「もしかしたらと思ったのはネオ・オリでフレイさんが蛉人を喚び出したとき、確信したのは書庫で仕掛けを発見した時です。……無駄足にならなくて本当に良かったですね」
ふっと不敵に笑うサーシャに、クリフが体を震わせる。俺までその顔を見て寒気がしてきた。サーシャは上着を肩にかけると、俺たちの間を通って歩き出す。
ヴァルナは難しい顔で腕を組み、俺とクリフを見下ろしてしみじみと呟いた。
『本当に、たいそうな人間に使えたものだな』
他人事にしか聞こえない台詞に、俺はヴァルナを睨みつける。てめぇ、俺たちの苦労をひと欠片も理解してねぇだろ。
俺は振り返って拳を握りしめた。サーシャに振り回された分、そしてジジイの罠に嵌められた分、このムカつきを全部コイツにぶつけてやろうか。
「テメェな、一回痛い目に……っ!?」
俺がそう言った瞬間、まるで岩が割れるような音が響いて、水を吹き出していた壁が崩れた。そこから滝のように水が溢れ出し、先ほどまでとは比べ物にならないスピードで水面がせり上がってくる。
驚いたクリフが、腰を抜かしたように床に倒れた。しかしすぐに俺たちの足下にも水が迫ってくる。
「なっ……!?」
「……。おそらく壁が崩れ始めたんでしょう。もともと水脈の近くにある場所ですから、地盤も脆いはずです」
サーシャはクリフに手を貸すと、慌てる様子のないヴァルナを見上げる。涼しい顔をしているのは、俺たちが水死しようが何しようが、蛉人は水によって死に至るような危険はないからだ。
俺は通って来た通路を振り返る。しかし俺たちが走ってきたあの通路からも水が流れ込み始めていた。何処かで壁が破損したのか、水は徐々に量を増やしていく。
サーシャは冷静に口を開いた。
「出口へ案内していただけませんか?」
「ふっ……我が手を貸すとでも?」
ヴァルナは口元を歪めてそう答えた。その絶望的な答えに、立ち上がったクリフが悲痛な声をあげる。
「そんな……!」
言葉の続きを、サーシャが左手が制した。サーシャはじっとヴァルナを見上げ、無言のまま蛉人のその瞳を見つめる。サーシャのその瞳は、何者にも真似出来ない強い意志の籠った色をしている。
ヴァルナは俺とサーシャ、クリフの顔を見回すと、肩を竦めて苦笑した。
「……良いだろう。ついてこい」