『家計簿伯爵令嬢は、壇上で請求書を叩きつける』
王立学園の卒業記念舞踏会。
豪華なシャンデリアの下で、伯爵令嬢アイリス・ローウェルは、皿に残った最後のカナッペを見つめていた。
(このサーモン、一切れで銀貨三枚……。王宮の仕入れ担当者、あとで呼び出しね)
婚約者の第一王子ジュリアンが、金髪を振り乱して近づいてきたのは、そのときだった。
「アイリス! 貴様との婚約を破棄する!」
楽団が止まった。
貴族たちが息を呑んだ。
アイリスはカナッペを落としかけた。
(えっ?)
「貴様のような金勘定ばかりする女は、未来の王妃にふさわしくない!」
(ええっ?)
「私が愛するのは、この可憐なクララだ!」
王子の腕には、ピンク色のドレスを着た男爵令嬢が、接着剤でも塗ったように張り付いていた。
(えええっ!?)
アイリスの脳内で、祝砲が百発鳴った。
(やったあああ! 不良債権が自分から解約を申し出たわ!)
しかし、そこは伯爵令嬢。
顔には一切出さない。
「殿下。婚約破棄は、正式な決定でございますね?」
「当然だ!」
「撤回はなさいませんね?」
「くどい!」
「では、こちらにご署名を」
アイリスは懐から羊皮紙を取り出した。
「なぜ婚約破棄の同意書を持ち歩いている!?」
「備えあれば憂いなし、と申しますでしょう?」
実際には三年前から準備していた。
ジュリアンは鼻息荒く署名した。
アイリスはそれを丁寧に折り畳み、胸元にしまった。
(証拠確保。逃走経路封鎖。よし)
「さて、殿下。婚約者としての義務が消滅した以上、精算のお時間でございます」
「精算?」
「ええ。お金のお話ですわ」
王子の顔が曇った。
彼は恋愛小説なら百冊読めたが、帳簿は三行目で眠くなる男だった。
「私は愛について語っているのだ!」
「愛は結構。では、請求書について語りましょう」
アイリスはドレスの腰から分厚い帳簿を取り出した。
ドンッ!
壇上のテーブルが震え、グラスが三つ跳ねた。
「な、なんだ、それは!」
「過去三年間の、殿下の立て替え金明細でございます」
「た、立て替え金?」
「はい。まずクララ様に贈られたエメラルドの首飾り。金貨八百枚」
クララが慌てて首元を隠した。
「こちら、王太子宮の帳簿では『文房具費』となっておりました」
会場がざわめいた。
「文房具!?」
「殿下。エメラルドで何を書くおつもりでしたの? 国家予算に穴でも開けるおつもり?」
「そ、それは……!」
「次に、お二人の南国旅行。金貨千二百枚。名目は『隣国情勢の隠密調査』」
アイリスは一枚の絵を掲げた。
浜辺で寝そべり、果実酒を飲むジュリアンとクララが描かれていた。
「こちらが調査報告書に添付された証拠でございます」
「なぜそんな絵がある!?」
「殿下が宮廷画家を同行させ、記念肖像画を描かせたからですわ」
「しまった!」
「しかも画家の報酬まで外交費に計上なさった」
財務貴族たちが一斉に額を押さえた。
「さらに、クララ様の誕生日に打ち上げた花火。金貨三百枚」
「ロマンチックだったでしょう?」
クララが小首をかしげた。
「ええ。国庫が燃えるほどロマンチックでしたわ」
アイリスは帳簿をめくった。
「薔薇の花束、金貨五十枚。特注馬車、金貨四百枚。宝石付きの犬用首輪、金貨百枚」
「犬まで!?」
誰かが叫んだ。
「ちなみに犬は殿下より賢いそうです」
「誰が言った!」
「飼育係全員です」
会場のあちこちから笑いが漏れた。
「これらの不適切な支出は、王家の信用を守るため、正式な貸付証書を作成したうえでローウェル伯爵家が一時補填してまいりました。財務省にも記録を提出済みです」
アイリスは最後の頁を開いた。
「立て替え金総額、金貨五千四百二十枚。婚約解消に伴い、返済を請求いたします」
「ご、ごせんよんひゃく……!」
王子は指を折り始めた。
十本では足りなかった。
靴を脱ごうとしたところで、アイリスが止めた。
「殿下、足の指を動員しても足りませんわ」
「そんな大金、払えるわけがない!」
「まあ。お金がないのに贈り物をなさっていたの?」
「愛があれば金など!」
「では愛でお支払いください。財務省が受け取ってくだされば、ですが」
クララが王子の腕から離れた。
「ジュリアン様……まさか借金がおありなの?」
「クララ! 愛していると言っただろう!」
「愛しておりますわ。でも、借金は愛しておりません!」
「なんだと!?」
「わたくし、貧乏な王子様なんて聞いておりません!」
「貧乏ではない! 王子だぞ!」
「王子でも財布が空なら、ただの金髪ですわ!」
その瞬間、広間の扉が開いた。
「兄上。その金髪も、王室の美容費で整えておいでですね」
現れたのは、第二王子セシルだった。
銀髪に眼鏡、端正な顔立ち。
何より素晴らしいのは、帳簿を最後の頁まで読めることである。
アイリスにとって、それは白馬に乗って登場するより魅力的だった。
「セシル! なぜここに!」
「財務省の調査が終了しましたので」
セシルは書類を掲げた。
「兄上による公金の私的流用が確認されました。国王陛下の裁可により、王位継承権は停止。正式な審理を受けていただきます」
「そ、そんな!」
「なお、ローウェル家への返済義務も認められています。今後の給与から計画的に返済していただくことになります」
「給与だと!? 私は王子だぞ!」
「今後は北方鉱山の管理事務所で働いていただく予定です」
「鉱山!?」
「帳簿整理が主な仕事です。ちょうど人手不足でして」
ジュリアンは絶叫した。
「帳簿だけは嫌だあああ!」
会場にいた財務官たちは、静かにうなずいた。
帳簿を馬鹿にした男が帳簿で裁かれる。
これほど美しい因果応報があるだろうか。
クララはこっそり逃げようとしたが、セシルに呼び止められた。
「クララ嬢。架空の視察報告書に、あなたの署名がありますね。事情を伺います」
「わ、わたくし、署名しただけですわ!」
「その説明は調査官にどうぞ」
二人が連れていかれると、大広間に拍手が巻き起こった。
アイリスは優雅に一礼した。
(ああ、すっきりした。三年間の胃薬代も請求したいくらいだわ)
「アイリス嬢」
セシルが隣に立った。
「見事な監査でした」
「ありがとうございます。ですが、まだ改善の余地がございます」
「ほう?」
「まず、この舞踏会のカナッペです。サーモン一切れで銀貨三枚とは何事ですの?」
セシルの表情が真剣になった。
「私も気になっていました。仕入れ値の二倍以上です」
アイリスの胸が高鳴った。
(この方……原価を把握していらっしゃる!)
「それに、シャンデリアの蝋燭が多すぎます」
「ええ。半分でも十分な照度が確保できます」
(照度まで計算できるなんて!)
「アイリス嬢。実はお願いがあります」
セシルは眼鏡を直した。
「私の専属財務官になっていただけませんか? 予算管理の権限と、相応の報酬をお約束します」
「まあ!」
「そして、もしご迷惑でなければ……私の婚約者にも」
アイリスは一瞬、言葉を失った。
婚約を申し込まれて、最初に確認したいことがある。
「殿下。ご趣味は?」
「読書と財政分析です」
「借金は?」
「ありません」
「衝動買いは?」
「必要性と費用対効果を検討してから購入します」
「家計簿は?」
「毎日つけています」
アイリスは胸元を押さえた。
(なんということでしょう……!)
初めてだった。
薔薇の花束よりも、宝石の首飾りよりも、胸がときめいた。
(家計簿を毎日つける男性が、この世に実在するなんて!)
「セシル殿下。謹んでお受けいたします」
「本当ですか!」
「ただし、結婚後のお小遣いは月額制です」
「承知しました」
「臨時支出は事前申請」
「もちろんです」
「領収書の提出は必須」
「整理用の箱も用意しましょう」
アイリスはとうとう頬を赤らめた。
(好き……!)
セシルはそっと彼女の手を取った。
「では、二人でこの国の財政を立て直しましょう」
「ええ。まずは王宮の無駄遣いを三割削減いたしますわ!」
「私は四割を目指したい」
「まあ、殿下ったら大胆!」
二人は見つめ合った。
周囲の貴族たちは、何を聞かされているのか分からなかった。
ただ一つ確かなのは、この国の財務省に、恐ろしく強力な夫婦が誕生しそうだということだった。
やがて楽団がワルツを奏で始めた。
セシルが手を差し出す。
「一曲、踊っていただけますか?」
「もちろんですわ」
アイリスは微笑み、彼の手を取った。
「ただし殿下」
「はい?」
「この楽団の演奏料、時間単位ですのよ」
「では、残り時間を有効に使いましょう」
二人は軽やかに踊り出した。
その夜、王立学園の舞踏会では、一組の婚約が破棄され、新しい恋が芽生えた。
そして翌朝。
王宮の財務官たちの机には、一枚の通知が置かれていた。
『経費削減計画・第一弾。不要な金箔装飾の全面廃止について』
その末尾には、二人の署名が並んでいた。
――セシル・フォン・アルヴェイン。
――アイリス・ローウェル。
王宮の金箔職人たちが悲鳴を上げたのは、言うまでもない。
めでたし、めでたし。
ただし、王宮の予算だけは、これからが本番である。




