第4章 4
どうしてこんなにこの国に執着するのか。それは自分にも分からない。この国は、生まれた時からずっと此処にあった。此処で沢山の人々の命を抱えていた。この国に生まれ生きる全ての人々の為に。それは理由の一つだが、答えじゃない。本音をいえば、ただこの国が好きなのだ。それ以上の理由は無い。必要ないと、そう思っている。
- 芽生え -
街は騒然とした。突如として現れたアクロスの国旗を掲げた軍隊が街に入り込み、大通りを駆抜けていったらだ。
アクロスの硬質な黒い甲冑を着た騎兵隊が砂漠の向こうから見えてきたとき、街の人々は目を疑った。そして彼らがまるで自分の庭のように人々を蹴散らして大通りを駆抜けていく姿に、やっと気付いた。この国がアクロスに奇襲を受けていることに。アクロスは自分たちの国を貿易国としてなんかじゃなく、利用価値のある隣国としか思っていなかったことに。
多分、それほどまでに街の人たちは宰相の術中に嵌っていたんだと思う。
「さ、さささささサーシャお姉ちゃん!たたたたた大変大変!!」
メイの情報はこの時ばかりは遅過ぎた。奇襲の情報は風のように国中を駆け巡っていたから、メイが情報を持って来たのと僕たちが宿の店主から伝え聞くのが前後してしまったんだ。
でもサーシャさんの反応は僕らに比べて薄かった。
「ええ、奇襲ですね。この場合、一方的な戦争とでも呼ぶべきでしょうか」
宿の一階にあるテーブルに座ってサーシャさんはコーヒーを飲んでいた。殆どパニック状態になっていた店主を宥めて入れさせたコーヒーだ。僕とフレイさんの目の前にも同じものがあるけれど、僕もまた混乱していて口をつける気にはなれない。
「な、なんでサーシャお姉ちゃん、そんなに普通なの!?」
「なんとなく予想をしていました。むしろ遅いと思ったくらいです」
僕らが異変に気付いたのは、朝早くのことだった。ざわめき始めた街の様子に最初はまた何処かで暴動が起きたのかと思ったけど、事態はもっと悪い方向へ運んでいたんだ。
メイは金髪を揺らしてサーシャの隣に座る。
「ど、どうするのサーシャお姉ちゃん!!このままだとメイ達、街の人と一緒に奴隷にされちゃうよっ!」
サーシャさんはコーヒーを飲み干すと、一息ついて街の外に視線を移した。大通りから細い路地へとアクロスの兵士達が走り回っている。噂によると各家庭に押し入って脅し、抵抗する者は痛めつけられるらしい。おとなしくしていればそのうち船に乗せられてアクロスへ連れていかれるという噂もある。
「奴隷が目的なら好都合ですね。多少抵抗しても殺されはしないということでしょう。……タダで船に乗れますね」
サーシャさんの言葉にフレイさんは盛大にコーヒーを噴いた。
「おまっ……まさか、それ利用して船乗るつもりじゃねぇだろうな!?」
「えぇっ!!」
僕たちの反応にサーシャさんは呆れた冷たい瞳を向ける。
「冗談です。お二人は迎えの船が着くまで静かにしていればいいでしょうが、私とメイは場合によっては貞操の危機なので」
「す、すみません……」
僕はとりあえず謝った。もちろん、いつもは『お前等に手出したら殺されるだろ』とか言うフレイさんも、この時ばかりは冗談を冗談で返すことはしなかった。ううん、出来なかった。恐くて。とっても恐くて。
サーシャさんは呆れたようにため息を吐くと、テーブルの足下に置いていたメイの荷物を手渡す。
「あ……」
「アクロスの兵士が宿に入って来たら、その隙を見て逃げます。道案内をお願い出来ますか」
僕らはサーシャさんの指示で荷物を纏め終わっていた。メイは自分の荷物を抱えると、きょとんとした様子でサーシャさんを見上げる。
「い、いいけど……何処まで?」
サーシャさんは自分の荷物の中から世界地図を出すと、簡単に目を通した。そして地図の南西を指し示す。その指がなぞって辿り着いた場所には小さく『アンブロシア』と書かれていた。
その瞬間、フレイさんの表情が凍りつく。サーシャさんはその表情を横目で見やり、メイに視線を向けた。
「南西の村……アンブロシアまで」
☆
ずっとずっと遠い場所。ずっとずっと遠い街。私がふと目を開くと、辺りは真っ暗になっていた。窓はカーテンで覆われていて、隙間から日の光が差し込んでいる。私は私の中の時計に語りかけた。今は……まだ花の刻。人々が働き出す時間。体に巻き付けられた無数のコードを一本ずつ抜いて、私は椅子から立ち上がった。
窓際に近づくと、下から人々の喧噪が伝わってくる。カーテンの隙間から覗くと、歩き回る人の群れが見えた。露天商の老人、子供と歩く母親、旅人達。殆どの人間が誰かと一緒に歩いている。それを見つめていると、この暗い部屋の中に独りぼっちでいるのが変な気分になってきた。
「……ジェイ……アイルーク……」
私はカーテンを掴んだまま、暗い部屋に視線を向ける。でも2人ともいない。時刻はまだ花の刻。ジェイ達は此処とは別に宿を取っているのだから、来ているとしてもまだ一階だ。
「……ジェイ……アイルーク……」
何故だろう。此処にいないことを知っているのに、来ているとしても一階にいることを知っているのに、どうして私は2人の名前を呼ぶのだろう。
ふと、この部屋に一つしか無いドアが開いた。向こうから光が差し込んでくる。私はその眩しさに目を細めた。
「……シルヴィ?」
女の声だった。扉を開けて部屋の中を覗き込んだ彼女は、私が勝手にコードを外していることに気付くと、慌てて近づいてくる。
「シルヴィ、駄目じゃない!勝手にコード外しちゃ。私達がやらないと、バグが発生するかもしれないんだから……」
女はそう言って私の右手を取った。そして私の状態に異常がないか、顔を覗き込んでくる。
彼女は、ジュリア。フルネームはジュリア・カルセラ。登録番号は一桁で、私が作られた当初からメンテナンスを担当している。身長はアイルークより小さくて、私より大きい。髪は茶色で、ショートカットという形をしている。
そういえば以前はアイルークが挨拶の代わりに『今日も豊満な胸ですね』って言っていたけれど、一回レンチで殴られてから言わなくなった。何故だろう。
目の中や手の開き具合、腕の連結を気にするジュリアに、私は言う。
「シルヴィ、大丈夫。……ジェイとアイルークは?」
「ん?2人ならさっき工房に来て、下でコーヒー飲んでるわよ?」
ジュリアの言葉に私はありがとう、と呟き、部屋から駆け出した。吹き抜けの構造をしているこの建物からは、一階にある工房の様子がよく見える。でも何故か、『見る』だけでは私は満足出来なかった。
階段を駆け下り、私のいた部屋の下にある簡単な来客スペースに視線を向ける。そこにはソファに向かい合わせて座っているジェイとアイルークの姿があった。アイルークは私に背を向けているから気付いていないけれど、ジェイはすぐに気付いたようだった。
「ジェイ!アイルーク!」
私は叫んで、とりあえず目の前に背を向けて座っているアイルークに抱きついた。加減するのを忘れてしまったせいか、アイルークはぶつかった衝撃にうめき声を発して、右手で顔を覆いながら苦悶している。
ジェイは私に視線を向けると、一言、おはようと言った。
「……随分と早いようだな」
「シルヴィ、ジュリアが来るより先に起きたっ。ジェイ達待ってたっ」
何故だろう。足がぴょんぴょん跳ねる。何故だろう。なんだか……体の中が温かいもので満たされていく。私はきゅっとアイルークの首に回していた腕に力をいれた。人肌の感触に胸の中がいっぱいになる。
「シルヴィったら、嬉しそうね」
後ろから階段を下ってきたジュリアがそう言った。嬉しい。嬉しいという気持ちは、これを指すのだろうか。私はアイルークの首に抱きついたまま、少し首を傾げた。
さっきまで、ジェイ達が近くにいないという状態に不快感を覚えた。そして2人の名前を呼んだ。でも2人に会えたら……嬉しく、なった。
「うれ、しい……?」
「そう。今のシルヴィ、とっても嬉しそうよ」
でもそろそろ離してあげないと、アイルークが死んじゃうわよ?とジュリアが笑う。アイルークを見やるとギブアップの意味なのか、顔を真っ青にしてソファの背もたれをバシバシ叩いている。
私はアイルークを解放すると、ジェイに視線を向けた。ジェイは呼んでいた本から顔を上げると、ふと笑う。その笑顔に私の表情は自然と緩んだ。
私は言う。私の中の事実を。
「シルヴィ……シルヴィ、嬉しい」