第3章 1
記憶の糸をたぐれば、そこにマシな思い出なんて殆ど存在しなかった。何処から俺は間違っていたのだろう。どこで俺は取り返しのつかない罪を犯してしまったのだろう。これが罪や罰でないというのなら……この世界は、どれだけ残酷なのだろう。
- 記憶の螺旋 -
「ねぇ、今度はこっちだよ!」
「違うわよ、今度は私たちの番っ」
見せ合いでもするように、子供達が魔法を使って遊んでいる。まだ引き出す魔力が弱いせいでそれは小さなつむじ風に過ぎなかったけれど、俺たちにとってそれは玩具のようなものだった。それでも玩具と唯一違うのは、それが自分の『力』を見せつける唯一の方法だということ。
「見て見て!」
ふと隣にいた奴が風を動かした。強い風が真っすぐに俺たちの前を駆抜け、少し離れたところに立っていた子供を驚かせる。伸びた髪を後ろでくくったそいつは、咄嗟に体を硬くしたようだった。
「っ!」
子供達は無邪気にそいつを指差す。
「あいつ、怖がってやんの!」
「仕方ないわよ、だって『できそこない』だもの」
「!」
そいつはパッと顔をあげて、そしてまた顔を逸らした。怒りっぽいのは昔からだ。一瞬怒りかけて……そして何かに耐えるようにこちらに背を向ける。幼心に知っていたんだ、この村の中ではたとえ子供であれ魔術師という枠の中にくくられてしまうことを。
たとえ子供であろうと、なかろうと……この村で大事なのは『魔力の才能』。だから俺たちにとって友人とは、いつ抜け駆けするか分からない、気の抜けないライバル。そしてその全ては……この人のためにあった。
「おや、次に呼んでいたのは誰だったかな?フリオか、ジェスティンか……それともミハイルか?」
魔術師ファーレン。世界中にその名を轟かせる、天才魔術師と呼ばれる俺の爺ちゃん。血縁で言うならば爺ちゃんの長女の息子が俺だ。でも爺ちゃんの後を継いだのは長女ではなく長男……フォルカー・リーシェンという叔父。5年前に病気で亡くなったが、爺ちゃんの跡継ぎとして同等、いやそれ以上の力を持つ人だったという。
「はい。……僕だよ、お爺ちゃん」
俺はパッと手をあげた。今度は俺が爺ちゃんに魔法を見せる番。
爺ちゃんは俺の顔を見ると、口元を緩めた。周りの奴も俺に視線を向ける。それもそのはずだ、俺はあの中で一番の魔力を持っていた。そして、爺ちゃんのお気に入りだった。爺ちゃんは言う。
「おや、お前か。……聞いとるよ、お前は毎日しっかり勉強をしているそうじゃないか」
「当然だよ!僕お爺ちゃんみたいになるのが夢なんだもん」
爺ちゃんみたいになりたい。その言葉は子供達の合い言葉のようなものだった。子供の頃はそれがいかにも自分の本当の気持ちのように思っていたが、今はその言葉の嘘が分かる。あれは俺たちの本当の気持ちではなかった。生まれてからの数年間で刷り込まれた、出世への合い言葉。
でも爺ちゃんはそれを聞く度に嬉しそうに笑った。それは本当に、嘘っぽいくらい嬉しそうな顔だった。
「おお、そうかそうか。流石にお前は言うことが違うな、フレイに爪の垢でも煎じて飲ませたいところだ」
「!」
少し離れたとことでこっちを窺っていたあいつが肩を震わせた。その両手に抱えているのは、爺ちゃんの部屋から持ち出してきた植物の本。本なんて最近では滅多に出回らないから、この村にとても貴重なもの。爺ちゃんはよく俺たちに魔法の本を貸してくれたけれど、あいつはいつも魔術とは関係のない本を読んでいた。
爺ちゃんは眉間に皺を寄せて言う。いかにも由々しきことだ、といった表情で。
「……なんだ、フレイ。また植物の本なんぞ読んでいるのか?」
「えっ、あっ、これは……その……」
爺ちゃんはあいつのことが嫌いだった。他の誰にもそんな目をしないのに、あいつの時だけ違っていた。笑いかけない、頭を撫でない。……同じ孫で、従兄弟の俺が見る限り、そんなことをしていたのは本当に小さな頃だけで、魔力の差が出始めてから爺ちゃんはあいつを嫌っていった。
でも、時々俺はあいつが羨ましかったんだ。
「爺ちゃん爺ちゃん!もー、今は僕の話でしょ」
俺は爺ちゃんの服の袖を引っ張る。少しイライラした気持ちを抑えて、爺ちゃんを引っ張っていった。爺ちゃんは子供達を引き連れて村の方へと歩いていく。
「おお、そうだったな。どれどれ、見せておくれ。お前の成長が儂には一番の楽しみだからな」
なあ、爺ちゃん。ならなんで……あんたは時々フレイの方を見てたんだ。蔑むような、煙たがるような表情を浮かべて、どうしてあいつを見てたんだ。
嫌いなら、見なければいい。嫌いなら、適当にあしらってしまえばいい。その歳で大人げない苛立ちを感じる人間じゃないことぐらい、孫なんだから知ってたさ。……知ってたんだよ。
爺ちゃんは、あいつのことを『できそこない』だと言った。周りの子供達はその意味をはっきりと理解せずに、あいつを指差して笑っていた。それでもその意味を知っていたのは……おそらく俺とあいつだけだったと思う。その言葉の残酷さを知っていたのは……。
「お母さん、お母さん!今日も爺ちゃんに褒められたよ!お前の成長が楽しみって、爺ちゃん言ってくれたよっ」
俺の母は、綺麗な人だった。フレイのところの母親とさほどかわりない歳で、周りの子供達も羨むくらい綺麗で、美しい人だった。爺ちゃんによると、婆ちゃんそっくりな美人だって話で、それは俺の自慢の1つだった。料理が上手で、彼女も魔術師として申し分ない才能に恵まれ、父も宮廷仕えのエリート。形だけならどこにも負けない、最高の家庭。
でも、彼女は女性としては魅力的でも、母としては最低だった。
「あらそう……ならもっと、もっと頑張りなさい。お爺様に沢山褒められるようになりなさい。間違っても……できそこないになってはいけないわ。フォルカーの息子のように」
彼女の口癖は、それだった。頑張りなさい、もっと頑張りなさい。お爺様に気に入られなさい。フォルカーの息子のようになってはいけない。『できそこない』に、なってはいけない。
「う……うん……」
俺は彼女と話す度に、自分が犬かなにかのように思えてならなかった。いや、犬の方がまだいい。頭を撫でて『良くやった』と褒めてくれる分だけ。『頑張ったね』と声をかけてくれる分だけ。
「……お母さん、僕、頑張る、よ……」
俺の母は、褒めてくれたことがなかった。頭を撫でてくれることも、抱きしめてくれることもなかった。父は宮廷に仕えているために滅多に帰ってくることがなく、俺は常に愛情のない母と共に暮らしていた。
俺は、ただ愛されたかった。あの人に褒めて欲しかった。ほんの少しでもいい、優しく微笑んで頭を撫でてくれるだけで、俺の生き方は変わったはずなのに……。
「……うっ……ひっく、……っ」
母は失敗に厳しい人だった。魔法の覚えが悪かったり、他の子供に追い抜かされたりすると、容赦なく外へ叩き出された。雨の日であろうと、雪の日であろうと、一晩中。それは幼い子供の心を押しつぶすのには十分な仕打ちだったと思う。
俺はよく村の入り口にある一本木の前で夜を明かした。ひどい時は夕方に追い出され、翌日の夕方に頭を下げて家に入れてもらったこともある。許した後も、彼女は慰めの言葉すらかけてくれなかった。
あの日も、俺は夕方に家を追い出されて、一本木の下に膝を抱えて座っていた。日が暮れるまで声を殺して泣いて、その後は泣きつかれてぼうっとしていた。まだ眠気はおきず、夕食時の温かい光が村のあちこちで灯るのを恨めしく思った。
どうして俺だけ愛してもらえないのだろう。どうすればあの人に愛してもらえるのだろう。どうして皆、あの温かい光の中に触れることができるのだろう。どうすれば自分もあの温かい光を手に入れることができるのだろう。
俺は泣き腫らした目で村を見つめていた。するとふと、優しい声が上から降ってきた。
「あらあら……大丈夫?」
顔をあげると、そこにはフレイの母親が立っていた。エメリナ様だ。周りの子供達がみんな『様』をつけて呼ぶから、俺も同じようにそう呼んでいた。
エメリナ様は魔術師としては中級の、さほど有名ではない人だった。もともと目が悪かったけれど、叔父と出会って結婚して……叔父が亡くなった後もしっかりと家を切り盛りし、爺ちゃんに再婚を勧められても絶対に首を縦に振らなかったという。
見目麗しい美人ではないけれど、優しい眼差しをした人だった。いじめられて帰ってきたフレイに、苦笑しながら頭を撫でてやっているところを見たことがある。あいつがいくらいじめられてもやり返さないのは、全てエメリナ様のためだ。いじめられて泣くことはあっても厄介ごとは絶対に起こさない。
『できそこない』の気持ちなんて分からないけれど、エメリナ様のためを思う気持ちはなんとなく俺にも理解出来た。
「なっ……なん、でも……なんでもないです」
俺はそっぽを向いて目を擦った。弱いところを見せてはいけない。母にまた家の中に入れてもらえなくなる。しかも相手はエメリナ様。フレイの母親。
でもエメリナ様は全て分かっているようだった。それもそのはずだ、この木はフレイの家の目の前にある。なるべく気付かれないように夜を明かしていたつもりだったが、エメリナ様は気付いていたんだろう。
エメリナ様は申し訳なさそうに言った。
「いつも此処で夜を明かしているのを見ていたわ。けれど、ごめんなさい……家の中に入れてあげたいのだけれど……」
その言葉の続きを、俺は理解していた。誰かの家の世話になったことを母が知ったら、もっとひどい罰が待っている。俺はまた、あの人に愛されなくなってしまう。それにもしかしたら母が文句を言いにくるかもしれない。そうなったらエメリナ様にも迷惑がかかる。
「……ごめんなさいね。代わりに、なんて言うとおかしいのだけれど……」
エメリナ様はそう言って目の前に皿を差し出した。そこにはパンと温かなスープが一杯乗せられている。スープの湯気を見た瞬間、腹の虫がせわしなく泣き始めた。一日分食事を口にすることはないだろうと、そう思っていたのに。
遠慮をすることも、エメリナ様の前だということも忘れて、俺は乞食のようにパンに齧りついていた。温かなスープは舌をやけどしそうなくらい熱くて、食べ物を口に含んだまま息をする。どうしてだろう、母が作った料理の方が美味しいのに、エメリナ様の作ってくれたスープは体の奥まで染込んでくる。……涙が出そうになってくる。
「あらあら、慌てなくても大丈夫よ」
エメリナ様は俺が舌をやけどしそうになっていることに気付いたようだった。微笑みながらこちらを見つめる目。くすんでしまった瞳は俺を映さないけれど、この人はちゃんと俺を見てくれていた。
俺はなんとなく恥ずかしくなってパンを齧る。エメリナ様はそんな俺を見て、優しく頭を撫でてくれた。
「今の時期は寒いから、毛布を持ってきてあげるわ。……大丈夫、朝にそこの柵に掛けておいてくれればいいから」
朝食も、皆に気付かれないように持ってくるわね、とエメリナ様は笑ってくれた。その時ふと思ったんだ。この人が自分の母親なら、って。けれどすぐにそんな夢みたいなことは忘れることにした。考えれば考えるほどに虚しくなっていく気がしたから。
でもあの微笑みは誰よりも優しくて……あたたかかった……。
☆
「……まあ、初恋の人の話ってやつかな」
アイルークはそう言って笑った。私は『ハツコイ』の意味が分からず首を傾げる。それでもアイルークにとってその人がとても意味のある思い出だったことは分かった。でも……なぜだろう、私の予測機能が不穏な感覚を伝えようとしている。
私は立ち上がろうとするアイルークの腕を掴んだ。
「その後は……?」
「!……はぁ、それは……」
アイルークは首をかきながら、大きくため息をついた。私はアイルークの腕を掴んだまま、じっとその顔を見つめる。その微細な変化を見落とすことのないように。
アイルークは再びベッドに座り直すと、扉の方を見つめて続きを話し始めた。
「……何度かそうやって夜を明かした。でもやっぱり母さんに気付かれて、今度は庭先に繋がれた。あれは本当に犬みたいだったなぁ……」
笑い話のように済ませようとするその横顔が、時折歪む。私はふとその情景を想像してみた。犬のように庭先に繋がれた少年。空腹に耐えながら、じっと一本木のある方向を見つめている。柵に両手をついて、人の心の温かさを感じたその場所を見つめて。
そう考えると、胸の奥がキュッと締め付けられるような感じがした。
「母さんがエメリナ様のところに文句を言いに行ったらしい……誰もそれを見ていなかったから詳しいことは分からないけれど、あのとき物凄い剣幕だったから……」
私は腕を掴んでいた指先に力を込めた。どうにかしなければと思うけれど、どうすればいいのか分からない。人はこうゆうとき、どう行動するのだろう。どうすれば人の心の溝を埋めることが出来るのだろう。
また、何処かから声が聞こえてくる。
『体が動くままに……感情にまかせてみればいいの』
私は掴んでいた腕に両手を回した。アイルークの肩に額を押しつける。なんでそうしようと思ったのかは分からない。ただ……そう、そうしたいと思ったから。もっと近くにいることが、一番の方法ではないかと思ったから。
「シルヴィ……?」
「アイルーク。シルヴィ……シルヴィ、ジュリアに料理習う。スープとパン、作れるようになる。だから……だから」
密着していると、相手の心が伝わってきそうだった。それならば逆に私の、この言葉では表現出来ない気持ちも伝わるのだろうか。データにはないこの感情。まるで胸の中にアイルークの苦しみが伝わってくるような……。
アイルークはふと笑って私の頭を撫でた。ジェイにされるのと同じくらい、アイルークに頭を撫でてもらうのは嬉しい。
「……分かってる。今は1人じゃないって……そう、分かってるから……」
でも、とアイルークは呟く。その表情は前髪に隠されてよく見えなかった。ふと、こちらへ寄りかかる力が増す。
「でも……もう少しだけ……」
そう呟いたアイルークは、もしかしたら泣いていたのかもしれない。