第4章 1
動き出す、動き出す。これは闘いの火種。人は戦いによって己の持つ運命の軸から外れていった。戦いこそ、この小さな世界を動かす力。新芽に降り掛かる雨の恵み。
500年の時を越えて再び、世界は動き出す。『過去の預言書』という、強大な力を求めて。
- 動き出す欲望 -
「……では、ディーター様」
妖艶に口元を歪め、ライラ・メーリングは馬車に足をかけた。僕を含めた城の人間は彼女の見送りに駆り出され、朝早くに城の門の前に集まっていた。
まだ朝靄が街を包む時間帯。今なら安全に街を通る事が出来るということだろう。見送りに来た兵士達の数人はまだ半分寝ぼけた表情で欠伸を噛み殺している。隣に居合わせたテレジアは、馬車に視線を向けながら兵士の足を思い切り踏んづけた。
宰相は名残惜しそうにライラ・メーリングを見つめている。この男が既に彼女の毒牙にかかっているのは明白だ。
「ああ……では、またお会い致しましょう。ライラ嬢」
メーリング卿にもよろしくお伝え下さい、と宰相は言う。彼女はふと宰相の首に腕を回すと、挨拶代わりの口づけをした。そして肩越しに僕らに視線を向ける。
漆黒の色に、獣のような暗い炎を宿した瞳。妖しい空気はまるで獲物を呼び寄せるための擬態であるかのようだ。
ふっと口元を緩め、彼女は馬車に乗り込む。警備兵達が先に動き出し、やがてライラ・メーリングを乗せた馬車もゆっくりと動き出した。開かれた城門から、朝靄の街の中へと馬車が消えていく。
馬車が路地を曲がったのを確認して、バラバラと集まっていた人間が解散し始めた。ジャンは肩を鳴らし、テレジアは大きく背伸びをする。
「さて、と。アタシ仕事戻るよ。2人はどうするね?」
テレジアの言葉に僕とジャンは顔を見合わせた。もともと預言書探しで国を離れていることが多い僕らには、決まった仕事は存在しない。だからやることといえば、大体決まっているようなもの。
「……外を少し見回ってくる」
ジャンは少し悩んで、そう呟いた。外、というのは部族のいる砂漠を指す。あっちもここ数日の暴動で神経が逆立っているから、少し諌める必要があるかもしれない。
「なら、僕も…………?」
ふと、そう呟きかけて僕は城門を振り返った。門の向こう、靄の漂う街から視線を感じる。僕が一歩、二歩とそちらに近づいていくと、通りの建物の角から人の姿が見えた。僕と目が合うと、あわあわと慌てて逃げようとする。
「クリフ君!」
僕は、逃げようとする背中に一言、そう声をかけた。ルクスブルム傭兵学校時代から彼はいつもそうだ。誰かと目が合うと即座に逃げようとする。でも名前を言って呼びかけると、逃げる事が出来なくなる。
「う……」
背中を向けた状態で固まったクリフ君に苦笑して、僕はテレジアとジャンに言った。
「……ごめん、やっぱり街の方を見てくることにするよ」
☆
「……」
窓から光が差し込んでくる。強い日差しがベッドの足下を照らし、机の上に置かれた古い本がパラパラとめくれた。開け放された窓から乾いた風が上ってくる。
手に持った『ヒュペリオン』が太陽の光に黒光りする。ゆっくりとグリップを握り、引き金に手をかけると指先が震えた。おそらくこの武器にかんする知識はあの旅の女の足下にも及ばない。それでもこれがとてつもなく危険なものだという事は分かる。
「……父上」
目の前には、死んだように眠り続ける父……国王の姿がある。白髪まじりの髪、痩せこけた頬、皺の刻まれた目元。上下する胸だけが生きている証と言えるのかもしれない。兄のボルドーに次期国王選出の権限を譲った日から、父はまるで生きた屍のように、眠り、最低限の食事をし、また眠ることを繰り返している。今では昔のように饒舌に言葉を交わす事もなくなり、大好きだった葡萄酒さえも口にしない。
「父上……余は……」
ヒュペリオンを握る手は、テレジアよりも、フリッツよりも、ジャンよりも小さい。自分自身、無力な事は分かっている。三大戦士の力がなければ、自分は何も出来ないただの王子だ。
まるで伝説の魔獣の呻き声のように、風が音をたてて吹き付ける。それを聞きながら、もう一度ヒュペリオンの引き金に手をかけた。
「……」
闘うこと。それは何よりも恐ろしい。目の前にある安寧を拒否し、その上で求めるこの国の平穏と繁栄。時折、このままアクロスの思い通りになってしまった方が幸せかもしれない、と思う事もある。闘い続けることは、痛みと苦しみを続けること。これから自分は、この国の全ての人間にその痛みと悲しみを背負わせることになるのだ。
椅子から立ち上がると、ノックの音がして背後の扉が開いた。
「兄上」
扉から顔を出したのは、腹違いで一番上の兄。国王から王座を譲り受けた後継者ボルドー・マルスだった。面差しは自分と似ている。いや、自分が兄に似ているのかもしれないが。
兄上は何かを気にするようにキョロキョロと部屋の中を見回し、そして安堵のため息をついた。自分の兄だが、この臆病な性格は気に入らない。この男が、父上の跡を継ぐのだと思うと、特にそうだ。
「な、なんだ……話とは」
「……兄上。余は、兄上に聞きたいのだ」
ヒュペリオンを後ろ手に隠し、歳の離れた兄を見上げる。それだけで兄は一歩、片足を後ろへと引いた。臆病のせいだけではない。後ろめたいことが……心の中にあるからだ。
「兄上は……あのディーターという男に王位を譲るつもりなのか?」
「!」
すっと、兄上の顔から血の気が引いた。分かりやすい。余も嘘は上手くないが、兄上はそれ以上だ。そのうえ顔に出ていることに気付いていない。
「そ……んな、ことが……あるわけ……」
「フリッツ達から聞いた情報なのだ、兄上。本当のことを話して欲しい」
冷静に。そう、極めて冷静に。父上は難しい話をするとき、いつも冷静だった。動揺を顔に出したりはしない。ただ真っすぐに相手の目を見つめて、それだけで相手を黙らせることが出来る人だった。今はもう、耄碌してしまってそんな面影は全くなくなってしまったが。
「……そ、そんなことを知ってどうする、フェオール」
兄の顔に汗が浮かぶ。たかが歳の離れた、しかも子供の弟に真実を聞かれただけだ。きっとディーターはこの性格を利用して脅かしたのだろう。
そう思えば思うほど、ふつふつと胸の奥底から、いいようのない悔しさがこみ上げてきた。自分が、兄上の立場ならば。自分がもっと早く生まれていれば。
「……」
余が何も言わないのをいいことに、兄上は弁解し始める。
「し、……知らない方が幸せだと、私はそう思ってだな……」
「……」
知らない方が幸せ。そんなことがあるはずがない。少なくとも、この状況では。怒りに任せてぐっと拳を握りしめる。駄目だ。ここで怒りを表せば、事態は悪い方向へと進んでしまう。
ぐっと喉を突いて出そうになった言葉を飲み込み、顔をあげた。そのとき。
「ボルドー王子……ふざけるのいい加減にするのんね」
壁を蹴るような音が、入り口から響いた。
☆
「はいはい、逃げない逃げない」
ひょいっと襟を掴まれて、フリッツ先生の見た目からは全く想像出来ないほど強い力で僕は捕まった。僕はレイテルパラッシュを抱えた状態で先生を見上げる。
ルクスブルムにいた頃から、僕とフリッツ先生の関係はこんな感じだった。剣の訓練で2人一組になるときも、僕は一人タイミングを逃して独りぼっちになってしまう。するとすぐ先生はそれに気付いて声をかけてくれた。もちろん、先生の相手はハードだし怖いから、全力疾走で逃げようとするんだけど。
「本当に、クリフ君は相変わらずだなぁ」
「ふ、フリッツ先生……」
やっと地面に下ろしてもらうと、僕は安堵のため息をついた。こっそり城の中を眺めてたことを怒られるかと思ったけど、そんなことはないみたいだ。
先生はニッコリ笑って僕の肩を叩く。
「丁度良かった。街の方で少し食事をしよう。……実はまだ朝食をとってないんだ」
「あ、はい……」
城門が派手な音をたてて閉じていく。僕は先生の後を追って、まだ人気の少ない街の中へと歩き出した。実は僕もまだ朝ご飯を食べてない。それを思い出すと、まるで謀ったようにお腹が小さく鳴いた。
朝靄がやっと晴れて、街は乾いた空気に包まれる。フリッツ先生は少し遅れて追いかけてくる僕を振り返って笑った。
「それにしても……ちょっと意外だったなぁ。クリフ君が1人で街に出てくるなんて」
クリフ君のことだからきっと宿に籠ってるかなと思ったんだけど、と先生は言う。
「あ、それは……そ、その……この時間帯なら、安全かなって……」
僕は慌てて思いつくかぎりの言い訳をし始める。フレイさんにばったり会わないように逃げてきた、だなんてとても言えない。昨日の今日だとまだ根に持ってる可能性もあるし……それに、昨日の夜のシルヴィのこともちょっと気になってたんだ。
先生はクスっと笑って、大通りから少し細い路地へと曲がった。
「そうなんだ?……てっきり、彼女に言われて来たのかなと思ったんだけどね」
「えっ……彼女って、サーシャさん……ですか?」
路地を曲がって少し歩くと、こじんまりとした喫茶店が見えてきた。どうやらまだ開店したばかりのようで、人気は少ない。店員さんも1人か2人しか見当たらず、入り口付近の観葉植物の向こうに客の影が一つあるだけだった。
フリッツ先生は扉を開けると、辺りを見回して、店の奥のテーブルに座る。しばらくすると店員が水を運んできてくれた。僕と先生はテキトウに朝食代わりになりそうなものを注文する。
「……先生。サーシャさんからって、どうゆうことですか?」
「ん?ああ……いや、彼女は随分勘が良いみたいだから、この一件に噛んでくるんじゃないかなって思ってね」
この一件……それって多分、ネオ・オリの暴動とか、王位継承のこととか、色んなことが『過去の預言書』に繋がってることだ。昨日の夜のことは誰にも言っていないけど、シルヴィがこの街にいたことを考えるとそれは確実なんだと思う。
でも、サーシャさんは今回、特別な指示を僕らに出してこない。
「あ……いえ、その……」
言葉を探す僕に、先生は笑う。
「大丈夫、大丈夫。彼女だって偵察にクリフ君を選ぶとは思えないしね。ほら、どっちかって言うと自分でやってしまいそうな感じがするし」
……。先生、それフォローじゃないです……。
そんなことを話していると、店員さんがパンとコーヒー、ホットミルクを持ってきてくれた。もちろんコーヒーは先生ので、ミルクは僕の。
「……それにしても、本当にここでキミに会えるとは思ってなかったよ」
フリッツ先生はパンをちぎりながらそう呟く。火傷しそうなくらい熱いホットミルクに息を吹きかけていた僕は、その一言にヒヤリとした。次に続く言葉がなんとなく予想出来てしまったからかもしれない。多分焦りはそのまま顔に出ていたと思う。
「あ、あの……」
「実際、僕たちも随分心配していたんだよ。あちらからの手紙を見て初めて知ったくらいだったしね」
「っ……」
僕はカップを両手で包んだまま俯く。先生と会った時から、その話が出てくることは分かってたことじゃないか。僕は皆や、先生達に問いつめられるのが怖くて、ルクスブルムに近寄れなかった。だからネオ・オリでフリッツ先生に出会ってしまったときも、内心焦っていたんだ。
カップを持つ手に、じん、と熱さが伝わってくる。僕は俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。