婚約者の次期公爵様に、私だけ忘れられてしまったのですが
初作品です。
「アレクセイ様が下級生を庇って階段から落ちた」
教室で帰り支度をしていたシスティーナは、その知らせが耳に入ると同時に教室を飛び出した。
アレクセイことエルマーニ・アレクセイは、エルマーニ公爵家嫡男であり、頭脳明晰、容姿端麗、冷静沈着、王家からの覚えもいい、絵に描いたような好青年であり、システィーナの婚約者だ。
エルマーニ公爵家はシスティーナの実家であるクルメール侯爵家と古くから交流が深く、システィーナとアレクセイは同い年で、生まれた頃からよく遊んでいたいわゆる幼馴染。
同い年で優しく、皆目も良く、頻繁に会うアレクセイにシスティーナは自然と恋に落ち、アレクセイもまた、愛らしく、いつだって立派な淑女を目指すシスティーナを好きになり、待ってましたと言わんばかりの親たちによって、トントン拍子に婚約者になった。
そんな大好きな婚約者が階段から落ちたと聞いたシスティーナは冷静でいられるわけもない。
廊下を走る彼女を見たら、まるで淑女の鑑と名高い普段を知る人ならば誰だって驚くだろう。
「失礼いたします。アレクセイ様は、いらっしゃいますか?」
「え、ええ。こちらに」
あまりの勢いのシスティーナに驚いた医師たちであったが、システィーナは気にしない。自分の息が上がっているのを気づくこともない。
今、彼女の心のうちは、アレクセイでいっぱいだった。
「アレク様、失礼いたします」
「どうぞ」
アレクセイの声がして、少しだけホッとする。
声音がいつもより固いことに少しだけ違和感を覚えつつもカーテンを開けると、ベッドに寝そべったままの彼の腕と頭に包帯が巻かれていた。
その痛々しい姿にシスティーナの胸は締め付けられる。
だが、アレクセイが生きているという事実にそれ以上に安心して、顔を見るなり、システィーナの目からはとめどない涙が溢れる。
「アレク様、ご無事でよかったです」
「うん、ありがとう」
「アレク様が階段から落ちたって聞いて、何かあったら、わたくし、どうしようかと」
「うん、ごめんね」
泣き止まないシスティーナに、アレクセイは眉尻を下げて困った顔をする。
「アレク様、お怪我は?大丈夫なのですか?」
「うん、とりあえずは」
彼のはちみつ色の瞳は、困惑に揺れているが、涙で視界がぼやけたシスティーナは気が付かない。
「もう、無茶しないでくださいね」
「うん、わかった」
「絶対、約束ですよ」
「約束するよ。
…ところで君は、誰だい?」
「…え?」
◇
その後すぐにアレクセイの家族が来て、システィーナはいつのまにか自宅に帰宅していた。
どうやって帰ってきたのか、何を話したのか、あまりよく覚えていない。
覚えているのは、アレクセイの怪我は全治1ヶ月程度ということと、"忘れられた"ということだけだった。
どうりで他人行儀な会話だったわけだと、システィーナは納得する。あの時は必死で全く気が付かなかった。
アレクセイはどうやら、記憶が一部だけ抜ける、記憶喪失という状態らしい。
忘れているのがシスティーナのことだけなのか、記憶が戻るのか、まだ分からない。今日全身検査をするみたいだ。
「結局、一睡もできなかったわ」
日付が変わって今日、システィーナはアレクセイの自宅である公爵邸に呼ばれている。
そこで詳しい話が聞けるはずだ。
思い出してもらえなかったらどうしようと、考えても仕方ないと思っていても、そればかり考えてシスティーナは眠れない夜を過ごしたのだった。
ドレスに着替え、朝食を食べている間も、公爵邸までの道を馬車に揺られている間も、アレクセイのことが頭から離れない。
怪我の具合は大丈夫なのか、後遺症は残らないのか、記憶は戻るのか。
ぐるぐる思考を巡らせながら、ついには公爵邸までやってきた。
「ごきげんよう、システィーナちゃん」
「ごきげんよう、おばさま」
「立ち話もなんだから、入ってちょうだい」
「はい、お邪魔いたします」
出迎えてくれた公爵夫人に挨拶をする。
システィーナが公爵夫人をおばさまと呼ぶのも、公爵家と侯爵家が、そして公爵夫人とシスティーナが、親しくしている証だ。
夫人に案内された客間に入ると、アレクセイはもうすでに座っていた。
「やあ、昨日ぶりだね」
「アレク様、ごきげんよう。お待たせしてしまって申し訳ありません」
「時間ぴったりだ、謝罪はいらないよ。…君は、システィーナ、だったよね?」
やはりシスティーナのことは覚えていない様子と、その呼び方にショックを受けるが、顔には出さない。
システィーナは昨日一晩考えた。
今1番辛いのはアレクセイだ。体はもちろん、心だって相当なショックを受けているに違いない。記憶喪失になるくらいなんだ。
だから、アレクセイの前で、悲しんだり、辛がったりしないと決めた。
「はい、わたくしはクルメール・システィーナでございます。お身体の調子はどうですか?」
「おかげさまで、打撲だけで済んだんだ。問題ないよ」
その言葉の通り、アレクセイの包帯は腕に1箇所巻かれただけで、他は全て取れていた。
多少のかすり傷はあるものの、思ったより軽傷だったようで、システィーナは胸を撫で下ろす。
公爵夫人が席につき、システィーナも勧められたので、テーブルを挟んでアレクセイの向かいに腰を下ろす。
「早速だけど、システィーナちゃんには、昨日の検査の結果からお話ししようと思って」
「はい、お願いいたしますわ」
「先ほどアレクセイからも言った通り、打撲以外はかすり傷くらいで、大きな傷はなかった」
「本当に、よかったです」
「ただ、記憶のことなのだけど…」
公爵夫人は言いにくそうに言葉を淀ませる。
このあとに何が続くのか、システィーナは大体見当がついていた。
「何故だかシスティーナちゃんのことだけ、すっぽり忘れてしまったみたいなの。他は、人物も出来事も、しっかり覚えているようなのだけれど…」
覚悟はしていたことだが、それが現実として突きつけられると、ひどく悲しい。
システィーナ"だけ"忘れられたのだ。
胸の奥を締め付けられるような感覚を覚えながら、泣くのをぐっと堪える。ここで泣いたら、アレクセイにも、公爵夫人にも気を遣わせてしまう。
「そうなのですね」
大丈夫、という意味も込めて、システィーナは公爵夫人に笑いかける。
先ほどから、システィーナよりも泣きそうな顔をしているから。
「まだ安静にした方がいいでしょうし、アレクセイはもう下がっていいわ。システィーナちゃんと2人で話したいことがあるの」
「わかりました。では、俺はこれで」
「はい。アレク様、また学園で」
アレクセイはもう普通に歩いていて、その後ろ姿が遠ざかって行くことが、システィーナには何故だか無性に寂しく感じる。
今の、2人の関係性のように思えて。
「システィーナちゃん、ごめんなさいね」
「いいえ、何故おばさまが謝るのですか?」
「だって、わたくし、かなしくて」
その気持ちがシスティーナには、嬉しかった。
自分たちが親しかったことは、事実なのだと、覚えてくれる人がいることが。
「いつか、思い出してもらえるのでしょうか」
「それが…分からないの…」
「そうなのですね」
「それでね…その…婚約のことなのだけど」
「はい」
「アレクセイには、まだ言っていないの」
頭では分かっている。
知らない女が婚約者だと言われても、アレクセイだって困るだろう。
「2人は幼馴染で、とても親しかったということは伝えてあるわ。婚約者であると伝えるかどうかは、システィーナちゃんの意思を尊重しようと、夫と話し合ったの」
自分たちの息子が大変な目に遭っている中でも、システィーナのことを考えてくれる公爵夫妻の気持ちに、また心が締め付けられる。
たとえば今、婚約者だとアレクセイに伝えたら、アレクセイは、誰だか分からないシスティーナを無理に大切にしようとするだろう。
彼はそういう義理堅い人なのだ。
システィーナが1番よく知っている。だからこそ、お互いにとって辛い。
好きだから大切にするのとは違う、義務感で大切にされても、システィーナは幸せだとは思えないだろう。
それに、アレクセイには、何よりも、誰よりも、幸せになってほしい。
それが一晩出して考えたシスティーナの答えだ。
「アレク様には、婚約者であるとはお伝えいたしません」
「そう…。システィーナちゃんが決めたことならば、私たちは勝手にアレクセイに告げることはしないと、約束するわ」
公爵夫人は、寂しそうに笑った。
◇
それから1週間して、アレクセイは学園に通うまでに回復した。
アレクセイが休んでいる間に、システィーナは、自分たちの婚約が取り消しになったこと、元々婚約者だったことはアレクセイには伝えないことを、できる限りの伝手を使って広めた。
大好きなアレクセイとの婚約取り消しを自分で広めることは、とても辛いことだったが仕方ない。
アレクセイのためであれば、システィーナはなんでもできる気がした。
「アレクセイ様、おはようございます」
「え?ああ、おはよう、システィーナ」
目立つ青髪を見つけて、システィーナはすかさず朝の挨拶をする。
そんなシスティーナをアレクセイは不思議なものを見るように見つめていた。
「どうか、されましたか?」
「いや、以前会った時と呼び方が違ったから」
「少し慣れ慣れしかったかと思いまして」
学園内なので、記憶喪失のことは控える。
忘れているのがシスティーナのことだけなので、別に隠す必要もないかもしれないが、一人一人に説明するというのもなかなか大変だ。
それに何よりも、何度も自分が忘れられた話をするのは、システィーナにとっても避けたいことだった。
「君と僕は幼馴染だろう?なんでそんなことを気にするんだ?」
心底不思議、といった表情のアレクセイに少しおかしな気持ちになる。
システィーナのことは忘れているのに、幼馴染として大切にしようとしてくれている。
それがとても、彼らしい。
「では、お言葉に甘えて、アレク様と呼んでも?」
「もちろんだ」
「ふふ、光栄です」
記憶喪失になっても変わらない、優しい彼が好きだと、システィーナは再認識する。
もう一度、彼に好きになってもらえるように頑張ればいい。
幼い頃からアレクセイ一筋のシスティーナは、彼以外と婚約することなど、露ほども考えられない。
「アレク!お前大丈夫だったのかよ!」
「ライアン、心配かけた。すまない」
親しんだ様子で突然2人に声をかけてきたライアンとは、本名をライアン・ベルモンドといい、ベルモンド公爵家の次男であり、アレクセイの友人だ。
王国に三家しかない公爵家の1つであるエルマーニ公爵家とベルモンド公爵家の出身の2人は、学園でも社交界でも一目置かれる存在であり、ライアンはシスティーナを除くと唯一、アレクセイと対等に話せる人物である。
ちなみに侯爵家はクルメール家だけなので、システィーナも相当高貴な身分だ。
「お、ティナちゃんもいる。おはよー」
「おはようございます、ライアン様」
「今日もほんとかわいいね」
「ふふ、どうも」
「その釣れないところも素敵だよ」
ライアンはとても人懐っこく、少々軽い。
いつも挨拶代わりに軟派な台詞を吐かれるので、システィーナも慣れっこである。
ただし、
「あーあ、ほんとに忘れちゃったんだね」
いつもなら、アレクセイはここでシスティーナを庇ってくれるのだ。
俺の婚約者に馴れ馴れしくするなと。
アレクセイは記憶がないのだし、今は婚約者でもないのだから仕方ない。
それでも普段は見せることのない独占欲をみせてくれるアレクセイに、システィーナは毎回ときめいていた。
関係性などを考慮して、唯一ライアンにだけは記憶喪失の事を伝えてある。
もちろん、公爵家とアレクセイ本人の許可は取った。
「お前がそんなんなら、俺、本気になっちゃうからね」
「さっきからなんの話だよ」
「教えてあげなーい」
すでにシスティーナとアレクセイが元々特別な関係であったことが伝わりそうな雰囲気に内心ヒヤヒヤするシスティーナだが、ライアンは全く気にしていなさそうだ。
「ティナちゃん、これからもっと仲良くしようね」
ティナちゃんという呼び方も、婚約者のアレクセイは毎回訂正していたなあと、少し悲しい気持ちになりながらも、システィーナは苦笑いで頷く。
記憶喪失になる前までのアレクセイは、システィーナをティナと呼んでいた。
これは俺だけの呼び方だと、イタズラに笑った彼の顔を今でも鮮明に思い出せる。
この思い出も、今の彼には存在しない。
「そういえば、今日王国古語のテストだけど、アレク大丈夫なの?」
「ああ、システィーナから教わっている」
「ティナちゃんさすが」
「アレク様に勉強を教えるっていうのも、新鮮で楽しかったですわ」
「いつも教える側だもんなあ」
「システィーナは人に勉強を教えるの向いているな。とても分かりやすかった。ありがとう」
「そんな、褒めていただくほどではないです。アレク様のためですもの」
アレクセイにきらきらの笑顔でお礼を言われて、システィーナは思わず赤面してしまう。
システィーナのこと知らないはずなのに、こんなに優しい顔するなんて。ずるい。
怪我の療養中の1週間、勉強を教えるという名目で公爵家に訪れていたけれど、どちらかというとシスティーナがアレクセイに会いたかった方の意味合いが強いとは、口が裂けても言えないじゃないか。
「ちぇー、今回ばかりはアレクに圧勝できると思ったんだけどなあ」
そんなこんなでライアンを先頭にして、3人で教室に到着する。
流れでこのまま3人で授業を受けることになっても、システィーナは甘く笑うアレクセイの顔が頭から離れず、集中できなかった。
「アレクセイ様、いらっしゃいますか?」
授業が無事に終わり、放課後。
システィーナたちのクラスに、突如美女が現れた。
ふわふわの背中まで流れた金髪が輝かしい彼女は、まるで妖精のように美しい。
初めて見る顔だが、アレクセイに用事があるようで、システィーナの胸は少しざわつく。
「ああ、今行く」
システィーナは初めて見る顔だったが、アレクセイはなんの躊躇いもなく、美女と共に廊下に消えて行く。
こんなことは初めてだった。
アレクセイはモテる。そりゃそうだ。
輝くサファイアのような青い髪に、蜂蜜色の甘い瞳。
高い鼻が小さい顔に1ミリのズレも許さず黄金比にはまっているだけでもただ彼の顔を拝みたいと願う女性は数知れず。
そして彼が美しいのは外見だけではない。
困っている人には見返りを求めず手を差し伸べ、常に上を目指し続ける。
勤勉で努力家であり天才。
おまけに運動神経も性格までもいいのだ。
そんなアレクセイは今まで、侯爵家出身で幼馴染であり、皆から尊敬される淑女、裏では白桃姫ともよばれる婚約者のシスティーナの存在があり、目立って呼び出されることはなかった。
システィーナとの婚約が取り消しになったと公になった今、アレクセイを狙う女性がいるのは、ある意味当たり前だった。
「ティナちゃん、あれいいの?」
「ライアン様、いいのと言われても、わたくしは口出しできる立場じゃないですもの」
また好きになってもらうと決意しても、こんな場面目撃して、辛くないわけじゃない。
ずきずき痛む心臓のあたりをぎゅっと握りながら、システィーナは席を立ち上がる。
「ごきげんよう、また明日」
クラスメイト達に笑顔で挨拶をして、システィーナは教室の扉を開ける。
心配してくれている人もいるとは分かっていても、教室で様子を伺われ続けるのは、彼女の淑女としてのプライドが許さなかった。
「だからさ、そんな顔しないでよ…」
残った教室でライアンが何を思っているか、システィーナは知る由もない。
◇
「ティナちゃん、おはよー」
「ライアン様、おはようございます」
侯爵家の馬車を降りてすぐ、学園の建物にたどり着くより前に、ライアンに声をかけられた。
「今日なんかいつにも増して可愛くない?リップ違うよね?」
「よく分かりますね」
「おれ、ティナちゃん名人なの。その色似合ってるね」
こういう嘘ならつかれても嫌な気持ちにはならないから、ライアンはすごい。
さすが社交界を惑わせるプリンスと呼ばれるだけあるなあと、システィーナが感心していると、ぽんっと肩を叩かれる。
「おはよう、システィーナ、ライアン」
「アレク様!おはようございます」
一声かけられただけで、自分でも目が輝いたのがわかるくらいアレクセイに全神経持っていかれてしまう。
ライアンにリップを褒められたことなど今はもう頭の片隅にもない。
太陽の光を受けたサファイアは、今日も相変わらずキラッキラに輝いている。
システィーナは心の中で、今日も敗北宣言をする。この魅力にはどう足掻いても打ち勝てない。完敗だ。
「アレクおはよー。昨日の美女はなんだったの?」
ライアンが開口一番、昨日からずっと気になっていた事を聞く。
ライアンにはこういう明け透けなところがあるが、表裏がないのも彼の魅力の一つといえる。
ただ、まだ心の準備が整っていないシスティーナの心臓はどくりどくりと鼓動を早くする。
「ああ、まあ、ちょっと、色々」
「え、なに。なんか訳ありな感じ?」
「そうだな」
「俺らにも言えないの?」
「悪い」
あからさまに濁されたことによってシスティーナの心のモヤモヤが増す。
言えない関係ってなんだろう。というかいつのまにか親しくなっていたんだろう。
記憶をなくす前から?そんな様子は全然なかった。
「アレク様、どういう関係かも、言えませんか?」
不安でアレクセイの制服の袖を摘んで見上げる。
問い詰めるつもりはなかったのに、濁された事で余計にモヤモヤしてしまった。
これから頑張るつもりなのに、もはやもう頑張る余地すらなかったりするのだろうか。
「うっ…」
「う?」
急に呻き声をあげるアレクセイに、システィーナは嫌な予感が過ぎる。
「もしかして、どこか痛いですか?怪我まだ直りきっていないから」
「いや、ちがう」
「じゃあ、どうして」
「とにかく、ちがうから。それと、彼女は知り合いだ。ついこの前知り合った」
知り合い、という言葉にほっとする。
怪我が痛むわけじゃないことにも。
「知り合いかー。なんかあやしー」
「何言ってんだ、ライアン」
「アレク様、私頑張りますからね」
「え?頑張るって何を?」
「それは、ひみつです」
あなたにまた好きになってもらうために、と言ったらどんな顔をするだろう。
きっとまだ、困って笑われるだけだろう。
だからまだ、秘密にする。
「えっ、…アレク様?」
他の学友たちと挨拶を交わすライアンの目を掻い潜るように、アレクセイに軽く制服の袖を引かれる。
「君は、ああいうことをあまりしない方がいい」
「ああいうこと、ですか?」
全くもって身に覚えのないシスティーナは、何かしたかしらと首を捻る。
「さっき、オレの袖を摘んでいただろう」
「はい」
さっき、とは昨日の金髪美女の件をライアンと問い詰めていた時のことだろう。
「ごめんなさい。いやでしたか?」
「いやではない」
不快にさせてしまったかもと、咄嗟に謝るシスティーナだったが、アレクセイの否定の言葉にますますわけがわからない。
嫌じゃないならなんだのだろうか。
「今後は俺以外にはしない方がいい」
「はい」
「勘違いされても困るから」
「?」
よく分からないけれど、アレクセイが嫌がることをするつもりはない。
それに、制服の袖を掴むのだって、アレクセイ以外にするわけがないのに。
「あと、」
言葉を続けたアレクセイにまだ何かしちゃったのかな、と顔を見上げる。
「その色、似合ってる」
優しい蜂蜜色の瞳に微笑まれて、システィーナは心臓がキュッと摘まれたような感覚に陥る。
リップの色変えたの、気づいてくれるなんて、ずるい。
好きになってもらいたくて、少しでも可愛いと思って欲しくて、したことではあった。だけど、まさか気づいてくれるとは思わなくて。
そのあとは、うまく言葉が返せないまま、アレクセイとライアンの会話を聞きながら教室まで向かった。
◇
午前の授業が終わり、学生達がうごきはじめる。
例に漏れずシスティーナも、アレクセイ目掛けて歩き出していた。
「アレク様、今日一緒にお弁当食べませんか?」
「ああ、そのつもりだ」
勇気を出して誘ったつもりが、当たり前のように承諾されてシスティーナは頬が緩むのを抑えきれない。
「実は今日、お弁当持ってきちゃいました」
アレクセイに好きになってもらうために、まずは胃袋を掴もう大作戦だ。
この作戦を決行するために、システィーナは今日3時に起きた。
2時間目以降は眠くて仕方なかったが、アレクセイを誘わないといけない事を思い出して、そわそわし出してからは早かった。
「俺の分も?」
「もちろん、アレク様の分もあります」
隣の席に座って手際よくランチョンマットを用意する。
今日はライアンが部活の集まりがあり、昼休憩にいないことはリサーチ済みだ。
アレクセイの記憶が無くなる前は、よく手料理を振る舞っていた。
システィーナの料理が1番好きだと言って微笑んでくれる彼のために、猛練習したことは侯爵家の誰もが知っている。
みんな練習段階の、とても上手とは言えない料理を食べるのを手伝ってくれた。
「ありがとう」
「人の手作りですが、平気ですか?」
「え!?これシスティーナが作ったのか?」
「あ、はいそうです」
いつものくせで、当たり前のように思っていたけれど、普通貴族のお嬢様は料理なんてしないからアレクセイが驚くのも当然だ。
「君は料理もできるのか、すごいな」
記憶がなくても他人の手料理に抵抗はないみたいで内心安堵する。
システィーナには16年間一緒に成長してきた記憶がある。
婚約者として過ごした2年間の記憶も。でも、アレクセイにはないのだ。
彼が優しくしてくれるから忘れそうになる。
「食べてもいいか?」
「はい、もちろんです」
「いただきます」
アレクセイが丁寧に口元までフォークを運ぶのを固唾を飲んで見守る。
「うん、美味しい」
そういって、蜂蜜色の目を細めて笑うアレクセイは嘘をついているようには見えない。
まだ2人が婚約者だった時の笑顔と一緒だった。
こんなに美味しそうに食べてくれるから、何度も作りたくなってしまうんだ。
「お口に合ったようで、よかったです」
「本当に美味しいよ。毎日でも食べたいくらいだ」
「アレク様のためなら、毎日でも作ってきますよ?」
ちょっと重たかっただろうか、と不安になったシスティーナをよそに、アレクセイはこてん、と首を傾げる。
「それじゃ君が大変だろう」
「そんなことないです」
「じゃあ、たまに、システィーナの気が向いた時だけ、作ってくれるか?」
「ふふ、もちろんですわ」
無理やり言わせてしまった気もするが、システィーナとしては好都合な約束ににんまりする。
これからは、ライアンが部活でいない時は、お弁当を作ってこよう。心の中でひっそり決意した時だった。
「君と結婚できる男は幸せ者だな」
アレクセイが何気なくつぶやいた言葉に、システィーナの心が急激に冷える。今さっきまで幸せだった気持ちが霧になって消えて行くのを感じた。
「本当にそう思いますか?」
「ああ、俺は嘘はつかない。君は素敵な女性だ」
もう、泣いてしまいそうだ。
あなたがそれを言いますか、という言葉を飲み込んで。
システィーナは精一杯の笑顔を作る。
「私は好きな殿方にしか手料理なんて作りませんわ」
これは事実だった。
だからシスティーナは、ライアンがいない今日を狙ってお弁当を持って来たのだ。
たとえ記憶を失っていても、好きなのはあなただけだと、今できる精一杯の告白だった。
「え、それってどういう」
「ほら、昼休憩が終わってしまいますわよ」
せいぜい今日くらいは、自分のことで頭がいっぱいになればいいと、システィーナは思うのだった。
◇
「アレクセイ様、準備終わりましたか?」
「ああ、わざわざ迎えにきてもらって悪いな」
「いいえ、こちらこそ。付き合ってもらってありがとうございます」
放課後、またあの美女が教室にやってきた。
あれからはや1週間、毎日2人は一緒に教室から消えていた。
クラスメイト達から教えてもらったが、彼女はユリアンといい、伯爵家のご令嬢で、私たちの隣のクラスみたいだ。
今日も並んで歩く2人を見て、お似合いだなあと思ってしまうシスティーナは、心の奥のチクチクには気づかないふりをする。
「ティナちゃん、はい、飴あげる」
「ライアン様、え、ありがとうございます」
ころん、と手の上に乗せられたのは、いちごミルク味のピンク色をした包装紙に包まれた飴玉だった。
「かわいいですね」
「でしょー。ティナちゃんみたいだなあと思って」
「こんなにわたくしは、可愛らしいでしょうか?」
「うん、とっても」
ライアンが似てるというのは、システィーナの髪色が桃色だからだろうと分かっているけれど、男の人から可愛いと言われることに慣れていないため、どきりとしてしまう。
彼が軟派なのはいつものことなのに、心が弱っているせいかしら、とシスティーナは思う。
「ふふ、ありがとうございます」
「うん、ティナちゃんはそうやって笑ってる方がいいね」
「わあっ」
そういってライアンはシスティーナの髪をくしゃくしゃ撫でると、後ろ手に手を振って教室から出て行ってしまった。
「嵐みたいな人だわ…」
だけれど心に、さっきのようなチクチクはもう残っていなくて、ライアンが元気づけようとしてくれているのは分かっていた。
その後、少し遅れてシスティーナも教室を出る。
空が曇っているから、雨でも降るのだろうか。
ぼんやり空を眺めていると、廊下の端に見慣れた後ろを姿を見つける。
アレクセイとユリアンだ。
何やら真剣な面持ちで話し合っている雰囲気で、近寄ることは躊躇われて、少し離れたところでシスティーナは立ち止まる。
すると不意に、ユリアンがアレクセイに抱きついた。
「え…?」
アレクセイもユリアンを離さずに、背中を優しく摩っていた。
なんで、どうして。
あんなの、どう見たって、2人は想い合っているとしか思えなくて。
ユリアンのことを見つめるアレクセイの瞳がひどく優しくて、それがシスティーナには残酷に映った。
「あーあ、アレクってば、ほんとばかだなあ」
そんな声と同時に、システィーナの視界が制服のベージュのジャケットで遮られる。
こんなキザな登場をするのが誰なのか、システィーナにはすぐに分かった。
「ライアン様?」
「うん、そうだよ。よくわかったね」
「なんでここにいるんですか?」
「ティナちゃん泣いてるかなーと思って」
「泣いてませんわ」
「うそつきティナちゃんだ」
ライアンのその言葉の通り、システィーナの目からはいつのまにか涙が溢れていた。
アレクセイとシスティーナは幼なじみで、家族からも2人が結婚することを期待されていた。
優しいアレクセイは親からの期待に応えたくて、システィーナを好いているふりをしていたのかもしれない。
記憶を失ったことで、本当に好きだった人と何にも縛られることなく結ばれたのだとしたら、アレクセイにとっては喜ばしいことだ。
喜ばしいことだって、頭では分かっている。
それでもシスティーナはずっと好きだった。
いつからなのか、もはや分からないくらいずっと。
彼と生きていきたくて、勉強も作法も料理も頑張った。
「ライアン様」
「なあに」
「わたくし、最低な人間ですわ」
泣きながら、途切れ途切れのシスティーナの話を、ライアンは静かに聞いている。
「どうしてそんなこと思うの」
「アレク様が、幸せになろうとしているのが、悲しいと思うなんて」
「はははは」
ライアンはいつものような楽しそうな声ではなく、乾いた笑い声を上げる。
なぜかひどく悲しそうで、とても辛そうだ。
「俺も一回でいいから、ティナちゃんに愛されたかった」
「え?」
「なんてね、ジョーダンジョーダン」
一瞬でいつも通りの様子に戻ったライアンだが、システィーナはなんとなく冗談ではないのが分かった。
「あのね、ティナちゃん」
だが、ライアンが真剣な眼差しになったので、言及するのは躊躇われる。
「ティナちゃんが今、悲しい気持ちなのは、ティナちゃんが酷い人間だからではないよ」
ライアンの瞳はこれまでに見たことがないほど真剣そのもので、決して嘘をついてるようには思えない。
「ティナちゃんはこれまでアレクのために、アレクと釣り合うように、毎日毎日努力した。努力した分、つらいのは当然だよ」
ライアンの言葉がシスティーナの胸に優しく響いて。涙腺を優しく擽る。
まるで、泣いていいよって言ってくれているみたいだ。
「ティナちゃんがずっと頑張ってたことも、アレクを心から一途に思い続けてたことも、俺は知ってるよ」
「アレクは忘れちゃったかもしれないけど」そう付け足したライアンは、いつもの軟派な態度とは裏腹に過度に触れるようなことはなく、ただそばにいてくれる。
それがシスティーナを安心させて、余計に涙を誘う。
今日だけは、許されるだろうか。
アレクセイが抱擁し、優しく背中を撫でる相手がシスティーナではないことに、醜い嫉妬をしても。
明日からまた笑顔で接することができるように。
「何をしてる?」
「はあ…すごいタイミングだね、アレク」
顔を見なくてもわかるアレクセイの声にこの時ばかりは会いたくなかったと思ってしまう。
泣いているところを見られたくない。
「なんでシスティーナを泣かせている?」
若干の怒気を滲ませた声でライアンを責め立てる。
そうじゃないと否定したくても、涙でうまく話すことができない。
「なぜ泣いているんだ」
「なぜって…。記憶をなくしたアレクがどうしてそんなこと気にするの?」
ライアンの問いかけに、アレクセイの言葉が一瞬詰まった。
「なぜだろうな。覚えていないはずなのに、システィーナが泣いているのは嫌なんだ」
「へえ、ずいぶんと無責任なこと言うんだね」
ライアンの声は硬く、聞いたこともないくらいに冷たい。
記憶がないアレクセイは、本当にシスティーナが泣いている理由など見当がつかないのだろう。
今は、婚約者だったことすら覚えていないのだから。
あなたが他の女の子と抱き合っていたからなんて、言えるわけない。
アレクセイが心から想う人と結ばれるなんて、望ましいことなのに、笑顔で祝福できないのがとても惨めに思えた。
「まあいいや。ティナちゃんがなんで泣いてるかはアレクの隣に立ってる子に聞けば分かるんじゃない。…ねえ?」
ライアンの一瞥に金髪の美女はびくりと肩を震わせる。
追い打ちをかけるように続けた。
「君は記憶を失ったわけじゃないんだから、今自分がしていることも、ティナちゃんがどうして泣いているかも分かるよね?」
「どういうことだ?」
アレクセイの瞳がユリアンに向けられる。
心なしか疑惑のこもった視線を向けられて罰が悪そうな表情とは裏腹に、どこか挑発的な口調でユリアンは続ける。
「さあ、いったい何のことだか」
「シラを切るつもり?まあ、それならそれでこっちは構わないけど」
ライアンは確実にユリアンを敵対視しており、取り憑く島もない。
バチバチ火花を散らしている2人の間でアレクセイだけは、ぐらぐら瞳が揺れていた。
「君がシスティーナを泣かせているのか?」
困惑気味のアレクセイがユリアンに問う。
「いいえ、私は何もしておりませんわ。」
「君を疑うわけじゃない。ただ、ライアンはずっと昔からの信頼できる友人でね。飄々としているが、嘘はつかない。知っていることがあるならば教えて欲しい。」
アレクセイの目は真剣で、ここで嘘をつけば、この後の関係にひびが入ることは、付き合いの短いユリアンですら感じ取るほどに明白だった。
婚約者ですらない自分のことで、なぜこんなにアレクセイが真剣になってくれるのか、ただ幼馴染だからではないのではないか、システィーナは薄い期待を胸に燻らせながら、固唾を飲んで見守る。
「システィーナ様が、大切なのですか?」
「ああ、大切だ。」
迷いのない声。
それだけで、システィーナの胸はとくんと高鳴る。
「どうしてですか!?…所詮、元婚約者なのに!」
ユリアンは言ってから、しまったとでも言うように口を押さえる。
だが、その声はアレクセイにももちろんしっかり届いた。
「…婚約者……?」
ぽつり、アレクセイが呟く声だけが、その場に響く。
「…ティナ…?」
ぱちり、はちみつ色の瞳が、濡れた桃色の瞳を捉える。
「ティナ!」
いつの間にかシスティーナは、アレクセイの腕の中にすっぽりおさまっていた。
「ティナ、ティナ!…どうして、どうして、俺は、こんな大事なことを…!」
「アレク様…?」
ティナ、と。
久しぶりに呼ばれる愛称が、こんなに恋しいなんて。
久しぶりに感じるぬくもりが、こんなに暖かいなんて。
「すまない、すまないティナ…!」
謝り続けるアレクセイに、システィーナの目は再び涙に濡れる。
視界の端でライアンがユリアンを連れて立ち去るのが見えたが、気にしてはいられなかった。
思い出してくれた。また名前を呼んでくれた。
いつか、と思うと同時に、もう一生思い出してもらえないのでは、という不安がよぎらないわけじゃなかった。
気丈に振る舞っているつもりでも、愛する人の婚約者ではなくなった日常は、重い鉛をぶら下げて歩いているような感覚だった。
「君に、ひどく悲しい思いをさせた。」
ふるふる、首を振るだけで精一杯。
言葉が出ない代わりに、アレクの背中の制服を、皺になる程ぎゅっと掴んだ。
「君は1番に駆けつけてくれたのに。」
後悔ばかり連ねるアレクセイに、違うと伝えたい。
だって、アレクセイは人助けをしたんだ。それを後悔するような人ではない。
人のために動ける、そんなあなたが好きだから。
ふう、と息を整えて、ゆっくり話す。
「アレク様の、せいじゃないです。…あなたが無事なら、それでよかったんです。」
本心だと伝わるように、ふわりと微笑む。
「他の人を守れても、1番大切な君を傷つけるようじゃ、俺もまだまだだな…。」
「アレク様は誰よりも、かっこいい方ですよ。みんなそう思ってます。」
「みんなじゃなくて、ティナに思ってもらえないと困る。」
「アレク様がかっこいいことは、私が1番知ってます。」
「…っ!ありがとう。」
空はいつのまにか、夕陽が赤く染めていて、水溜りは反射でキラキラ輝いている。
◇
アレクセイの記憶が戻り、2人はまた婚約者になった。
もともと、正式に婚約が破棄されていたわけではなく、アレクセイに知らせないというだけのものだったので、手続きなどに時間を要することもなく。
ユリアンは、アレクセイが助けた階段から落ちた下級生の姉だった。お礼を言うために接触し、そこから両親についての悩みなどを相談されていたようだ。
義理堅いアレクセイが、勝手に関係を話さなかったのにも納得がいく。
そして、あの半月が嘘だったかのように日常は戻った。
ただ、少しのもやもやを、システィーナの心に残して。
「ティナ、悩みでもあるのか?」
ぎくり、正直者のシスティーナの体がわかりやすく揺れる。
嘘や隠し事はあまり得意ではない。
だからあの半月は、システィーナの努力の半月でもある。
「どうして、分かるのですか?」
「浮かない表情をしているから。」
心配そうな表情をしたアレクセイに顔を覗かれて、その綺麗な御顔が近づきどぎまぎしてしまう。
何年一緒にいても、慣れるものではない。
「話して?」
すっと、自然に手を握って向き合う形にされる。
紳士すぎるところが玉に瑕だ。これではますます隠し事なんてできない。
「アレク様は、その…」
「うん…?」
「今、幸せでしょうか?」
「うん、すごくね。」
キラキラの眩しい笑顔は、嘘をついているようには見えない。
「なら、平気です。」
これだけで、システィーナの心のモヤが晴れていく。
本当は、無理して一緒にいるんじゃないかとか、ユリアンとはどういう関係かとか、色々聞きたいことがあった。
でもすべて、どうでも良くなってしまった。
「そう?ティナの質問になら、なんでも答えるけど。」
「じゃあ、明日のお弁当のおかずは、何がいいですか?」
「んー、ティナの作るものならなんでも。…というと君が困ってしまうから、エビフライかな。」
これから、またいろんな困難が2人を襲うだろう。
信じることが難しい時もあるかもしれない。
だが、愛する人に忘れられた。
それに勝る出来事はそうそうないと、システィーナは思う。
この先どんなことがあっても、彼を信じ、愛することを、システィーナはきっと諦めない。




