第2章 2
私は夢を見ている。人形が自由な器を手に入れ、平穏の時を過ごしている夢を。そこで私は私であり、私という人形である。これは私が見ている夢なのか、それとも人形が見ている夢なのか。水面に漂う泡のように儚く、降り始めの雪のように哀しく……夢の終わりは突然に訪れる。
- 泡沫 -
メモリにインプットされた戦いに関する知識は、全てマスターであるジェイロード・レヴィアスのものをコピーしている。彼が母であるカタリナから受け継いだという力、経験、その全てを、この器の中に詰め込んだ。勿論旧式と同じように剣や銃を扱うことも出来るが、何よりも柔軟性を生かすことの出来る体術を一番に強化させている。
「っ」
体の傾きを利用し、大きく足を振り上げる。バランスと引力に逆らわず、流れに任せて強い力を込める。ターゲットは即座に身を捩り、僅かな差でそれを避けた。
白刃の煌めきが、瞬時に襲ってくる。避けるでもなく刃を腕で弾いた。鈍い音が響く。僅かな痛みの信号を感じ取ったが、それでもミッションに支障はない。
「……はぁっ!」
僅かな隙間を空けた次の瞬間、レイテルパラッシュが突き出された。風を切る刃の一撃。攻撃範囲のギリギリに飛び退り、足で剣先を跳ね上げる。刹那、相手の間合いに入り込み、軋む拳を叩き付けた。
「うっ……」
一度でも隙を見せれば、後は雪崩のように攻撃を繰り返していく。人間の体は脆く、そして弱い。痛みという信号に正常な判断を失ってしまう。だからこそ、人間は死というものに敏感なのかもしれない。
左耳から頭を飛ばすほどの勢いで蹴りを繰り出した。ターゲットは攻撃の連鎖にダメージを受けながらも、最後のとどめだけは上手く回避したようだった。
相手の体が砂の中に埋まる。灼熱の太陽が、ジリジリと二つの影を焼き付けた。
「……」
ただ、じっと立ち上がろうとする相手を見つめていた。口端から溢れた赤い液体が砂粒を固め、褐色に変化させていく。静かに左手を握り、そして開いた。
「っ……シルヴィ……」
レイテルパラッシュを地面に突き立て、ターゲットが立ち上がる。満身創痍といった状態でも、まだ警戒は怠らない。赤い信号が点滅し、回路を駆け巡る。
『私』は、静かに目を閉じた。
「……」
助けると、彼はそう言った。おそらく分かっているのだろう。私がもう元の状態には戻れないということを。全ては夢の中だった。そう、人形の見た夢だったのだ。人の手によって心を持ち、短い時間ながら人として過ごしたこと。心によって、人の抱える痛みも、苦しみも知った。そして……自分が人形でしかないという苦悩も抱いた。
今思えば、あれは私の見た夢だったのか。それとも人形の見た夢だったのか。ここでクリフと対峙している今の状況すらも夢の一部なのかもしれない。もしかしたら私は全く別の人間なのかもしれず、もしかしたら全てが幻なのかもしれず……。
そして、この夢は、たった一つの方法でしか終わらせることが出来ない。
「……攻撃パターン、Sへ移行。ロック解除まで30秒」
メモリを埋め尽くす数字の群れ。全てが高速に変化していき、全ての数字が100へと上昇していく。体の特殊機能を全て解除し、信号による警戒を無効へ。インプットされた基本情報だけを基にして、最もシンプルな状態へと体を戻す。
「ロックパスワード入力……解除まで15秒」
助けに来た、とクリフはそう言った。私を助けるには、私を殺すしかない。それでも、私には……シルヴィにはシルヴィとしての、望みがあるから。
夢の最後に、叶えたい願いが一つだけあるから。だから、私は戦う。
「解除まで10秒……8、7、6、5……」
カウントをしながら、沢山の思い出が過っていく。初めて起動したときのこと、ジュリアの嬉しそうな顔、物珍しげに覗き込むアイルーク、遠くで何かを見ているジェイの背中……。
「4……3……2……」
初めてクリフと出会ったときのこと。慣れない任務にエラーを起こして倒れてしまったとき、駆け寄ってきて心配してくれた。
ネオ・オリでライラ・メーリングとの戦いに負傷したときも……私を機械人形としてではなく、シルヴィとして扱ってくれた。
「……1……」
長い、長い夢の中で、私はきっと欲張りになりすぎた。だから、夢の最後に一つだけ最後の願いを叶えたいのだ。だから……。
「既成パターン解除。コードSylvie、起動します」
☆
人はなぜルミナリィを、そして不老不死を求めるのか。私はそう考えていた。
限りある命には制限という足かせがいつもついてまわる。死は生のすぐ裏に存在し、気を抜けばいつ襲ってくるかもわからない。逆を言えば、生というものは考えるだけでもひどく億劫だった。
不確かで、不明瞭で、不完全。死はこんなにも完全なのに、相対する生は脆い。何故そんなものを求めるのか、何故そんなものにすがりつくのか。
そんなことを疑問に思う私は、人と名乗る資格はないのかもしれない。
「……」
利き手とは逆の手でサーベルの柄を弾いた。銃弾と共にメイから買い取ったものだ。兄は少し眉をひそめたが、すぐにいつもの表情に戻った。相手との距離をはかりながら、私はクロノスを握りしめる。
……どちらから仕掛ける。あちらか、それとも……。
「……」
フッと息を吐き、そして私は肩を下げた。余計なことは考えるべきではない。ただ己の心音に耳を澄まし、その音だけに意識を向ける。
(……一度息を吸い、そして吐き)
確実に繰り返される、命の旋律。生々しく、鉄臭く、味気のないその音だけが、私を生かす。
(……ゆっくりと目を開く……)
気配の位置を把握する。視界の真正面に相手を置き、そこから視線を外さないこと。たとえどんな状況になっても、相手から目をそらしてはいけない。ジェイロードに向けられた銃口。そして私に向けられた銃口。向かい合った二つの穴が、来るべき時を告げる。
「っ!」
引き金を引いたのが先か、私の頬を銃弾が擦ったのが先か。轟音に反応するより先に、私の体は動いた。一発目の弾を避けると、後ろへと飛び退る。追撃を二発、三発と避けると、体勢を低くしながらクロノスの発砲音を響かせる。
ジェイロードは半歩身を引いて弾を受け流す。その身のこなしは間違いなく、数年前まで手合わせをしていたときと同じ、無駄のない動作だった。
私はジェイロードの攻撃がやんだ一瞬に、間合いを詰めた。クロノスの銃口が鈍い色の鉛を高速で吐き出していく。響く轟音に耳をやられそうになるが、後は全て己の感覚に頼るしかない。砂埃が宙を舞う。
『サーシャ』
その機能を失った聴覚に、流れ込むようにあの懐かしい声が聞こえる。今にも消え入るようなか細く、弱々しい声が、虫の息と共に蘇ってくる。
最後に聞いたカタリナの言葉。
『ひとつ、だけ……約束、できますか……』
予想だにしなかった、兄の行動と、それを抵抗一つせずに受け入れた母。私は何が起ったのかすら理解できず、ただ血を流す母の手を握っていることしかできなかった。
『あの家に、戻って……この家の子供にさせてください、と……っそう、言い、なさい……』
あの日の前夜、宿の代わりに泊まった民家は、旅人に対する偏見があったものの、人間としての温かみのある家だった。死を直前にした母が何を思ったのかは分からない。それでもそんな一言が口をついて出たのは、おそらく、彼女なりの親心といったものだったのかもしれない。
『ジェイを……追いかけては……っ!……いけ、ませんよ』
カイロスを握った兄に抵抗を示さなかったのも、彼女なりに思うところがあったのかもしれなかった。父の意思を受け継ぐことを決めた兄。カタリナはそれを知っていたのかもしれない。
「……っ」
銃声が二重に響き渡る。私は腕を擦った銃撃に耐えながら、一気に距離を縮めた。相手の懐に入り込み、カイロスを握る腕を取る。しかし体術に関しては兄も下手ではない。逆手を取って利き手を捻りあげられそうになり、私は身を捻って相手の脇腹を蹴った。バランスは崩したものの、一度二人の間に距離が出来る。
しかし体勢を崩したままでは次の攻撃が来る。私は左手でサーベルに手をやった。次の瞬間、こちらに向けられた銃口を剣先で弾き上げる。
『サー、シャ……』
体を起こす反動を利用して、剣を右から左へと一閃させる。ジェイロードが後ろへと飛び退った。慣れた動作でカイロスに弾を詰めると、すぐに銃撃を続ける。
私はスッと体を後ろへ引いた。
『どう、か……どうか……』
まるで訓練をしているときのような錯覚を私は感じていた。勿論、私たち兄妹にとって訓練とは、普通の人間でいうところの殺し合いと近いものなのだが。
兄の動作は相変わらず私の一歩先を行く。知恵を振り絞っても、どんなに攻撃を繰り出しても、ジェイロードにはかなわない。思えば、訓練の時点で私はいつも負けを確信していたような気がする。
私は再びサーベルを握り直した。砂嵐を一刀両断し。サーベルがジェイロードの右手首を大きく抉る。……まだ、終われない。
『人と、して』
カタリナが願ったのは、本当に普通の人間としての幸せだったのだろうか。彼女は知っていたはずだ、私がルミナリィであり、普通の人間の中で生きていくには異常だということを。不老不死がその正体を偽って社会の中に紛れ込めるわけがない。
おそらく、彼女は知っていたのかもしれない。私が嘘をついたことを。兄を追い、こうして対峙することまでも。
『人として……幸せに』
まだ、終われない。まだ……終わらせることはできない。