第3章 2
人はこの世に生まれ落ちて、やがて死に逝くものだということを私は知った。それは誰にとっても例外なく訪れるべき、奇跡とも呼ぶことの出来る平等。等しく死に逝く者のみが持つ、当然の権利として存在するもの。しかし、人は死の瞬間を選ぶことは出来ても、生の延長を許されることはないのだ。
- かつて交わされた問い -
私が持っている父の記憶など、おそらく右手で数えられるほどのものでしかない。そこに存在する父は何も語らなかったが、それでも彼の意志は強く根付いたまま現在まで続いている。
いや、実際には兄だけではない。数多の国、数多の人間達が願っている。かつて亡国が成し遂げた不老長寿……永遠に続く命というものを。
誰もが死に恐怖し、その暗闇を払いのける為に予言書を探しているのかもしれない。そこに記される文明という名のメティス、知という名の永劫。それは力を手に入れることでも、国を手に入れることでも、積もった探究心を癒すためでもない。
渇望しているのだ。永久に生き長らえるというその響きに。
『サーシャ。立ちなさい』
ジェイロードとの訓練を終えると、私はいつも立っていることが出来なくなった。地面に転がると大きく呼吸を繰り返す。カタリナは私に歩み寄ると、立ったまま続けた。
『……サーシャ。立ちなさい』
『……はい』
今日の訓練は槍術だからまだ良かった。私は力の入らない手を握りしめ、槍に頼って立ち上がる。髪についた砂がぱらぱらと足下に散った。
カタリナはしばらく私の様子を見ると、ため息をついた。嘆息にも似たため息は何度目だろう。ふと顔を上げると、こちらを見つめていた兄がその場を去っていく。息が乱れているものの、ジェイロードにはまだ余裕がある。
『貴女も顔を洗ってきたほうがいいでしょう』
カタリナは背を向けると、荷を置いた場所へと歩き出す。私は呼吸を整えると、母の背中に向かって問いかけた。
『母様。……一つ聞いても良いですか』
私の問いに、カタリナは無言のまま振り返った。まだ荒ぶる心音を飲み込んで、私はカタリナを見つめる。ずっと抱き続けてきた疑問があった。訓練と称して兄と戦うこと、母の手荒な指導。嫌になったことはなかったが、疑問は一つだけ浮かんでいた。
カタリナの瞳に、私が映る。
『母様は、死についてどうお考えですか?』
『……』
私の問いかけに、カタリナは再び歩み寄ってきた。私の手から槍を受け取り、そして慣れた手つきでクルリと回す。風を切った刃が乾いた音を立てた。
『死とは、生命全てに訪れる平等。……いつか私にも訪れるでしょう。貴女にも、ジェイロードにも』
死のない生などないのだと、カタリナはそういった。半不老不死といえども、いつかは終わりがくる。永遠も永劫もない。終わってしまえば、やがて忘れられていく命。誰もが同じ運命を辿る。
私は地面に視線を落とした。
『なら……人は何故、生き長らえようとするのですか』
今まで、数多の者達と相対し、戦ってきた。しかしその中に、勝利を信じることなく戦いに身を投じた者がいただろうか。我々も彼らと変わりない。生きる為に、鍛錬を繰り返している。
命などというものは曖昧で、形すらない。誰かが名付けた概念に宗教心や運命といったものを絡めて、人は恐れている。いつ消えてしまうのか、いつ失ってしまうのか。誰も知らないことだからこそ恐ろしい。
『……ある男は、それが全ての悲しみを断つのだと言いました』
カタリナの言葉に、私は顔を上げる。
『人の全ては生に起因しているのだと。……確かにその考えに異論はありません』
カタリナは日暮れの紺色に染まった空を見つめながら呟いた。
『しかし、それが本当にこの地上に生きる者の為になるのか……』
もしもそうなってしまえば、そこに生は必要なのか。
この大地に生きる者達を……人と呼ぶことが出来るのだろうか。
☆
終わらない。めまぐるしく変化する戦況に、私は唇を噛んだ。先ほどから何度も繰り返される攻防。脳裏に過る、母の言葉。
ふと目眩が襲ってきた。あの薬の効果だろうか。徐々に効くのならまだ良いのだが、体を動かす度に薬が回る。体の動きが鈍る。私は口の中に溜まった唾を吐き出した。呼吸がままならない。
拳を握りしめ、クロノスを構える。時折視界が歪んだ。時間がないのだと、心音が私を焦らせる。
予言書を手に入れるには、勝つしかない。私達兄妹の間では、それは生と死でしかない。抗っているのだろうか、私達も。母すら答えを導き出すことの出来なかった答えを、私も模索しているのだろうか。
「ハァ……っ!」
サーベルの剣先を避ける。恐怖心を押さえつけ、相手が狙う急所を一瞬で読む。体をねじり、最小限の動きでかわし、次の攻撃に転じる。あの時の訓練から、それは戦いへと変化していた。
ふと、兄が私から距離をとった。私は警戒しながら、注意深く相手の動きを見つめる。
兄は一度サーベルの先を降ろした。微かに乱れた息を整え、そして私を見る。碧眼の瞳は、誰よりもカタリナによく似ていた。
「お前は……何故、戦う」
問いかけは至極淡白なものだったが、ジェイロードの目が全てを語っていた。予言書を手に入れるために戦うだけの理由とは何か。私には、どこかの庭に眠る人間のように狂った妄執もなく、少年王のように国と民を背負う義務もない。ましてや、稀代の魔術師と呼ばれた一人の老爺のように過去を変えたいわけでもない。
勿論、焼き払ってやろうというのは本音。こんなものの為に戦うのは一度限りで十分だ。
「お前は……何故、生を賭して戦う」
「これしか……生き方を教わって、いませんから」
私はクロノスを握りしめた。生と死の綱渡りを繰り返して、私は生きてきた。安穏に手を伸ばせば、届かないこともないのかもしれない。休みたいと思えば休むことも出来たのかもしれない。それでも、私は不器用に戦いに身を投じてきた。
この身がルミナリィだからではない。通常の人間より少しばかり死に遠いところにいるだけだと、そう思っている。ルミナリィの……不老不死の力が無くても、おそらく私はこうやって兄と対峙しているだろう。
「……いえ、違いますね」
生まれ落ちた全ての者に死は与えられる。誰もがいずれ訪れる闇に恐怖し、生きることを願い続ける。それは苦しみなのかもしれない。渇きを潤すように永遠なる魂を求め、誰もが手に入れることが出来ずに死んでいく。
私がこんなことを思うのは滑稽なことだ。それでも、それが理由だとしたら。
「……ある男は、それが全ての悲しみを断つのだと言いました」
彼が何によってそう思ったのか、それは分からない。それでもその気持ちは私にも理解することが出来る。誰かの為に涙を流し、誰かの死を悔やんだことがあるのなら。
「人の全ては生に起因しているのだと……」
確かにその考えに異論はない。生きることは喜びであり、死ぬことは苦しみである。いや、もっと簡単なことだろう。
人は、生きていたい。死にたくない。
「……」
もしも、兄が母を殺した時、兄の口から弁明の言葉が出ていたのなら、今と何かが違っていたのかもしれない。私も同じように、父の抱いた願いを正しいものとして受け入れていたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。私は、旅をしながら、この目で見てきたのだ。
「私は……そうは思いません」
ジェイロードが訝しげな表情でこちらを見る。私はクロノスを回転させた。カチャリ、と音がして私の手の中になじむ。その感触を頼りに、私は戦いを生き延びてきた。
正否は誰にも決めることは出来ない。それでも、私の中に、私の答えはある。
「人の全ては死に起因する。死を前にするからこそ、人は生きようとするのです」
予言書がどうなろうと、結局のところどうでもいい。ただ、私の中にある答えだけは否定させはしない。数多の戦いと、数多の記憶の中から生まれた答えを、守る為にただ戦う。
「叶わぬ願いに溺れながらも、生きようとする姿は美しい」
☆
瓦礫にまみれた街は、時の流れを感じさせた。俺はバランスを崩しながらも、強風に逆らって進む。アイルークとの戦いで無茶をしたせいか、足が笑ってまともに前に進まない。ヴァルナの召喚も長過ぎた。俺は足を止めて辺りを見回す。
「ちくしょう、何処まで行ったんだよ……っ」
見渡す限りの、瓦礫の山。風化したかつての帝国には繁栄の跡は見られない。
サーシャは無事なのか。あのバケモノが簡単に負けるとは思えないが、薬のことが気になった。本人は大丈夫だと言っていたが……本当にそうなのか。
自分の兄を殺すのだと、サーシャについていくことを決めた時、アイツはそう言っていた。その為だけに、俺達を雇った。その為だけにあちこちを周り、予言書を集めてきた。
全て、ジェイロードと同じ舞台に立つためだけに。
「サーシャ……」
サーシャの口から、その後を聞いたことはない。アイツはただ、己が目的の為だけに生きている。もしも、ジェイロードを殺すことが出来たとしたら、サーシャはどうするつもりなのか。
懐に入れた小瓶が微かに震える。
「くそっ……」
ローブの上から握りしめると、俺は前を向いた。あの2人がこっちに行ったことはたしかだ。歩き続ければ、必ずたどり着くはず。
俺は足を引きずって歩き出す。満身創痍のわりに動くことが出来るのは、おそらく俺自身、この旅の終わりを目覚めの悪い結末にしたくないからだ。
無惨に崩れ落ちたガラクタが足を取る。それでも、俺は前へと進んだ。
「……ふざけんなよ」
砂風が言葉を奪い去っていく。