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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第六章

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97話 再び、その名を

97話 再び、その名を




王家の馬車が王城の正門をくぐると、車輪の音が白い石畳の上へ静かに響いた。


「……お姉様。少し、緊張してきました」


フローリアが膝の上で重ねた手へ力を込める。エレノアはその上へそっと手を重ねた。


「私もよ」


そう答えると、妹の肩から僅かに力が抜けた。向かい側ではマーガレットが二人を見て柔らかく微笑んでいる。


ローレンスだけは窓の外を見たままほとんど口を開かなかった。けれど、その横顔がいつもより僅かに硬いことには、エレノアも気づいていた。


やがて馬車は王城正面の車寄せへ滑り込むように停まった。扉の外から、控えていた従者の声が届く。


「アシュフォード家の皆様、到着いたしました」


ローレンスは一度だけ深く息を吸った。


「行こう」


家族へ向けた短い言葉に、三人が揃って頷いた。




馬車を降りると、王城正面にはすでに数名の宮廷官と近衛騎士が待っていた。その中に見覚えのある銀灰色の髪を見つけ、エレノアの表情が僅かに和らぐ。


「エリオット様」


近衛騎士団補佐官エリオットは、いつも以上に整えられた正式な礼装姿で一礼した。


「お待ちしておりました。アシュフォード家の皆様」


王命中には幾度となく顔を合わせた相手なのに、今日は言葉遣いも所作も完全に公的なものだった。


「まず控えの間へご案内いたします。その後、国王陛下のお待ちになる大広間へお入りいただきます」


ローレンスが頷く。


「承知しました」


エリオットの案内で、一家は王城の中へ入った。


長い廊下を歩きながら、エレノアは何度も見覚えのある景色を目にした。


あちらへ進めば研究室がある。別の回廊を曲がれば近衛騎士団の執務区画へ続く。


何度も通った場所なのに、家族四人で歩くのは初めてだった。


行き交う官吏や侍従たちは、一家へ気づくたび静かに道を譲った。かつて伯爵だった頃には珍しくもなかった礼を受けるたび、ローレンスの歩みが僅かに硬くなる。


エレノアは黙って父の横顔を見つめた。前を向く背筋は真っ直ぐだった。




控えの間へ案内されると、エリオットは一同へ向き直って告げる。


「まもなくお呼びいたします」


「ありがとうございます」


エレノアが答えると、エリオットはほんの一瞬だけ彼女を見た。そして、普段の補佐官らしい無駄のない表情のまま、僅かに声を和らげる。


「……本日は、良い日になります」


エレノアは目を瞬いたあと、柔らかく微笑んだ。


「はい」


エリオットが退出し、扉が閉じる。


四人だけになると、それまで以上に室内が静かになった。


フローリアが小さく息を吐く。


「あと少しなのですね」


「ええ」


マーガレットが、娘の手をそっと握った。


ローレンスは立ったまま、大広間へ続く扉を見つめていた。エレノアはその隣へ並ぶ。


「お父様」


「何だ」


「先ほどから、あまりお話しになりませんね」


「……話せば緊張がなくなるか?」


「いいえ」


思わずエレノアは小さく笑った。ローレンスも僅かに口元を緩めたが、すぐに表情を戻した。


「エレノア」


「はい」


「今日、どのような裁可が下ったとしても、お前が成したことは変わらない」


エレノアは少し驚いて父を見る。


ローレンスの視線は、まだ閉ざされた大広間の扉へ向いていた。


「爵位が戻ろうと、戻るまいと。お前がこの国のためにしたことも、お前が自分の力で積み重ねてきたものも、何一つ変わらない」


「……はい」


エレノアは静かに頷いた。


その時控えの間の扉が開き、宮廷官が姿勢を正して告げた。


「ローレンス・アシュフォード様、マーガレット・アシュフォード様、エレノア・アシュフォード様、フローリア・アシュフォード様。国王陛下がお待ちです」


四人は同時に息を整えた。





大広間の扉が開いた。


高い天井から降り注ぐ朝の光が、白亜の柱と深い青の絨毯を明るく照らしている。


最奥の玉座には、レオンハルト王。その傍らには王妃ベアトリスが静かに座し、少し離れて宰相と法官が控えていた。

王妃は淡い金髪を品よく結い上げ、穏やかな面差しで広間へ入ってきたアシュフォード家を見守っている。エレノアたちが礼を取ると、その表情がほんの僅かに和らいだ。


左右には王国の重臣たちが並び、さらにその一角には近衛騎士団の姿があった。


ダリウス。

ガレス。

クラウディア。

オーウェン。

リアナ。

そして、シリル。


エレノアの視線は、ごく自然に彼を見つけた。


濃紺のマントをまとった白色の近衛騎士礼装。

もう右腕に包帯はなく、まっすぐ立つ姿に傷の名残はほとんど見えない。


彼は何も言わない。

ただ、家族とともに広間へ入ってきたエレノアを静かに見つめている。やがて目が合うと、シリルの青い瞳が、ほんの僅かに和らいだ。


それだけで、エレノアには十分だった。


かつて王命を伝えるためアシュフォード邸を訪れた彼が今、同じ家が再び王の前へ立つ瞬間を見届けてくれている。


胸の奥へ静かな温かさが灯った。


エレノアはシリルへほんの僅かに頷き返し、家族とともに玉座の前へ進んだ。


四人は所定の位置で礼を取る。


「面を上げよ」


レオンハルト王の声が広間へ響く。エレノアたちはゆっくりと顔を上げた。


王はしばらく四人を見渡したあと、ローレンスへ視線を定めた。


「ローレンス・アシュフォード」


「はっ」


「前へ」


「承知いたしました」


ローレンスが一歩前へ出る。エレノアはその背中を見つめた。幼い頃より少し細くなった背。それでも今日、その姿は少しも弱く見えなかった。


ローレンスが王の前へ進むと、宰相が一巻の文書を開いた。


「国王レオンハルト・リーヴェル陛下の御名において、ここに宣する」


静かな大広間へ、声が明瞭に響く。


「ローレンス・アシュフォード、ならびにその家に連なる者たちは、このたびの王命遂行において、王国の安寧と民の未来へ多大なる功績を挙げた」


エレノアの胸が大きく鳴る。


「その功は一代の働きのみで成されたものではない。アシュフォード家が長きにわたり守り、受け継いできた学識と、それを未来へ繋いだ者たちの働きによるものである」


ローレンスの肩が、僅かに震えた。


爵位を失い、研究の場を奪われても、父が手放さなかったもの。

人に笑われても、価値がないと断じられても守り続け、娘へ託した知識。


それが今、王国の言葉によって認められている。


エレノアは唇を結ぶ。


「以上の功績を鑑み、アシュフォード家の名誉を回復し、その爵位を復するものとする。よって本日をもって――」


宰相はさらに続けた。




「ローレンス・アシュフォードにアシュフォード伯爵位を復す」




その言葉が響いた瞬間、エレノアには周囲の音が遠のいたように思えた。


――伯爵位を復す。


分かっていた。


今日、それを聞くためにここへ来たのだ。


けれど、実際に国王の裁可として宣言された瞬間、胸へ押し込めていたものが一気に込み上げた。


隣でフローリアが息を呑み、マーガレットは胸元で両手を重ねる。その瞳には、すでに涙が光っていた。


ローレンスだけは深く頭を下げたまま、しばらく動かなかった。


やがて。


「……謹んで、拝受いたします」


少し掠れた声。


それでも最後まで、アシュフォード家当主としての礼を崩さなかった。


レオンハルト王が頷く。法官が王家の印章が押された正式な証書を携えて前へ出た。ローレンスは両手でそれを受け取る。


失ったものと、まったく同じものが戻ったわけではない。過去へ戻ったわけでもない。

それでも、アシュフォードという家名が、再び王国の爵位録へ記される。

その事実だけで、エレノアの目元が熱くなった。


そしてレオンハルト王が静かに告げた。


「顔を上げよ」


「はっ」


ローレンスが顔を上げる。王は穏やかに、けれど広間のすべてへ届く声で呼んだ。


「アシュフォード伯爵」


ローレンスの瞳が、大きく揺れた。


何年ぶりだろう。父が、その名で呼ばれたのは。


エレノアの胸が熱くなる。


レオンハルトは続けた。


「そなたの家が失った年月を、余が返すことはできぬ。苦難がなかったことにもできぬ」


ローレンスは黙って王の言葉を聞いている。


「だが、その年月を越えてなお守り抜かれたものまで、失われていたとは余は思わぬ」


王の視線が、ローレンスからその後ろに立つ三人へ移った。


「そなたは家を守った。妻と娘たちもまた、そなたを支えた。そして、その家が守り続けた知識は、この国を救った」


ローレンスはゆっくりと振り返った。


マーガレット、フローリア。


そして、エレノア。


かつて自分の書斎で古代文字を教えた少女。いつしか自分より遠くまで、その知識を運んでいった娘。


ローレンスは再び王へ向き直り、深く頭を下げた。


「……ありがたきお言葉にございます」


今度の声は、先ほどより少しだけ震えていた。




続いてマーガレットとフローリアも王の前へ呼ばれた。


レオンハルトは、爵位を失ってからも家族を支え続けたマーガレットを労い、再び伯爵夫人としてその名を担うことを告げる。


フローリアが呼ばれた時には、緊張から少しだけ声が上ずった。

けれど王は穏やかに笑い、


「そう硬くならずともよい。そなたもまた、この家を支えた一人であろう」


と声を掛けた。フローリアは驚いたように目を見開く。


家に残って父と母を支え、姉の帰りを待った。その時間もまた、アシュフォード家を守ったものだった。


「……はい。ありがとうございます、陛下」


今度は、はっきりと答えることができた。


そして、


「エレノア・アシュフォード」


エレノアが前へ出る。


今日、この場で行われるのはまずアシュフォード家の復爵。エレノア個人への正式な褒賞は、後ほど改めて授けられる。

それでもレオンハルトは、しばらく彼女を見つめてから口を開いた。


「そなたには、後ほど改めて申すことがある」


「はい」


「だが、その前に」


王の表情が、少しだけ柔らかくなる。王の傍らでは、ベアトリス王妃も静かに微笑んでいた。


「まずは、家族の一人として受け取るがよい」


エレノアが目を瞬く。


レオンハルトは告げた。


「――おかえり、エレノア。アシュフォード伯爵令嬢として」


胸が、大きく鳴った。


――伯爵令嬢。


幼い頃は当たり前だった呼び名。失ってからは、もう二度と自分へ向けられることはないと思っていた。


けれど、それを取り戻した瞬間に胸へ浮かんだのは、かつての華やかな暮らしではなかった。


父と母、フローリア。旅をともにした仲間たち。そして、少し離れた場所から自分たちを見守るシリル。


目を向けると、彼は相変わらず静かな顔で立っている。

けれど、その青い瞳には隠しきれないほど穏やかな光があった。


エレノアが伯爵令嬢へ戻ったことを、父の名誉が取り戻されたことを、自分のことのように喜んでくれている。


そう思った。


エレノアは王へ深く頭を下げた。


「……ありがたきお言葉にございます」


声は少し震えていた。けれど、今はそれを隠す必要はないと思えた。


「この名に恥じぬよう、これからも努めてまいります」


レオンハルトは静かに頷いた。





法官による復爵証書の確認が終わり、アシュフォード家の爵位復帰が正式に成立した。


式の一区切りを告げる声が響く。


「アシュフォード伯爵家御一同、いったん控えの間へ」


その呼び方に、エレノアは思わず父を見た。


少し前までは、


――ローレンス・アシュフォード様。


そう呼ばれていた。


今は、


――アシュフォード伯爵。


たった一つの呼び名の違い。


それだけなのに。そこには、家族が歩いてきた長い年月すべてが横たわっているようだった。


アシュフォード伯爵家が並び大広間を出るため歩き始める。


近衛騎士団の前を通ると、リアナは目元を僅かに赤くし、オーウェンも珍しく穏やかな笑みを浮かべている。クラウディアとガレスが静かに頷き、ダリウスは胸へ掌を当てて最敬礼を取った。


それに続いて、シリルも胸へ掌を当てた。


エレノアはその前で、ほんの一瞬だけ歩みを緩めた。


目が合う。

青い瞳は、これまで見たことがないほど穏やかだった。


――よかった。


声にされなくても、そう伝わってくる。


エレノアは小さく微笑み、家族とともに大広間を出た。





控えの間へ戻ると、扉が閉じた。その途端、四人の間へ不思議な沈黙が落ちる。


ローレンスは手にした証書を見つめたまま動かず、ほかの三人もまだ現実へ追いつけずにいた。


やがて、フローリアが小さく口を開いた。


「……お父様」


「何だ」


「本当に、伯爵様なのですね」


ローレンスが目を瞬く。


フローリアは慌てたように続けた。


「いえ、変な意味ではなくて……本当に戻ったのだと思ったら」


途中で声が震えた。


「……よかった」


その目から、一粒の涙が落ちた。


マーガレットはすぐ娘を抱き寄せた。


「ええ。よかったわね」


その声も、もう震えている。


エレノアの目元にも熱が集まった。


大広間では、最後まできちんとしていようと思っていた。けれど、家族だけになって、妹の涙と母の声を聞いた瞬間。

堪えていたものが、急に溢れそうになった。


「お母様……」


マーガレットが片腕を伸ばすと、エレノアもその胸へ寄り、フローリアと三人で抱き合った。


少し離れたところで、ローレンスがその様子を見ていた。


「お父様も」


フローリアが涙を拭きながら手を伸ばす。


「私はいい」


「駄目です」


「なぜだ」


「家族全員なのですから」


ローレンスは困ったような顔をした。けれど結局、ゆっくり三人へ近づいた。


マーガレットが夫の手を取る。エレノアも父の袖へそっと触れた。


四人が一つの輪になる。


大声で喜ぶでも、泣き崩れるでもない。ただ長い時間をともに耐えてきた四人が、互いがここにいることを確かめるように寄り添った。


しばらくして、ローレンスが静かに口を開いた。


「……私は、爵位を失った時」


三人が顔を上げる。


「お前たちから、多くのものを奪ってしまったと思った。暮らしも、将来も、本来なら娘たちが得られたはずのものまで、私のせいで失わせたのではないかと」


エレノアの胸が締めつけられる。


父がそんな思いを口にしたことは一度もなかった。それでもきっと、ずっと胸の内で背負っていたのだ。


ローレンスは手の中の証書を見た。


「今日、この紙を受け取った時。ほんの一瞬だけ、失ったものが戻ってきたと思った」


そこで首を横へ振る。


「だが、違った」


エレノアが父を見る。


「戻ったのではない。お前たちが、失った先で歩き続けて、ここまで来てくれたのだ」


そしてローレンスの視線が、まっすぐエレノアへ向いた。


「エレノア」


「……はい」


「お前が王命を受けた日、私は怖かった」


エレノアが目を見開く。


「お前を誇らしく思うよりも先に、危険な場所へ行かせることが怖かった」


ローレンスの目元が、ゆっくり和らいだ。


「けれど、お前は自分で選んで進んだ。私が教えた文字を読み、私には辿り着けなかった場所まで行った」


エレノアの瞳から、とうとう涙が零れた。


「お父様……」


ローレンスは少しだけ笑った。伯爵としてでも、研究者としてでもない。


ただ、娘を見る父の顔だった。


「エレノア」


はっきりと呼ぶ。


「お前は、私の誇りだ」


その言葉に、エレノアは何も返せなかった。


自分の方こそ、ずっと父を誇りに思ってきた。


研究を笑われても、爵位を失っても、身体を悪くしても、知識を手放さず、自分へ古代文字を教えてくれた父。


ずっと尊敬してきた父から、同じ思いを返してもらえる日が来るとは思っていなかった。


「……私も」


声が震える。


涙を拭っても、また溢れてくる。


それでも父を見た。


「私も、ずっとお父様を誇りに思っています。古代文字を教えてくださったことも、研究を諦めなかったことも……全部、お父様からいただいたものです」


エレノアは涙の中で微笑んだ。


「今日ここへ来られたのは、私一人の力ではありません。お父様が、ずっと知識を残してくださったからです」


ローレンスは何も答えず、ただ娘の頭へゆっくりと手を置いた。

幼い頃、勉強を褒められた時と同じ手だった。


「……大きくなったな」


「もう成人です」


「知っている」


「でしたら、今さらです」


「父親とは、そういうものだ」


エレノアは涙を浮かべたまま笑った。


マーガレットもフローリアも、同じように笑っている。


アシュフォード家は今日、伯爵家へ戻った。けれど、過去へ戻ったのではない。


爵位を失った日から家族四人で支え合い、それぞれが歩いてきた時間を抱えたまま、もう一度アシュフォードの名とともに前へ進むのだ。




やがて控えの間の外から、次の式典を知らせる足音が近づいてきた。


エレノアは涙を拭い、家族と顔を見合わせる。


胸には、父の言葉がまだ温かく残っていた。




――お前は、私の誇りだ。




きっと、生涯忘れない。




小さく微笑み、エレノアは家族とともに再び王の待つ大広間へ向かった。


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