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あなたが捨てたのは私だけではなく人としての信頼です

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/08/11

実験作です。書き方についても試行錯誤中です。


連載版を始めました。詳しくは後書きにて。

「リリアナ。俺たち、婚約をやめないか?」


 あまりにも軽い口調だったので、リリアナ・フォードは最初、婚約者が冗談を言っているのだと思った。


 グレイヴ侯爵邸の庭園、その一角に設けられた東屋で、リリアナは婚約者であるアルフレッド・グレイヴと向かい合っていた。初夏の柔らかな風が庭園を抜け、白いテーブルクロスをわずかに揺らしている。先ほど使用人が運んできた紅茶からはまだ細い湯気が立ち、皿にはアルフレッドが好んでいる焼き菓子まで添えられていた。何年も婚約者として過ごしてきた二人にとって、こうして侯爵邸でお茶を飲むことなど珍しくない。だからこそ、その穏やかな午後に突然落とされた言葉を、リリアナはすぐには理解できなかった。


「……婚約をやめるって、どういうこと? 何か私に至らないところでもあったのかしら」


「いや、リリアナが悪いわけじゃないんだ。ただ、最近セシリアと話す機会が何度かあってさ。彼女といるとすごく楽しいんだよ。それで考えたんだけど、俺はセシリアのことが好きなんだと思う。だったら君との婚約を続けるより、セシリアと結婚した方がいいだろ?」


 アルフレッドは本当に何でもないことのように言った。


 アルフレッド・グレイヴはグレイヴ侯爵家の嫡男であり、将来その爵位を継ぐ立場にある青年だった。整った容姿に明るい性格、人当たりもよいため社交界での評判も決して悪くない。一方のリリアナはフォード伯爵家の令嬢である。侯爵家と伯爵家ではグレイヴ家の方が家格は上だが、フォード伯爵家も代々王国の財務に携わってきた家であり、現当主であるリリアナの父も王宮で要職を務めている。両家の当主同士が親しかったこともあり、二人の婚約は数年前に正式に結ばれていた。


 もちろん、リリアナにとっては家同士の結びつきだけではなかった。彼女はアルフレッドを好いていた。少々忘れっぽく、思いつきで行動することも多いけれど、明るくて人懐っこい彼と夫婦になることを楽しみにしていた。そのため侯爵夫人となるための教育にも真面目に取り組み、時にはアルフレッドの仕事を手伝うことさえあった。それなのに彼は今、長年の婚約をまるで明日の予定でも変更するかのような気軽さで終わらせようとしている。


「セシリアというのは、オルブライト子爵家のセシリア様のことよね?」

「ああ。この前の夜会でも話したんだけど、やっぱり彼女とは気が合うんだ。君も知っているだろう? 明るくて、よく笑う子だよ」

「もちろん知っているわ。だから確認したいのだけれど、グレイヴ侯爵閣下には、私との婚約を解消してセシリア様と結婚したいと、すでにお話ししたの?」

「いや、父上にはまだ話していないよ。でも俺の結婚のことなんだから、先に自分の気持ちを決めてから話した方がいいと思ってさ。リリアナとの話が済んだら、ちゃんと父上にも話すつもりだよ」


 その返答を聞いた瞬間、リリアナは嫌な予感を覚えた。


「では、私のお父様には当然まだ何も?」

「話してないよ。君から話してもらってもいいし、必要なら俺から話してもいい。その辺は後で決めればいいだろ?」

「……オルブライト子爵閣下には?」

「もちろんまだだよ。まず君との婚約をどうにかしないと、セシリアとの話を進められないだろ?」


 アルフレッドはそう言って紅茶を飲んだ。その様子には焦りも罪悪感もなく、自分はむしろ物事を順序立てて進めているとでも思っているようだった。リリアナはしばらく彼を見つめた後、最後に最も重要なことを尋ねることにした。


「それなら、セシリア様ご本人とはどこまでお話が進んでいるの? 当然、あなたから結婚したいという気持ちは伝えているのでしょう?」

「いや、まだそこまでは話してない。ただ、俺のことは嫌いじゃないと思うぞ。話しているといつも楽しそうだし、向こうから話しかけてくれることだってあるからな」

「……つまり、セシリア様があなたとの結婚を望んでいるかどうかも確認していないということ?」

「まだ聞いてはいないけど、たぶん大丈夫だと思う。それに、俺がリリアナとの婚約を解消したと知れば、セシリアだって俺が本気だって分かるだろ?」


 リリアナは何も言えなくなった。


 セシリアは子爵令嬢で、アルフレッドは侯爵家の嫡男である。夜会で話しかけられれば笑顔で応じるのは当然のことであり、相手から会話を求められたからといって恋愛感情があるとは限らない。それくらい、社交界に出たばかりの少年少女ですら理解していることだった。


 それにもかかわらず、アルフレッドは何度か楽しく会話をしたというだけで、セシリアも自分を好いているのだと思い込んでいる。そして彼女本人の意思を確かめるより先に、長年の婚約者へ婚約解消を告げたのだ。


「アルフレッド。私たちの婚約は、あなたと私だけで決めたものではないわ。グレイヴ侯爵家とフォード伯爵家の当主が話し合い、正式に取り交わした約束なのよ。それを解消するのであれば、まず侯爵閣下へ相談するべきだったのではないかしら」

「それくらい分かってるって。でも結局、結婚するのは俺と君なんだから、俺たちが納得していれば問題ないだろ? 父上たちには後から事情を説明すればいいし、必要な手続きがあるならそのときやればいい。そんなに難しく考えなくても、なんとかなるよ」


 ――なんとかなる。


 その言葉を聞いた瞬間、リリアナの胸に奇妙な感覚が広がった。


 今までに何度、その言葉を聞いてきただろう。大切な予定を忘れたときも、届いた手紙への返事を出し忘れたときも、領地から届いた報告書をろくに確認していなかったときも、アルフレッドは決まって「なんとかなる」と笑っていた。そして実際、これまではなんとかなっていた。


 けれど、それはアルフレッドがどうにかしていたからではない。


 リリアナが予定を覚えていた。返事を出していないことに気づけば教えた。侯爵夫人になるための勉強の一環として彼の仕事を手伝った際には、書類の数字が間違っていれば指摘した。社交の場でアルフレッドが不用意な発言をしそうになれば、それとなく話題を変えたことも一度や二度ではない。


 そのたびに彼は「助かったよ、リリアナ」と笑った。


 リリアナは、その笑顔を見るのが好きだった。自分は将来の夫を支えているのだと思っていたし、少しくらい抜けているところがあっても、自分が隣にいれば大丈夫なのだと信じていた。


 しかし、今になってようやく気づいた。


 自分は彼を支えていたのではないのかもしれない。


 ただ、彼が失敗した結果を受け取らなくて済むよう、先回りして尻拭いをしていただけなのではないか。そして自分がそうしてしまったからこそ、アルフレッドは自分の行動の先に何があるのかを考える必要すらなかったのではないか。


「……分かったわ。あなたがそこまで言うのであれば、婚約の解消を受け入れます。お父様には今日、私から事情を説明するわ」


「本当か? 良かった。もっと怒られるかと思ってたんだよ。でもリリアナなら最後には分かってくれると思ってた。父上たちへの説明は少し面倒だけど、まあ、婚約を解消すること自体は決まったんだから、後はどうにかなるだろ」


 嬉しそうに笑うアルフレッドを見ても、もう胸は痛まなかった。むしろ、長い間背負っていた重い荷物を突然下ろしたような、不思議なほどの軽さがあった。


「最後に一つだけ言わせて。あなたはもう少し、自分が何をしようとしているのか、その結果どうなるのかを考えた方がいいと思うわ」

「ちゃんと考えてるよ。考えたからこそ、好きな相手と結婚するために君との婚約を解消することにしたんだ。むしろ結婚してから後悔するより、今決断した方がずっといいだろ?」

「……そうね。もう何も言わないわ」


 アルフレッドは最後まで、なぜリリアナがそんな顔をしているのか理解していなかった。




 ◇




 翌日の夕刻、王宮から帰宅したグレイヴ侯爵は、屋敷へ入るなりアルフレッドを執務室へ呼びつけた。


 普段から厳格な父ではあったが、その日の表情は明らかにいつもと違っていた。机の前に立ったアルフレッドは、父が何かに怒っていることだけは理解したものの、それが自分の婚約についてだとは考えていなかった。


「今日、フォード伯爵から連絡をいただいた。お前が昨日、リリアナ嬢に婚約を解消したいと告げ、彼女もそれを受け入れたと聞いたのだが、これは事実なのか?」

「はい。ちょうど父上にも話そうと思っていたところです。俺は別にリリアナを嫌いになったわけじゃないんですが、他に好きな女性ができたので、このまま結婚するより婚約を解消した方がお互いのためだと思ったんです」

「私が聞いているのは、お前がどういう気持ちだったのかではない。なぜ私に何の相談もせず、相手方へ婚約解消を告げたのかと聞いている」

「だって、結婚するのは俺ですよ。父上に先に相談したところで、俺がリリアナと結婚したくないなら仕方ないでしょう? だったら先に本人同士で話をつけた方が早いと思ったんです」


 グレイヴ侯爵は何も言わなかった。


 怒鳴られると思っていたアルフレッドは、その沈黙を自分の説明に納得したものと受け取ったらしく、そのまま話を続けた。


「もちろん、家同士で正式な手続きが必要なのは分かっています。その辺は父上にお願いしようと思っていました。リリアナも納得しているんですから、そこまで大きな問題にはならないでしょう?」

「……では聞こう。その好きになった女性というのは、オルブライト子爵令嬢だそうだな。彼女とはすでに将来について話し合い、互いに結婚の意思を確認しているのだろうな?」

「いえ、そこまではまだです。でもセシリアも俺のことを気に入っていると思いますよ。何度か話しましたが、いつも楽しそうでしたし、向こうから話しかけてきたこともありますから」


 しばらく、執務室には時計の音だけが響いた。


 グレイヴ侯爵は息子の顔を見つめていた。何かの冗談ではないかと思ったのだろう。しかしアルフレッドは至って真面目だった。


「確認するぞ。お前はオルブライト子爵にも何も話しておらず、セシリア嬢本人から好意を告げられたわけでもなく、結婚について話し合ったことすらない。それにもかかわらず、彼女と何度か楽しく会話をしたというだけで、長年続いていた正式な婚約を私に無断で解消すると宣言した。私の理解に間違いはないな?」

「言い方は少し大袈裟ですが、だいたいはそうです。でも、そんなに問題ですか?リリアナだって了承してくれましたし、セシリアにはこれから俺の気持ちを伝えればいいでしょう。もし何か問題が起きても、そのとき考えれば――」

「出ていけ」


 アルフレッドはそこでようやく口を閉じた。


「父上、俺はただ――」

「今すぐ私の前から出ていけ。これ以上話を聞いていると、冷静でいられる自信がない。婚約についてはこちらでフォード伯爵と話をする。お前は私の許可なく余計なことをするな」


 アルフレッドは最後まで納得できない顔をしていたが、父の怒りが尋常ではないことだけは理解したらしく、渋々執務室から出ていった。


 一人残されたグレイヴ侯爵は椅子へ深く腰掛け、両手で顔を覆った。


 息子が軽率であることは知っていた。昔から深く考えることが苦手で、何か問題が起きても楽観的に捉えるところがあった。それでもまだ若いのだから、経験を積めばいずれ改善すると考えていた。


 そして何より、リリアナがいた。


 聡明で慎重な彼女が妻となって息子を支えてくれれば、多少足りないところがあっても大丈夫だろう。グレイヴ侯爵自身、いつの間にかそんな考えに甘えていた。


「……私は、あの令嬢に何を背負わせるつもりだったのだ」


 自分の息子の未熟さを、将来の妻に補わせればいいと思っていた。


 それがどれほど身勝手な考えだったのか、侯爵もまた、この日になって初めて思い知らされた。




 ◇




 その後、グレイヴ侯爵自身がフォード伯爵家を訪れ、正式に謝罪した。フォード伯爵も、息子の行動を正当化することなく自ら足を運んだ侯爵にまで責任を負わせるつもりはなかったため、両家で話し合った末に婚約は正式に解消されることになった。当然ながら原因はアルフレッド側にあるため、それに伴う補償についても協議され、長年続いていた両家の婚約関係は静かに終わった。


 リリアナは、自分でも驚くほど穏やかだった。何年も好きだった相手なのだから、婚約を失えばもっと悲しいと思っていた。けれど涙はほとんど出なかった。これからはアルフレッドの予定を覚えておく必要もなければ、彼が忘れていることを代わりに気にする必要もない。届いた手紙への返事を出したのか心配する必要も、夜会で失言をしないか気を配る必要もなかった。それに気づいたとき、寂しさより先に安堵してしまった自分に、リリアナは少しだけ笑った。


 一方、アルフレッドは婚約が正式に解消されたと知ると、すぐにセシリアへ求婚した。


「リリアナとの婚約は正式に解消されたんだ。これでもう誰にも遠慮する必要はないし、俺は君と結婚したいと思っている。突然で驚くかもしれないけれど、俺はずっと君と話している時間が楽しかったし、君も同じ気持ちだと思っていた」


 花束を差し出しながらそう告げたアルフレッドに対し、セシリアはしばらく言葉を失っていた。


「……申し訳ありません、アルフレッド様。私は確かに夜会で何度かあなたとお話ししましたし、その時間が不愉快だったわけでもありません。でも、それは社交の場で普通に会話をしていただけです。あなたに恋愛感情を抱いていると申し上げたことも、結婚したいとお伝えしたこともありません」

「でも、いつも楽しそうに笑っていただろう? 君の方から話しかけてくれたことだってあったじゃないか」

「侯爵家のご嫡男である方と夜会でお話しするのに、無愛想な態度を取る方が失礼でしょう。それに私が話しかけたのも、共通の知人についてお尋ねしたかったからです。それだけでどうして、私があなたとの結婚を望んでいるという話になってしまったのですか?」


 アルフレッドは答えられなかった。


 結局、オルブライト子爵からも正式に縁談を断られた。子爵にしてみれば当然の判断だった。娘の意思を確認することすらなく、勝手に娘への恋心を理由として長年の婚約を解消した男である。たとえ侯爵家の嫡男であろうとも、大切な娘を嫁がせたい相手ではなかった。


 それでもアルフレッドは、帰りの馬車の中で本気で首を傾げていた。


「……おかしいな。絶対に俺のことが好きだと思っていたんだけどな」




 ◇




 しかし、アルフレッドにとって本当に困ったことが始まったのは、それからだった。


 婚約が解消されたという話は、ほどなくして社交界へ広がった。若い貴族同士の婚約が解消されること自体は、それほど珍しいことではない。相性が合わなかった、家同士の事情が変わった、本人たちがどうしても望まなかったなど、理由はいくらでもある。だがアルフレッドの場合、問題になったのは婚約解消そのものではなく、その過程だった。


 父であるグレイヴ侯爵に相談することもなく、相手方のフォード伯爵へ話を通すこともなく、別の令嬢に好意を抱いたというだけでリリアナへ婚約解消を告げた。しかも、その令嬢とは恋人ですらなく、相手の意思も確認していなかったという。


 最初こそ若者の失敗として面白おかしく語る者もいたが、次第に笑い話では済まなくなっていった。


 アルフレッドは侯爵家の嫡男である。将来侯爵となれば、領地とそこで暮らす人々を背負い、多くの家臣や使用人を束ね、他家や商会と重要な契約を結ぶことになる。その人間が、正式に取り交わされた婚約ですら「別の女性が好きになったから」という理由で周囲への相談もなく投げ捨てる。そう考えれば、彼個人との約束を警戒する者が出てくるのは当然だった。


 グレイヴ侯爵家そのものの信用が失われたわけではない。現当主であるグレイヴ侯爵は長年にわたって誠実に職務を果たしており、今回の件でも自らフォード伯爵家へ謝罪し、責任ある対応をしている。だからこそ周囲は、侯爵家とアルフレッド個人をはっきり区別した。


 グレイヴ侯爵は信用できる。


 だが、アルフレッド・グレイヴは信用できない。


 その評価は、将来侯爵となるはずの青年にとって致命的だった。


 さらに悪いことに、リリアナがいなくなったことで、これまで隠れていたアルフレッドの欠点まで次々と表に出るようになった。大切な会合の日程を忘れ、届いた書状への返事を後回しにし、渡された資料に目を通さないまま会議へ出る。以前ならリリアナが「明日は商会の方との会合でしょう」「こちらのお手紙、まだお返事をしていないのでは?」「この数字、昨年のものになっているわよ」と事前に気づいていたことを、誰も教えてくれなくなった。


 そこでアルフレッドは初めて、自分がこれまで問題なくやってこられた理由を知った。


 自分がしっかりしていたからではない。


 リリアナが、自分の失敗が大きな問題になる前に止めてくれていたからだった。




 ◇



 婚約解消からしばらく経ったある日、アルフレッドは再び父から執務室へ呼ばれた。


「今後、お前には領地経営や侯爵家の財務に関する重要な仕事を任せないことにした。しばらくは補助的な仕事に戻り、一から学び直してもらう。それと、後継者についても改めて検討する」

「ちょっと待ってください。俺はグレイヴ侯爵家の嫡男ですよ。確かに最近いくつか失敗はしましたが、だからといって後継者まで考え直すなんて大袈裟でしょう。それに、そもそもの原因だって婚約を一度解消しただけじゃないですか」


 グレイヴ侯爵は、息子の言葉を聞き終えるまで黙っていた。以前なら怒鳴っていたかもしれない。しかし今、その顔に浮かんでいたのは怒りよりも深い失望だった。


「お前はまだ、自分がリリアナ嬢との婚約を解消したから罰を受けていると思っているのか。そうではない。私が問題にしているのは、お前が人生に関わる重大な決断をする際でさえ、関係する人間へ相談することも、その先に何が起きるのか考えることもできなかったという事実だ」

「でも、結婚するのは俺自身です。好きでもない相手と結婚し続けるより、自分の気持ちに正直になっただけでしょう?」

「リリアナ嬢と結婚したくないのなら、その意思を示すこと自体を責めているのではない。まず私へ相談し、フォード伯爵家へ事情を説明し、両家で話し合った上で婚約を解消すればよかった。それすら理解できないのか?しかもお前は、セシリア嬢の意思すら確認しないまま彼女と結婚できると思い込んでいた。問題が起きれば後から考えればいいと、本気で思っていたのだろう」


 アルフレッドは言葉に詰まった。


「侯爵となれば、領民の生活を背負う。家臣や使用人を背負い、家の財産を管理し、他家や商会と契約を結び、時には王家から重要な役目を任されることもある。そのたびに『なんとかなる』『問題が起きてから考えればいい』で済ませるつもりなのか? お前の軽率な判断一つで困るのは、お前一人ではないのだ」

「……そこまで考えていなかっただけです。次から気をつければ――」

「そこだ、アルフレッド」


 侯爵の声は静かだった。


「お前はいつも、考えていなかったと言う。そして問題が起きてから、次は気をつけると言う。これまでそれで済んでいたのは、誰かがお前の代わりに考えてくれていたからだ。私であり、使用人であり、何よりリリアナ嬢だった。だが侯爵となる人間が、いつまでも誰かに自分の頭の代わりをさせることはできない」


 そこでようやく、アルフレッドは黙った。


「これは婚約を解消した罰ではない。お前に侯爵家を任せられるだけの判断力があるのか、それを私が疑うようになったという話だ。嫡男として生まれたからといって、何も考えない人間に家を任せるわけにはいかない」


 アルフレッドは反論できなかった。



 ◇



 一方、リリアナの生活は驚くほど穏やかになっていた。


 婚約解消後はフォード伯爵家で過ごしながら、父の仕事を手伝うようになった。侯爵夫人になるために学んできた領地経営や財務、社交に関する知識は決して無駄ではなく、むしろ実務の中で大いに役立った。それまで彼女は「グレイヴ侯爵家嫡男の婚約者」として見られることが多かったが、アルフレッドから離れたことで、皮肉にもリリアナ本人の能力が周囲から評価されるようになった。


 新しい縁談もいくつか持ち込まれたがリリアナは急がなかった。


 今度こそ、家格や条件だけではなく、一緒に人生を歩める相手を自分の目で見極めたいと思っていた。


 そんなある日のことだった。


 王宮で開かれた夜会で、リリアナは久しぶりにアルフレッドと顔を合わせた。


 以前の彼なら、多くの若い貴族に囲まれて笑っていたはずだった。しかし今は違う。挨拶を交わす者はいるものの、以前ほど彼の周囲に人はいなかった。露骨に避けられているわけではない。ただ、重要な相談を持ちかけたり、将来の仕事について語り合ったりする者が減っている。


 アルフレッドの方からリリアナへ近づいてきた。


「久しぶりだな、リリアナ。君は元気そうで良かったよ。俺は……まあ、あれから色々あってさ。父上には仕事を減らされるし、後継者についてまで考え直すなんて言われた。周りの連中も以前みたいに俺を誘わなくなったし、どうしてこんなことになったんだろうな。俺はただ、好きな相手と結婚したいと思って、君との婚約をやめただけなのに」


 その言葉を聞いて、リリアナはしばらく彼を見つめていた。


 何も変わっていない。


 少しだけ疲れた顔をしている。以前より自信もなくしている。それでも、この人はまだ、自分が何をしたのか本当の意味では理解していないのだ。


「アルフレッド。あなたは、私との婚約を解消したから信用されなくなったわけではないのよ。婚約を続けられないと思ったのであれば、きちんと話し合って解消する道だってあった。私も、あなたが心から望んでいない結婚を無理に続けてほしいとは思わないわ」

「だったら、どうしてなんだ?俺だって父上たちに迷惑をかけたことくらいは分かっているし、そのことについては反省している。でも、たった一度のことで、ここまで信用されなくなるなんて――」

「たった一度だと思っているからよ」


 リリアナは静かに彼の言葉を遮った。


「あなたは私との婚約を終わらせようとしたとき、侯爵閣下へ相談することも、私の父へどう説明するのか考えることも、セシリア様の気持ちを確認することもしなかった。自分がそうしたいと思ったから行動して、問題が起きたらそのとき考えればいいと思っていた。あなたが失った信用は、婚約を解消したことへの罰ではないの。大切なことを任せるには、あなたはあまりにも何も考えていない。周囲の人たちが、そう気づいてしまっただけよ」


 アルフレッドは黙っていた。


「これまであなたが『なんとかなる』と言って、本当になんとかなっていたのは、誰かがあなたの代わりになんとかしていたから。侯爵閣下だったり、使用人だったり、私だったりした。でも、あなたはそれを自分の力でどうにかなったのだと思っていたのでしょうね」

「……俺は、そんなつもりじゃなかった」

「分かっているわ。あなたには最初から、誰かを陥れようなんてつもりはなかったのでしょう。だからこそ困るのよ。悪意がなくても、考えなしにしたことの責任がなくなるわけではないもの」


 夜会の広間には大勢の貴族がいる。談笑する声が響き、楽団の奏でる音楽が流れ、煌びやかな衣装をまとった男女が行き交っている。その中でアルフレッドは一人、立ち尽くしていた。


 以前なら、何か失敗をしても誰かが助けてくれた。

 忘れていても教えてもらえた。間違えていれば直してもらえた。問題が起きても、最後にはなんとかなった。


 だから彼は、一度も考えなかったのだ。


 自分の言葉を相手がどう受け取るのか。自分の決断によって誰が困るのか。今日の行動が明日の自分に何を残すのか。


 今になって、ようやく気付いたのだ。

  そして、気づいたときにはもう、それを返してほしいと頼める相手すらいなかった。


 何も考えない事は簡単だった。


 けれど一度捨ててしまった信頼を取り戻す方法だけは、いくら「なんとかなる」と口にしたところで、誰も代わりに考えてはくれなかった。

別作品ですが連載を始めました! かなり気合いを入れて書いてます。(代表作にも設定しました)


『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』

https://ncode.syosetu.com/n9992mo/

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― 新着の感想 ―
大局的に見ればアルフレッドが結婚して侯爵になる前に気づけて良かったといえますかね。 グレイヴ侯爵にとっては痛い勉強代でしたし、リリアナもこんなのと結婚しなくて済んだとはいえ、これから相手を探さなくては…
この男は単純に頭が悪いのでしょうね。結婚しなくてよかった。
お父様のご心痛を思うとこちらまで胃が痛く… どこでおかしくなってしまったんやろなあ
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