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『家計簿伯爵令嬢は、壇上で請求書を叩きつける』

掲載日:2026/10/27

王立学園の卒業記念舞踏会。


豪華なシャンデリアの下で、伯爵令嬢アイリス・ローウェルは、皿に残った最後のカナッペを見つめていた。


(このサーモン、一切れで銀貨三枚……。王宮の仕入れ担当者、あとで呼び出しね)


婚約者の第一王子ジュリアンが、金髪を振り乱して近づいてきたのは、そのときだった。


「アイリス! 貴様との婚約を破棄する!」


楽団が止まった。


貴族たちが息を呑んだ。


アイリスはカナッペを落としかけた。


(えっ?)


「貴様のような金勘定ばかりする女は、未来の王妃にふさわしくない!」


(ええっ?)


「私が愛するのは、この可憐なクララだ!」


王子の腕には、ピンク色のドレスを着た男爵令嬢が、接着剤でも塗ったように張り付いていた。


(えええっ!?)


アイリスの脳内で、祝砲が百発鳴った。


(やったあああ! 不良債権が自分から解約を申し出たわ!)


しかし、そこは伯爵令嬢。


顔には一切出さない。


「殿下。婚約破棄は、正式な決定でございますね?」


「当然だ!」


「撤回はなさいませんね?」


「くどい!」


「では、こちらにご署名を」


アイリスは懐から羊皮紙を取り出した。


「なぜ婚約破棄の同意書を持ち歩いている!?」


「備えあれば憂いなし、と申しますでしょう?」


実際には三年前から準備していた。


ジュリアンは鼻息荒く署名した。


アイリスはそれを丁寧に折り畳み、胸元にしまった。


(証拠確保。逃走経路封鎖。よし)


「さて、殿下。婚約者としての義務が消滅した以上、精算のお時間でございます」


「精算?」


「ええ。お金のお話ですわ」


王子の顔が曇った。


彼は恋愛小説なら百冊読めたが、帳簿は三行目で眠くなる男だった。


「私は愛について語っているのだ!」


「愛は結構。では、請求書について語りましょう」


アイリスはドレスの腰から分厚い帳簿を取り出した。


ドンッ!


壇上のテーブルが震え、グラスが三つ跳ねた。


「な、なんだ、それは!」


「過去三年間の、殿下の立て替え金明細でございます」


「た、立て替え金?」


「はい。まずクララ様に贈られたエメラルドの首飾り。金貨八百枚」


クララが慌てて首元を隠した。


「こちら、王太子宮の帳簿では『文房具費』となっておりました」


会場がざわめいた。


「文房具!?」


「殿下。エメラルドで何を書くおつもりでしたの? 国家予算に穴でも開けるおつもり?」


「そ、それは……!」


「次に、お二人の南国旅行。金貨千二百枚。名目は『隣国情勢の隠密調査』」


アイリスは一枚の絵を掲げた。


浜辺で寝そべり、果実酒を飲むジュリアンとクララが描かれていた。


「こちらが調査報告書に添付された証拠でございます」


「なぜそんな絵がある!?」


「殿下が宮廷画家を同行させ、記念肖像画を描かせたからですわ」


「しまった!」


「しかも画家の報酬まで外交費に計上なさった」


財務貴族たちが一斉に額を押さえた。


「さらに、クララ様の誕生日に打ち上げた花火。金貨三百枚」


「ロマンチックだったでしょう?」


クララが小首をかしげた。


「ええ。国庫が燃えるほどロマンチックでしたわ」


アイリスは帳簿をめくった。


「薔薇の花束、金貨五十枚。特注馬車、金貨四百枚。宝石付きの犬用首輪、金貨百枚」


「犬まで!?」


誰かが叫んだ。


「ちなみに犬は殿下より賢いそうです」


「誰が言った!」


「飼育係全員です」


会場のあちこちから笑いが漏れた。


「これらの不適切な支出は、王家の信用を守るため、正式な貸付証書を作成したうえでローウェル伯爵家が一時補填してまいりました。財務省にも記録を提出済みです」


アイリスは最後の頁を開いた。


「立て替え金総額、金貨五千四百二十枚。婚約解消に伴い、返済を請求いたします」


「ご、ごせんよんひゃく……!」


王子は指を折り始めた。


十本では足りなかった。


靴を脱ごうとしたところで、アイリスが止めた。


「殿下、足の指を動員しても足りませんわ」


「そんな大金、払えるわけがない!」


「まあ。お金がないのに贈り物をなさっていたの?」


「愛があれば金など!」


「では愛でお支払いください。財務省が受け取ってくだされば、ですが」


クララが王子の腕から離れた。


「ジュリアン様……まさか借金がおありなの?」


「クララ! 愛していると言っただろう!」


「愛しておりますわ。でも、借金は愛しておりません!」


「なんだと!?」


「わたくし、貧乏な王子様なんて聞いておりません!」


「貧乏ではない! 王子だぞ!」


「王子でも財布が空なら、ただの金髪ですわ!」


その瞬間、広間の扉が開いた。


「兄上。その金髪も、王室の美容費で整えておいでですね」


現れたのは、第二王子セシルだった。


銀髪に眼鏡、端正な顔立ち。


何より素晴らしいのは、帳簿を最後の頁まで読めることである。


アイリスにとって、それは白馬に乗って登場するより魅力的だった。


「セシル! なぜここに!」


「財務省の調査が終了しましたので」


セシルは書類を掲げた。


「兄上による公金の私的流用が確認されました。国王陛下の裁可により、王位継承権は停止。正式な審理を受けていただきます」


「そ、そんな!」


「なお、ローウェル家への返済義務も認められています。今後の給与から計画的に返済していただくことになります」


「給与だと!? 私は王子だぞ!」


「今後は北方鉱山の管理事務所で働いていただく予定です」


「鉱山!?」


「帳簿整理が主な仕事です。ちょうど人手不足でして」


ジュリアンは絶叫した。


「帳簿だけは嫌だあああ!」


会場にいた財務官たちは、静かにうなずいた。


帳簿を馬鹿にした男が帳簿で裁かれる。


これほど美しい因果応報があるだろうか。


クララはこっそり逃げようとしたが、セシルに呼び止められた。


「クララ嬢。架空の視察報告書に、あなたの署名がありますね。事情を伺います」


「わ、わたくし、署名しただけですわ!」


「その説明は調査官にどうぞ」


二人が連れていかれると、大広間に拍手が巻き起こった。


アイリスは優雅に一礼した。


(ああ、すっきりした。三年間の胃薬代も請求したいくらいだわ)


「アイリス嬢」


セシルが隣に立った。


「見事な監査でした」


「ありがとうございます。ですが、まだ改善の余地がございます」


「ほう?」


「まず、この舞踏会のカナッペです。サーモン一切れで銀貨三枚とは何事ですの?」


セシルの表情が真剣になった。


「私も気になっていました。仕入れ値の二倍以上です」


アイリスの胸が高鳴った。


(この方……原価を把握していらっしゃる!)


「それに、シャンデリアの蝋燭が多すぎます」


「ええ。半分でも十分な照度が確保できます」


(照度まで計算できるなんて!)


「アイリス嬢。実はお願いがあります」


セシルは眼鏡を直した。


「私の専属財務官になっていただけませんか? 予算管理の権限と、相応の報酬をお約束します」


「まあ!」


「そして、もしご迷惑でなければ……私の婚約者にも」


アイリスは一瞬、言葉を失った。


婚約を申し込まれて、最初に確認したいことがある。


「殿下。ご趣味は?」


「読書と財政分析です」


「借金は?」


「ありません」


「衝動買いは?」


「必要性と費用対効果を検討してから購入します」


「家計簿は?」


「毎日つけています」


アイリスは胸元を押さえた。


(なんということでしょう……!)


初めてだった。


薔薇の花束よりも、宝石の首飾りよりも、胸がときめいた。


(家計簿を毎日つける男性が、この世に実在するなんて!)


「セシル殿下。謹んでお受けいたします」


「本当ですか!」


「ただし、結婚後のお小遣いは月額制です」


「承知しました」


「臨時支出は事前申請」


「もちろんです」


「領収書の提出は必須」


「整理用の箱も用意しましょう」


アイリスはとうとう頬を赤らめた。


(好き……!)


セシルはそっと彼女の手を取った。


「では、二人でこの国の財政を立て直しましょう」


「ええ。まずは王宮の無駄遣いを三割削減いたしますわ!」


「私は四割を目指したい」


「まあ、殿下ったら大胆!」


二人は見つめ合った。


周囲の貴族たちは、何を聞かされているのか分からなかった。


ただ一つ確かなのは、この国の財務省に、恐ろしく強力な夫婦が誕生しそうだということだった。


やがて楽団がワルツを奏で始めた。


セシルが手を差し出す。


「一曲、踊っていただけますか?」


「もちろんですわ」


アイリスは微笑み、彼の手を取った。


「ただし殿下」


「はい?」


「この楽団の演奏料、時間単位ですのよ」


「では、残り時間を有効に使いましょう」


二人は軽やかに踊り出した。


その夜、王立学園の舞踏会では、一組の婚約が破棄され、新しい恋が芽生えた。


そして翌朝。


王宮の財務官たちの机には、一枚の通知が置かれていた。


『経費削減計画・第一弾。不要な金箔装飾の全面廃止について』


その末尾には、二人の署名が並んでいた。


――セシル・フォン・アルヴェイン。


――アイリス・ローウェル。


王宮の金箔職人たちが悲鳴を上げたのは、言うまでもない。


めでたし、めでたし。


ただし、王宮の予算だけは、これからが本番である。



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― 新着の感想 ―
或る意味、最凶夫婦が誕生しました。 しわ寄せの来る方達には、ちゃんと別口の救済処置をご用意しているのですね? 帳簿読めない人が帳簿係になったら、本末転倒では(笑)
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