第1章 2
故郷というものを、私は知らない。特別な者達と、特別な場所と、特別な記憶と……。そういった諸々のもので出来上がった場所は、人に心地よい安らぎを与えてくれるのだろう。
私にはそれがない。それを不便に思ったことはなく、やるせなさを感じたこともない。きっとそれで良いのだ。私を縛るものは、たった一つで十分なのだから。
- アンブロシアの風 -
「……で、なんでお前らは勝手に人ん家にあがりこんでんだ?」
この家のメイドだと言うファリーナさんからお茶を受け取り、私達はリビングの長テーブルに座っていた。私とクリフさんが隣同士に座り、反対側にはフレイさんの母エメリナさんと、ファリーナさんから無理矢理隣に座らされたフレイさんが不機嫌そうに腰を下ろしている。
ティーカップを口に運ぶ私に、エメリナさんがクスリと笑う。
「あらあら……いいじゃない、急ぎじゃないって仰ってるんだから。……そういえば、お二人とも宿は?」
「あ、いえ……そ、その、フレイさんが、お爺さんの家の鍵が開けば屋敷の中に泊まればいいって……」
ビクビクしながら答えるクリフさんに、フレイさんがギッと睨みつけた。慌てて背中を丸くするクリフさんに、菓子を運んできたファリーナさんが首を傾げる。
エメリナさんは微笑みながら私に視線を戻した。しかし、やはり……先ほど玄関で顔を合わせた時から気付いていたことだが……彼女の視点ははっきりと合っていない。おそらく盲目なのだろう。私の位置やクリフさんの反応が分かるのは、盲目故に敏感になった感覚のせいか。
彼女はティーカップをテーブルに置くと、ファリーナさんを呼ぶ。
「それならこの家に泊まってはいかがかしら……客室は2つあるし、少なくとも手入れのされていない屋敷の中よりは良いはずよ」
「ちょっ……おい!別に俺は泊まるつもりで戻って来たわけじゃ……!」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきましょうか」
俺の話を聞け、とフレイさんが左斜めの席から叫ぶ。エメリナさんは顔を顰めるでもなくそちらに顔を向けると、笑い皺のある目でこう言った。
「あらあら……久しぶりに帰って来たんだから、自分の家に泊まって悪いわけがないわ。たまの帰郷なのだから、母親のそばにいてもいいじゃない?」
柔らかく微笑むエメリナさんに、フレイさんは何かを言いかけてグッと堪えた。怒鳴り散らすものと思ってビクビクしていたクリフさんは、意外にも萎んでしまったフレイさんの様子に首を傾げる。フレイさんの後ろでは、トレイを抱きかかえてファリーナさんが苦笑していた。
エメリナさんはそれを知ってか知らずか、クスッと微笑んで視線を戻す。
「それで……あなた方はファーレン様の予言書を探していらっしゃるのよね」
「はい、少々事情がありまして……何か知っていることがあれば聞かせていただけると助かります」
私がそう言うと、エメリナさんは何かを考えるように目を細めた。何処か遠い昔を『見つめる』かのように。私とクリフさんの視線がエメリナさんに向けられる中、彼女は1つ1つ、思い出すように口を開いた。
「……ファーレン様があれを創ったのは……たしか、15年前だったかしら。突然何かを思い立ったように屋敷に籠られて……しばらくは外に出てこられなかった」
「15年前……あ、結構最近なんですね。僕、てっきりもっと昔のものかと……」
クリフさんの言葉にエメリナさんは頷いた。たしかにクリフさんの言葉も分からなくはないが、それは逆に過去の預言書の力を物語っていると言ってもいい。今や裏世界だけではなく表の世界でも、その魔法の書の名前は人々の口に上る。
エメリナさんは珍しく静かにしているフレイさんに顔を向けると、苦笑しながら言った。
「……ファーレン様の遺言には、あれをフレイに任せるとあったのだけれど……予言書の噂はこの里に留められるものではなくなっていたわ。まだこの子も子供だったから……私があれをエレンシアに渡したの。10年前よ」
こう言ってしまうと、予言書の混乱は私のせいかもしれないわ、とエメリナさんは俯いた。私は首を横に振る。母親として彼女の取った行動に間違いはない。たとえフレイさんがそのまま持ち続けていたとしても……おそらく、ジェイロードやライラ・メーリングのような人間が奪いに来るはずなのだから。
「賢明な判断だと思います。……エレンシアには、全ての予言書を?」
「?……全て、ですか?」
ふと後ろにいたファリーナさんが首を傾げた。空になったクリフさんのティーカップにお茶を注ぎながら、私に視線を向ける。すると先ほどまで黙っていたフレイさんが頭をかきながら答えた。
「……あの予言書、全部で5冊あるんだと。ったく、俺は知らなかったぞ、んなこと」
「そうだったんですか?私も小さかったからよく覚えてないんですけど、なんだか大きな宝箱みたいなものが屋敷の中から運ばれていったのだけは覚えてますよ」
坊ちゃん達も見てたじゃないですか、とファリーナさんは笑い、フレイさんは逆に顔を顰めた。やはり坊ちゃんという言葉が気に入らないのだろう。
クリフさんはファリーナさんから新しいお茶を受け取ると、私に視線を戻した。
「あ、それじゃあ……エレンシアは一時的に全部の予言書を持っていたことになるんですね」
「そうですね。……ただ、その効果が発揮出来なかったことを考えると……本国に持ち帰る前に何らかの形で消失したのでしょう」
おそらくは、他の国や予言書を狙う者達の襲撃を受けたのだろう。それとも蒼天の書のみを自国に持ち帰ったのか、それは定かではない。しかし預言書がコロッセオにあったこと、あれがジェイロード達の仕組んだ罠だったとするとその可能性は少ない。
私はお茶を飲み干すと、エメリナさんに視線を向けた。
「……今からファーレン様の屋敷を見ることは出来ますか?」
「ええ。案内はフレイに任せましょう。客室に荷物を置いて来るといいわ。……ファリーナ」
はい、とファリーナは頷いて私とクリフさんを2階へと促す。フレイさんは苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ていたが、エメリナさんはそれを見て苦笑を浮かべていた。
☆
「……うわぁ……」
一度荷物を置いて、フレイさんのお爺さんの家に向かった僕たちは、その家の大きさに改めて驚愕した。いや、家って言うよりも屋敷に近いと思う。お城とまではいかないけど公共の建物みたいに大きくて、夕方の榛色の空を覆うよりに立ちはだかるその姿は、ちょっと幽霊屋敷にも似ていた。
突然風が首筋をなぞって、僕は体を震わせる。
「あ、あの……べ、別に今日じゃなくてもいいんじゃ……。ほ、ほら!明日のお昼頃にでも……」
「いえ、下見は必要ですから。……フレイさん」
僕の言葉はサーシャさんの一言によって却下された。フレイさんは不機嫌そうにため息をついて、僕らの前に立つ鉄の門扉を開け放つ。歩き出す2人の後ろを、僕はビクビクしながらついていく。
「ず、随分庭が広いんですね……」
庭は丸い円を描くように作られていて、その部分だけは下が石畳になっていた。中央には翼を生やした男の人の石像がある。野ざらしで汚れたその姿は、背中から夕日を浴びていて表情が見て取れない。
サーシャさんは石像を見上げて首を傾げた。
「これはファーレン様の趣味ですか?」
「……ん?ああ、まあな。帝国時代の石像だ」
フレイさんの言葉に僕は驚きの声をあげる。
「て、帝国時代ですか!?」
「……かなりの値打ちものになりますね」
サーシャさんは感心したように目を細める。それもそのはず、こういう文化とか芸術関係の作品作りは帝国時代には盛んだったけれど、現代に残っているものは数少ない。それは『知』と共に重要な作品の殆どが消え失せてしまったこと、そして現在は誰もが生きることに必死で、芸術なんてものに目を向けなくなったことが原因だと考えられている。……こう考えると、昔は知識とかお金とかだけじゃなくて、心も豊かだったんだなと思う。
「そうなのか?」
フレイさんは首を傾げる。普通なら考えられない感覚だけど、生まれた時から毎日こんな値打ちものを見ていれば、有難さって分からなくなってしまうものなのかもしれない。サーシャさんはため息をついて、フレイさんに視線を戻した。
「そうですね。普通は野ざらしにはしないでしょう。……そうすると、屋敷はファーレン様がお亡くなりになったままですか?」
僕は玄関の方に視線を向ける。お城の入り口みたいに大きな扉の両脇には、女の人の姿の石像が2つ、ちょっと汚れた状態で並んでいた。
フレイさんはそっちに視線を向けて頷く。
「ああ……朽ちるに任せるのがジジイの遺言だからな」
「……。……そうですか」
サーシャさんはそう言うと、入り口へ向かって歩き始めた。僕は慌ててその背中を追う。値打ちものの石像でも、暗くなり始めた時間帯に1人で見つめているのはちょっと怖い。野ざらしで黒く汚れている状態だと特に。
フレイさんは扉の前に取り付けられた大きな錠に鍵を差し込むと、鎖で閉ざされていた扉がゆっくりと開いた。僕はフレイさんとサーシャさんの後ろから、そっと中を覗く。
「く、暗いですね……」
「お前な……鍵かかった屋敷ん中に灯りがついてたら、そっちのが怖いだろ」
フレイさんの呆れた視線に、僕はグッと言葉に詰まる。た、たしかにそれはそれで怖いかも……。
サーシャさんはため息をつくと、フレイさんの家から借りてきた蝋燭に灯を点した。そして一歩、二歩と薄暗い家の中に入っていく。
「え、ええっ!?は、入るんですかぁっ!?」
「……残りたいならそこで待っていて下さい。行きましょう、フレイさん」
サーシャさんはそう言うと、フレイさんを連れて歩き出した。僕は半分朽ちかけたような屋敷の庭と、こちらを見つめる2つの石像を見回す。急に入り口の近くからカラスが飛び立って、西の空へと飛んでいった。風が木々を揺らし、冷たい風が体を包む。う……こ、怖い……。
振り向くと、屋敷の中に入っていった2人の影が小さくなっていた。僕は慌ててそれを追いかける。
「ま、待ってくださいよーっ!!」
☆
屋敷の中は暗く、薄い西日が微かに足下を照らしていた。窓の桟に溜まった埃を見れば、どれくらい長い間この屋敷が捨て置かれていたかが分かる。私は階段の前で足を止めると、廊下……否、回廊と言った方がいいかもしれない……の中央に置かれた石像を見上げた。これは妖精かなにかを象ったものだ。
「……フレイさん。ファーレン様が主に使っていた部屋の場所は分かりますか」
「使っていた部屋ぁ?……書斎か寝室だな」
フレイさんは少し考えてそう言う。これだけ部屋数がある屋敷ならば、使っている部屋と使っていない部屋があるはずだ。私は頷いてフレイさんに視線を向ける。
「なら、今日は書斎に。寝室は明日にしましょう。……もうすぐ日が暮れますし」
私はそう言ってフレイさんの後ろに視線を向けた。まるで背後霊のようにぴったりとくっついたクリフさんが、何かを訴えるような表情でこちらを見つめている。おそらく暗い中を歩き回るのが嫌なのだろう。
「んじゃあこっちだ……っておいクリフ、いい加減離れろ!歩きづらいっ」
「ふえぇ……だって……」
フレイさんのローブをしっかりと握ったまま、クリフさんが歩き出す。私は呆れてため息をつくと、クリフさんの後ろを歩き出した。
屋敷の廊下には、一定の距離に石像が配置されていた。人の形をしたもの、鳥の形をしたもの、妖精や天使の形をしたもの、そして……悪魔や獣の形をしたもの。
石像が見えてくる度にクリフさんは奇声をあげる。私は悪魔の石像を見上げながら呟いた。
「写実的ですね」
私は1つ1つに足を止めて、それをじっくりと見上げる。ファーレン様がこういったものに感心を持つのは、やはり魔術師として普通の人間とは考え方が違うからだろうか。悪魔の形をした影が、西日に照らされて壁に浮き上がっている。
「さ、さ、さ……サーシャさぁん……、つ、ついたみたいですよぉお」
ふと廊下の向こうからクリフさんに呼ばれて、私はそちらに視線を向けた。見ると、フレイさんが鍵を片手に扉と格闘している。どうやら鍵は開いたが、扉が開かないらしい。
「ちっ……錆びてやがんのか?」
「立て付けが悪いようですね。……クリフさん」
「えぇっ!?ぼ、僕ですかっ」
クリフさんは困ったような表情を浮かべながら扉に手を伸ばした。両開きの扉に力を入れるが、扉は微かに向こう側に動いただけで開こうとしない。フレイさんならまだしも、クリフさんでも開かないのは相当だろう。中から何か仕掛けがされているのかもしれない。
「開きませんか……仕方ないですね」
私はクリフさんの方を叩いて避けさせると、扉の前に立った。そしてもう一度フレイさんに視線を向ける。
「……フレイさん。『朽ちるに任せる』ということは、少々無茶をしても良いということですね?」
「はぁ?ああ、まあ……そうゆう意味だろうな」
フレイさんの言葉を聞いた私は、失礼します、と扉に軽く頭を下げた。扉と水平の状態に立ち、腰を捻りながら右足を扉と扉の隙間に突き出す。刹那、向こう側から木材の裂ける音と感触が響いてきた。やはり、向こう側にかんぬきがされていたらしい。
扉が蝶番ごと弾け飛ぶ音を聞きながら、私は言う。
「……さあ、行きましょうか」
何故か凍りついているフレイさんとクリフさんから蝋燭を受け取り、私は薄暗い部屋の中へと歩き出した。
☆
「よいしょっと……」
夕日が山の向こうに消えて、夜が海からやってくる。私は歩く度に音を立てる荷物を背負い直して、キョロキョロと辺りを見回した。酒場ってたしかこっちだったはずなんだけど……あ、あったあった。
酒場の中はどの国も同じ空気に包まれてる。沢山の人の喧噪と、お酒臭さ。カウンタ―に歩み寄ると、ちょっと細めのおじさんが私の姿に気付いた。店主のおじさんだ。
「おや……セルマさんとこの嬢ちゃんじゃないか。今日は一人かい?」
「うん。今日はちょっと別のことで来たんだ」
辺りを見回すと、おじさんは気を使って私を奥のカウンタ―に座らせてくれた。まだ近くにお客さんが少ないから、ここなら話しやすいかも。この街はいつもお母さんの担当だからこの店に来ることは少ないんだけど、流石、おじさんも分かってる。
ジュースがいいかい、と言われて私は頷いた。準備を始めるおじさんに私は問いかける。
「あのね、おじさん。メイ今日はちょっと調べものがあって来たんだ」
「ほう、情報屋かい?」
うん、と頷いて私はコップに注がれるジュースを見つめる。深い紫色の葡萄ジュースはこのお店のが絶品なんだよね。お母さんに連れられて来る時はいつもこれだもん。
私はそれを受け取っておじさんを見上げる。
「……ええとね、聞きたいのは魔術師の人のことなんだけど……知ってる?アイルークって人」
アンブロシアの出身らしいんだけど、と言いながらジュースに口を付ける私。甘酸っぱい香りと味を堪能しながらもう一度顔をあげると、そこにはさっと血の気の引いたおじさんの顔があった。
「?……おじさん?」
私がそう言うと、おじさんはハッとしたようにこっちを見た。どうしたんだろ、なんだか顔色がいつもと違う。
「あっ、ああ……すまんね。そいつのことは……」
おじさんは辺りを見回して、声が届く範囲に人がいないことを確認したようだった。カウンタ―越しにメイに顔を近づけると、内緒話でもするように小さな声で言う。
「……嬢ちゃん、この街でその魔術師のこと不用意に聞いちゃいけないよ」
「……どうして?」
私も自然と前屈みに、こそこそと話す。おじさんがこんな表情してるってことは、けっこう危険な話だってことだよね。私も周りを気にしながら首を傾げる。
おじさんは口元を隠すようにしてこう言った。
「どうしても何も……この街じゃ、そいつの扱いは難しいんだ。……奴は『殺し』をやったんだよ。しかもただの殺しじゃあない、自分の主人を、だ」
「!」
私はパッと顔をあげた。おじさんは神妙な顔で頷いて、ぽつりぽつりと語り始める。
「そいつがこの街に来たのは3年前。あのファーレン様の孫で15で天才とか呼ばれてた餓鬼だったから、よく話のたねになったもんさ……」