第1章 1
うざってえ。もう誰も話しかけんな。
何も知らねえっつってんだろ。ジジイが俺に残したモンなんざ、これっぽっちも無い。余計な名声やら、期待だけ残して消えたクソジジイのことなんて知るか。
俺は何も知らない。知りたいとも思わねーんだよ!!
- 『知』を失った世界 -
潮風が鼻につく、貿易港。中立国グロックワースの大通りは人だけじゃなく、情報や品物も行き交う、最も栄える中心街だ。大通りから少し路地へ足を踏み入れれば、そこは市場へと様相を変える。特に人の多い時間帯になれば、人間が蟻のように通り一帯を歩き回る、俺にとってはウザイことこの上ない場所だ。
すれ違う奴らを一瞥しながら、俺は大きく息を吐いた。最近はこの辺りも物騒なモンを持ち歩く奴が多くなった。中立国といえど、一枚皮を剥いでみれば、ただの平和主義の緩衝国。いつ近隣の国々から攻撃されるか怯えている小国だ。エクリュ騎士団とか言う奴らを軍隊代わりに、危険因子の排除をしているところを見れば、世界平和とか言う掲げ文句も薄っぺらなもんでしかない。
数人の男達が俺の隣をすれ違う。男達の荷物の中から、親指くらいの大きさの木の板が落ちる。俺は足を止めると、その板を拾い上げる。
板には、特殊な文字で『旅標』と書かれていた。色と形からすれば、隣国で作ったものだろう。拾い上げたその手で、俺は通り過ぎようとしていた男の一人を呼び止めた。
「おい。旅標」
旅標は旅人であることを示し、かつ、国への入国するための重要な書類の役割を果たす。これが無ければ今日の宿も無くなる。俺は振り返った男の一人に旅標を放り投げた。
「!……っと、悪いな、兄ちゃん」
礼を言う男に背を向けて、俺は再び歩き出す。
「別に。……じゃあな」
後ろ手に手を振り、俺は再び歩き始めた。
今日はどこの宿に泊まるか、晩飯は何にするか。俺の思考にあったのはただそれだけだった。この間稼いだ金もある。今日くらいなら少し高めの宿にも泊まれるだろう。酒と女を我慢すれば、もう少し金を使ってもいい。もともとこんなご時世じゃ、その日暮らしをするのがもっとも賢い生き方だ。
人の波の中を歩いていると、ふと後ろから何かがぶつかって来た。もちろんそんなに派手なぶつかり方でもなかったし、振り向かなくても相手が大人ではないことぐらい分かった。
「わっ……ごめんなさい」
振り向くと、俺の肘くらいまでしかないような小さいガキがこっちに頭を下げていた。顔は見えないが、金髪をしていて、いたるところに穴が開いているような灰色のワンピースを身に纏っている。
俺はふと嫌な予感に駆られた。
「本当にごめんなさい。……そ、それじゃ!」
「おい、ちょっ……」
ガキは俺が何を言うよりも早く、その場から駆け出していく。俺はすぐにポケットに手を突っ込んだ。しまった、やっぱり無い。
俺は瞬時に手を挙げようとしたが、すぐに止めた。こんな人の多いところで騒ぎ立てれば、すぐに騎士団が飛んでくることになる。捕まって事情聴取なんて面倒なことはしていられない。
「てめっ……そこのガキ!!待ちやがれ!!」
俺は人ごみを掻き分けるようにして、さっきのガキの姿を追い始めた。行き交う人の波の間でちらちらと見えるのは、あの金髪のガキが俺の財布をしっかりと握って裏通りへと逃げていく姿。やっぱりスリだ、と心の中で再確認して、俺は裏通りへと駆け込んでいった。
裏通りは表通りとはうって変わって、人気が全く無かった。まるで立ち入り禁止になっているかのように、誰の気配もしない。暗くくすんだ壁と壁、そして上を見上げると切り取ったような青天の空。旗のように掲げられた洗濯物が、窓から窓へと渡された物干し竿に引っかかって揺れている。
俺は壁に手をついて、大きくため息を吐いた。苛立ちは追いかけている時から募っていたが、あのガキの姿がなくなると、それはいっそう大きなものに変わっていく。
「……畜生っ」
金がなけりゃ、また適当な仕事を探してこなければならない。ただでさえ最近は労力を使うことが多いってのに。今日は運が無さ過ぎる。
俺はしばらく息を整えて、そして表通りに戻ろうとした。その時だった。
「……っ!?」
振り返った視線の先に、1人の女の姿があった。真白な肌に、まるで神が創ったんじゃないかと思うほど整えられた輪郭。二重の瞳と、そして動かない口元。全てが左右対称で、それでいて何者にも叶わないほど、死んだような目をしている女。
奴は直立で俺を見ていた。その瞳には感慨すら浮かんでこない。右手に煌めく長剣を携えているのにも関わらず。
俺は笑った。口元が引きつる感覚を覚えながら。
「またお前らか。……俺様に何の用事があるのか、今度は聞かせてもらえるんだろうな」
壁から手を離すと、俺は奴に向かってそう言った。奴は顔色一つ変えずに、口を開いた。咽喉の奥から、この世のものとは思えないほどの棒読みの声が響いてくる。
『……ターゲット、発見。ナンバー21、行動に移ります』
「……!」
俺が身構えるより先に、奴の体が傾いた。獣のようなスピードで間合いを詰め、右手に持っていた長剣を左から右へと一閃させる。俺はそれをギリギリでかわすと、一歩後ろに下がった。奴は構わずに体重を右足から左足へと移動させ、今度は斜めに剣を振り上げる。ミシ、とその腕が音を立てた。
俺は小さく舌打ちした。奴のスピードが速すぎて、反撃をする暇がない。もちろん俺は近距離攻撃型ではないし、得物なんざ持っていない。
仕方ない、と心の中で呟いて、俺は攻撃の隙を狙って女の腹部を蹴り倒す。普通なら男であろうと女であろうと、腹というのはある程度の弾力があるものだ。けれど奴の体はまるで壁を蹴ったような感触しかしなかった。
奴の体が後ろへと傾く。たったそれだけの隙で、俺様には十分だ。
「さっきから、どいつもこいつも、いちいちいちいち……うっせぇんだよ!!」
今まで溜まっていた鬱憤を晴らすように、俺は利き手に力を込めた。瞬時に奴の目の前に炎が吹き上がり、それが轟音をたてて爆ぜる。どうやら俺の怒りが反映してか、爆発音は1発、2発、そして3発と響いた。
俺は力の入れすぎで震えている手をヒラヒラと振った。どうやら必要以上に力を入れすぎたようだ。手の痺れがそれを訴えている。
騎士団が来る前に此処から立ち去った方がいい。身を翻して俺は歩き出した。奴が死んだのか、しっかりと確認しないまま。後から聞いた話によると、この時俺の左胸の辺りに煙の向こうから赤い光が差していたらしい。もっとも、俺はそれに気付くことはなく……。
「―――― 危ないっ!!」
そんな声が、何処からか響いた。それが誰の声か、何処から響いているのかを確認するより先に、俺は後ろを振り返っていた。
パッと左腕が血煙を吹いた。そして後から遅れて、一発の轟音が裏路地に響く。痛みが襲ってくるより先に、俺は煙の中に立っている『奴』の姿を見つけた。真白な肌は焦げて、腕が片方無くなっている。整った輪郭もまた半分は崩れて、その傷口からは幾本もの線が見えていた。
人の神経などではない。筋肉でもない。それはまるで、造られたような太い糸状のものだった。
「……っ!」
俺は戦意を喪失していない奴の姿を見て、少しだけ背筋に冷たいものが通ったような気がした。再び身構え、そしてもう一度右手に力を込める。装身具がシャラシャラと音を立て、腕輪に埋め込まれた宝石が光を灯した。
最大限の魔力を使って俺が反撃しようとしたその瞬間、背後より少し高い位置から、その声は響いた。
「伏せてください、頭が吹っ飛びますよ」
やけに冷静な暴言に、俺は振り返るより先に伏せることにした。同時に後ろから先ほどの音と似た鋭い轟音が響き渡る。空気を裂くような、そんな音。
俺が瞬きをしたその瞬間、あの音と同時に奴の額に穴が開いた。何かが貫通したような穴だった。人間のものとは思えないその体は傾き、開いたままだった目がゆっくりと閉じていく。
『捕ソク、失敗……。No21、修復フカ能、シュウ復、フカ、ノ………』
そんな声が微かに聞こえたが、俺には意味が分からなかった。すぐに背後から、あの声が聞こえてくる。
「人が集まってきます、早くこちらへ」
「あ、ああ……」
振り返ると、行き止まりの壁の上にそいつは立っていた。年は俺とそう変わらない。金髪というよりもクリーム色に近い、肩で切りそろえられた髪に、青い瞳をしていた。壁の上に立っているからあまり分からないが、身長はそんなに大きくはない。しかし、その右手には今では殆ど出回っていない昔の得物、リボルバーが握られていた。
俺はうろたえながらも頷いた。未だに何が起こったのか理解できないまま、差し出されたそいつの手を掴んで気付く。先ほどの衝撃で視界を覆っていた砂煙が晴れてくると、その体のラインまでもが見えてきた。
(こいつ……)
自信たっぷりの表情を浮かべて、そいつは赤い唇の端を吊り上げて笑っていた。
(女ぁ!?)
☆
「私はサーシャと申します。フレイ・リーシェンさんで間違いはないですね?」
サーシャはカフェの椅子に腰掛けながら、俺に向かってそう言った。こいつもか、と俺は苛立ちを覚えたが、晩飯を奢ってくれるという一言で仕方なくついてきてしまった。俺も反対側の椅子に腰を下ろして、つまらなそうに肘を突いてサーシャに視線を向ける。
次に言う言葉は、大体予想していたものと同じだった。
「ではやはり、貴方が……」
俺は今まで何千回も聞いたその台詞が繰り返されるのを、不機嫌な表情のまま聞いていた。サーシャは運ばれてきたティーカップを受け取って、もう一度俺に視線を向ける。
「貴方があの『過去の預言書』を創造された魔術師ファーレン様のお孫さんなんですね」
「ああ。……それが?」
そう、それが俺の肩書きだった。ファーレンは俺の祖父で、有名な『過去の預言書』を作った稀代の天才魔術師。彼を育てた一族はすぐに有名になり、その血を引く子供たちは一流魔術師としてその名を広めていった。そして俺は数多の孫たちの中で唯一、ファーレンと正妻との間に出来た息子の、子供。つまりはファーレンの血を受け継ぐ正統な子孫というわけだ。
おかげで俺は、昔から何かと『ファーレンの孫』として期待を受けてきた。ファーレンが過去の人となった今でもそれは同じだ。祖父譲りの茶髪と赤みがかった瞳のせいで、すぐ魔術師の家系だとバレる。茶髪に赤眼というミスマッチな組み合わせは、多分世界中どこを探してもファーレンの家系の者しかいないだろう。
女は俺をまじまじと見つめて、そして大袈裟なほどにため息を吐いた。
「ファーレン様の孫と聞いていたので、どれくらい聡明な方かと思っていましたが……」
「……あ?」
なんか言ったか、この女。俺の言葉に、サーシャはニッコリと貼り付けたような笑みを浮かべて繰り返す。
「聡明という言葉とは無縁の野蛮人のようですね」
「はぁっ!?」
微笑を浮かべて切って捨てたサーシャに、俺は唖然としてしまった。あまりに鋭い暴言に言い返す言葉すら見失ってしまう。ついさっき会ったばかりの人間を野蛮人呼ばわり。そういや、さっきは『頭が吹っ飛ぶ』とか言ってなかったか?
俺が何か言い返そうと口を開くより先に、サーシャは真面目な顔に戻って話し始めた。
「……私は『過去の預言書』を探しています。知っている情報を教えていただけませんか」
「お前、野蛮人とか言った後に言える台詞か、それ」
「あら、口に出てしまっていましたか。大丈夫です、見た目は不良崩れにしか見えませんから」
野蛮人の後は不良崩れ。いったいどんな女だよ、こいつ。俺は盛大にため息を吐いて、持っていたグラスをテーブルに叩き付けた。ガンッ、という鈍い音が響いて、周りの客の視線まで集めてしまう。
俺はサーシャを睨みつけると、きっぱりと言い捨てた。
「……知らねぇな。あんなクソジジイのことなんざ、知ったことかっ!!」
最大限に不機嫌な俺を目の前にして、サーシャは少しだけ目を丸くしたが、あまり気にしていない様子で聞き返す。
「……何も、ですか?」
「何も、だ」
耳が悪いのか、と言い返すと、サーシャは俺の発言を無視してなにやら考え始めた。おい、俺の話聞いてんのか、コイツ。
サーシャはしばらく考え込んで、そしてもう一度俺に視線を戻した。ウエイトレスが持ってきた伝票を掴み、変わらない真剣な表情で俺を真っ直ぐに見つめる。その強い碧眼の力に、俺は一瞬たじろいでしまった。なんだ、この自信たっぷりな視線は。
サーシャは俺から視線を離さず、一つ一つ言い聞かせるように話し始める。
「……いえ、何か知っているはずです。ファーレン様の遺言に『過去の預言書』は貴方に任せると書かれていたのですから」
「うっ、それは……」
それは間違っていない。あのクソジジイは何故か遺言で俺の名前を指名しやがった。数多の孫たちの中で、おそらく一番顔を会わせる回数も少なかった、この俺に。俺だってあのジジイに相手してもらった記憶なんざ、数えるほどしかない。
「知るかよ!『過去の預言書』はすぐにどっかの国の奴が貰って行ったんだ、それ以降の行方なんて……」
「知らないというのなら、手伝って下さい」
見上げるサーシャの口から、とんでもない爆弾発言が飛び出した。見下ろしてるのはコッチだってのに、こいつの傍にいると立場が逆転しているような気がしてならない。
「はぁっ!?」
俺の素っ頓狂な声にサーシャは顔を顰める。こちらだって嫌ですがと、はっきり前置きしてから話し始めた。てか、そんな前置きいらねぇっての。
「……手伝え、という言葉は間違ってますね。では、『依頼』でいかがでしょう?」
自信たっぷりの表情だ。ついさっき、行き止まりの壁の上から手を伸ばした時と同じように、赤い唇の端を上げて、満面の笑みを浮かべている。いったい何処から湧いてくるんだよ、その根拠のない自信は。
「依頼ぃ?馬鹿言うなよ、野蛮だの不良崩れだの言うようなやつの依頼を聞くほど、俺は……」
「では、どうぞ」
サーシャはそう言って、手元にあった伝票を俺に突き出した。そこに並んだ数字の羅列を目の前にして、俺は固まってしまう。財布はあの時のガキにスられたままだ。つまり、俺は今文無しなわけで。
サーシャはそれを全て予測していたかのように、破顔する。
「私としても、貴方のような野蛮人はお断りしたいところですが……『過去の預言書』の後継として選ばれた人間ならば、使いようによっては私の助けとなるかもしれません。……もっとも」
サーシャは伝票をヒラヒラさせながら、笑っている。この女、伝票押し付ける気か。いや、待て、俺の財布はさっきのガキの手の中だ。文無しの俺に払える金なんてあるはずもなく……。
自信たっぷりの笑みを目の前にして、俺は足場が崩れていくような気がした。もう2度と、あのクソジジイとは関わらないように生きていこうと思っていたのに。
そう、これが俺の……否、俺たちの悪夢の始まりだった。