第3章 2
言葉は思ったよりも冷たく響いた。シンと静まり返った部屋の中に、言葉の余韻が反響している。でもそれを言った俺自身は気付いていなかった。その意味と、サーシャの瞳に。
薄暗い部屋の中、扉から差し込む光は眩しい。その光を遮るように立っているサーシャの姿は殆どシルエットにしか見えなかった。
サーシャは言う。淡々とした言葉で。
- 止まった時間の中で -
アイルークと名乗ったあの男の人は、宿で食事をとると、別な場所に宿をとっていると言って帰って行った。『サーシャさんが止めるのならこっちに泊まってもいい』なんて言ってたけど、もちろんサーシャさんの冷たい視線を受けると、肩を竦ませてまた明日、と笑っていた。本当にフレイさんの従兄弟だとは思えない。
僕はサーシャさんと一緒に二階に上がると、部屋まで案内した。鍵を手渡すと、ふとサーシャさんが向かいの部屋に目を止める。
「……フレイさんは向かいの部屋ですか?」
「あ、はい。どうしても個室がいいって……。あ、ちなみに僕は隣の部屋なんで、何かあったら言って下さいね」
そう言って僕は自分の部屋に戻ろうとした。久しぶりにベッドの上で眠れると思うと、気分が軽くなってくる。ドアに手を伸ばすと、ふとサーシャさんがこちらに視線を向けた。
「……すみません、クリフさん。部屋に戻る前に、少しお話したいことがあるんですけど」
いいですか、と言うサーシャさんの表情は真剣だった。僕は頷いて、ふと首を傾げる。サーシャさんのその表情が、さっきアイルークさんと話をしていたときのそれだったからだ。
サーシャさんはフレイさんの部屋の扉を叩き、一言二言言葉を交わして、中に入る。僕は慌ててサーシャさんの後を追った。まだフレイさんは寝ていなかったんだろうか。
「……し、失礼します……」
部屋の中は薄暗かった。廊下から差し込む光が部屋の中をかろうじて照らしている。窓際のベッドの上には、起こされたのか単に機嫌が悪いのか、こっちに視線を向けずに唸るフレイさんがいた。
「……んだよ。さっきの話なら、アイルークから聞いただろ。話す気はねーぞ」
部屋の中に漂う不機嫌なオーラに僕は一歩後ずさった。けれどサーシャさんは気にした様子も無く、立ったままフレイさんを見下ろしている。その背中には何処かピリピリした空気が伺えた。
サーシャさんは抑揚の無い声で言う。
「……『過去の予言書』の情報が入りました」
「っ!?」
「えっ……本当ですか!?」
僕はついそう叫んで、慌てて後ろ手で扉を閉めた。フレイさんは一瞬反応した後、サーシャさんの顔を見上げて、近くにあったランプに魔法で火を点す。辺りが少し明るくなって、お互いの顔がかろうじて見えるようになった。
サーシャさんは僕とフレイさんの顔を交互に見て、頷く。
「ええ。……なんでもコロッセオの報奨金の代わりにされているとか」
エレンシアのコロッセオ。この国では口にしてはいけない単語をサーシャさんが簡単に口に出した時、フレイさんの表情が険しくなった。僕も唖然とした表情で、淡々と話すサーシャさんを見つめる。
フレイさんはサーシャさんを見上げて言う。
「……まさかお前、俺とクリフでそれを獲ってこいなんて言う気じゃないだろうな……?」
「えっ……えぇぇっ!?」
僕は咄嗟に叫んだ。きっと僕じゃなくても、普通の人なら同じ反応をしたはずだ。だってあのコロッセオは『死の闘技場』とも呼ばれるくらい、残酷で冷徹な、それこそ死と生のどちらかしかないこの世の地獄のような場所なんだから。
僕は体の中から血の気が引いていくのを感じた。だってあそこは『負ける』なんて言葉は存在しない。どちらかが死んでしまえば終わりの世界なんだから。
チラ、とサーシャさんが僕に視線を向ける。僕は勢い良く首を左右に振った。だって、僕があんなところに出たって、すぐに殺されてしまう。
「……フレイさんは?」
サーシャさんはため息をついて、フレイさんに視線を向けた。フレイさんはじっと足下に視線を向けて、そして苛立ったように息を吐く。その表情は怒っているようなのに、何処か遠くを見るような、そんな瞳をしていた。
「……俺はお前らが思ってるほど、有能じゃねーよ」
「……!」
僕はふと首を止めた。視線を逸らすフレイさんは、まるで取り残された子供のようだった。
「……それはどうゆうことです?」
「どうもこうもねぇっつーの。……お前の見込み違いってことだ」
サーシャさんはふと顔を顰めた。その表情に僕は二人を見比べる。いつもの喧嘩とは明らかに違う空気に、僕はなす術もなく、ただハラハラしているしかなかった。
サーシャさんはじっとフレイさんを見つめる。顔を上げようとしないフレイさんの姿は、サーシャさんにはどう映っているんだろう。
「怖くなったんですか」
僕ははっとしてサーシャさんに視線を向ける。どうしてそんなに過敏に反応したのかは分からない。それが僕自身の気持ちだったからかもしれないし、フレイさんの怒りを抉じ開ける禁句だったからかもしれない。どちらにしても、僕の仲裁は間にあわなかった。
「っ、ふざけんなよっ!!」
突然、サーシャさんの体が突き飛ばされた。フレイさんは突き飛ばした手でそのままサーシャさんの襟首を掴んで持ち上げる。僕は咄嗟に体が動いたけれど、二人を止めることは出来なかった。
怖かったんじゃない。二人の間には、僕が仲裁に入るような隙がなかったんだ。
「あのジジイの孫として予言書探しを手伝って、あのジジイの孫として予言書を取り返してこいってか!?」
襟を掴まれ、サーシャさんは顔を顰めた。けれどその瞳は鋭い。まるで相手を射殺さんとするような、そんな目をしている。
「手伝ってほしいならアイルークにでも頼めばいいじゃねーか!アイツだってあのジジイの孫だ、俺よかお前には使いやすいだろっ!!」
「……」
サーシャさんは何も言わずにフレイさんを睨みつけている。僕は何も言えないまま、フレイさんの怒鳴り声を聞いているしかなかった。今のフレイさんにはきっとどんな言葉も耳をかしてもらえない気がした。
フレイさんは何も言わないサーシャさんを揺さぶりながら吐き捨てる。
「……それともアレか、俺たちはお前にとっちゃ捨て駒か」
僕はサーシャさんを見る。その横顔には困惑の色も、恐怖の色も、憤りの色も浮かんでいなかった。怖いくらいの無表情、そして冷徹な色の瞳。笑うときとは全く違うその顔。僕はサーシャさんのそれが一番苦手だった。
微かに開かれた唇が、言葉を紡ぐ。その瞳ははっきりとフレイさんを睨んで。
「……そうですね」
口にされた言葉は、あまりにも残酷だった。
「!」
「えっ……」
僕もフレイさんも言葉をなくした。サーシャさんはフレイさんの手を振りほどくと、何事もなかったかのように服を叩く。セミロングの髪をかきあげて、いつもの表情を浮かべる。強気で、少しだけ人を見下しているようで、でも本当は優しい、そんな表情。
でも、今は少し違う。
「私にはやらなくてはいけないことがあります。そのためなら、私はどんな残酷なことだって出来る……」
サーシャさんはそう言うと、フレイさんに背を向けて歩き出した。ドアを開くと、向こうから廊下の光が差し込んでくる。強い光に目がくらんで、サーシャさんの姿は影のように真っ黒だった。
僕は何か言わなければと口を開く。けれど喉を突いて出てくる言葉は陳腐なものばかりで、僕は言葉を飲み込んだ。
サーシャさんは言う。淡々とした表情で。
「力のない者はいりません。帰るというのならば、帰り道くらいは教えましょう。……契約も、無かったことにします」
☆
朝の日差しは僕の目に染みた。僕は白み始めた空を見上げてため息をつく。
朝食は僕が一番先に取った。他の二人は予想通り、時間通りに食堂へ降りて来なかった。サーシャさんはもうすぐアイルークさんと合流する予定だから、もしかすると何処かで食事をとるのかもしれない。フレイさんはきっと食事を部屋まで運ばせて、そこで食べるんだろう。
僕は昨日の夜のことを思い返す。フレイさんの従兄弟との再会、苛立ったフレイさんの姿、そして残酷なことを言うサーシャさん。
捨て駒と言われたのには、流石に僕も堪えた。まだ出会って間もないし、お互いのことだって全然知らない間柄だけど、まさかそんな風に思われてるなんて思いもしなかったから。
『それともアレか、俺たちはお前にとっちゃ捨て駒か』
『……そうですね』
サーシャの言葉を思い出して、僕はつい目尻を擦った。確かに僕は弱いし、臆病だし、フレイさんやサーシャさんの足手まといなのも分かってる。でも、そんな風に思われるのは辛いんだ。
まだ朝も早い時間帯だから、街には人の姿が少ない。僕は人目を避けるように歩きながら、街の中心にある大広場の前まで来た。目の前には針の止まった時計塔が聳え立っている。朝もやで文字盤は見えないけれど、初めて見た時計塔に、僕はトゥアス帝国が世界を統一していた頃の平和な時代の面影を見たような気がした。
大広場の中央には丸い噴水がある。もっとも、水を汲み上げる動力の使い方が分からないため、水は溜まったままだった。緑色の藻が、水の中で揺れている。
僕はその淵に腰掛けて、涙でぼやける視界を拭った。護衛の仕事がなかった時や、依頼人に呆れられた時、僕はいつも悲しみを紛らわせるように唄を歌う。鼻歌程度のものだけれど。
「ひとーつ星のー、……御名のもと」
ずっと昔に教えられた。悲しいときは唄を歌え、苦しいときは空を見上げろって。
空は少し曇っているけれど、時折雲間から差した光がまるで神様のお告げのように空気を輝かせている。風のざわめきは音の外れた僕の唄をかき消してくれた。
「……駈ける風のー、ざーわめき」
人の足音が増えてくる。きっと人々が起き出して、今日一日のために働き始めるんだ。僕は空を見上げながら思う。もうすぐ日が昇ってくる、と。
「憶いー、願う……清き、ここーろ」
ふと、エレンシアの街並に視線を戻した僕は、広場の端に不思議なものを見つけた。広場の西側は公園のようになっていて、そこにワンピースを着た少女が立っている。頭の白い帽子が朝日に照らされていた。こちらに背を向けているけれど、見る限り14、15歳くらいだろう。長い髪を揺らしながら、じっと動かない。
(緑の髪……染めてるのかな?)
僕は首を傾げた。それにしてもこんな朝早くから何をしているんだろう。友達でも待っているんだろうか。
「誰が、ためーに…………っ!?」
歌っていた僕は、咄嗟に腰を上げた。なぜなら、僕の視界に入っていた少女の体から、急に力が抜けたからだ。膝が崩れ、体が前のめりに倒れる。まるで急に意識を失ったような、そんな感じに。
気付くと僕はその子のところに駆け寄っていた。
「だっ、大丈夫!?」
抱え上げると、その子の体はまるで死んでいるかのように冷たかった。その小さな体を仰向けにすると、その子はうっすらと目を開く。
真っ白な肌に整った顔立ち。物語から出て来たのかと思うくらい綺麗な子だった。真っ赤な唇が動いて、視線が僕を捉える。
「……ジェイ……?」
掠れた声がそう呟いた。僕は慌てて辺りを見回した。名前から考えると、この子の男友達か、お兄さんか、お父さんか……いやでもお父さんを呼び捨ては普通しないから……あっ、でもそうするとお兄さんもだ。でも喧嘩中だとよくあることだし、お父さんと喧嘩中ならそうゆうこともあるかもしれないし……って、そうじゃない、そうじゃなくて。
僕は周りにその『ジェイ』っていう人がいないのを確認して、首を横に振った。
「……ち、違うよ。僕はその人じゃない」
僕がそう言うと、女の子は目を見開いて僕を見た。驚いてるんだろうか。
「誰……?」
「えっ、僕は……僕は、クリフ。クリフ・パレスン。キミは……」
少女は透き通った瞳で僕を見つめた。本当に凄く綺麗な女の子だ。綺麗に染められたワンピースと真新しい靴。もしかしたら何処かのお嬢様かもしれない。
その子はゆっくりと体を起こすと、僕をじっと見つめた。そう見つめられるとなんだか恥ずかしいんだけどな……。
「『クリフ』?……『クリフ』、『クリフ・パレスン』……」
「う、うん。……どうかした?」
少女は僕をじっと見る。あまり表情を変えないけれど、笑えばきっと可愛いのにと僕は思う。
「わたし……私、は、シルヴィ。シルヴィ・フェブライン」
彼女はそう言ってゆっくりと立ち上がった。僕は立ち上がって砂を払うと、傍に落ちていた帽子を手に取った。何度か叩いてシルヴィに手渡す。
「急に倒れたからビックリしたよ……具合は大丈夫?」
シルヴィは僕の顔と帽子を見比べて、そして頷いた。顔を隠すようにして帽子を被ると、しっかりとした足取りでクルッと回ってみせる。ワンピースの裾がふわっと膨らんで、まるで踊り子か何かのようだ。
シルヴィは自分の体を見回して頷く。
「うん。体に異常なし。……シルヴィ、もう大丈夫」
「そっか、良かった。……誰かと待ち合わせしてたの?『ジェイ』、って言ってたけど……」
僕は少し屈んでシルヴィの顔を見つめる。それは僕の癖だった。自分より小さい子が相手だとどうしてもこうやって目を合わせてしまう。特にシルヴィは大きなツバの帽子を被っているから、屈まないと表情が見えなかった。
シルヴィは辺りを見回して、そしてもう一度僕に視線を戻す。
「『ジェイ』……ここで待ってるように、って言ってたの」
「『ジェイ』って、友達?それとも家族?」
僕の言葉にシルヴィは首を横に振った。目をパチパチさせてこっちを見上げてくる。
「……『ジェイ』は、『ジェイ』よ」
「……うん?」
微妙に噛み合ない会話に僕は混乱した。何度問いかけてもシルヴィは『ジェイはジェイだ』としか言わないし……。僕は途方に暮れながら、とりあえずそのことは保留することにした。
「じゃあ、とりあえずその『ジェイ』って人を探そう。あんまり一人でいると危ないよ」
シルヴィは首を傾げると、しばらくして口を開いた。
「……ダメ。『ジェイ』の言ったことは絶対。だからダメ」
僕は首を傾げながら辺りを見回した。だんだん人通りは多くなって来てるけど、シルヴィの待ち人が来る様子はない。それに歩き回って、何かの間違いで旅人だって気付かれたら、きっと『淵霊嶺』行きだ。
僕は慌てて首を振る。
「そ、それじゃあ……あ!あの噴水の所で待ってよう。待ってるようにって言われたのなら、きっとすぐ戻ってくるよ」
「……」
シルヴィは何かを考えるように地面に視線を向けた。硝子みたいな綺麗な瞳が地面と睨み合い、しばらくしてまた僕の顔を見上げる。
「うん、それなら『ジェイ』の命令に反しない。……了解しました」