97話 再び、その名を
97話 再び、その名を
王家の馬車が王城の正門をくぐると、車輪の音が白い石畳の上へ静かに響いた。
「……お姉様。少し、緊張してきました」
フローリアが膝の上で重ねた手へ力を込める。エレノアはその上へそっと手を重ねた。
「私もよ」
そう答えると、妹の肩から僅かに力が抜けた。向かい側ではマーガレットが二人を見て柔らかく微笑んでいる。
ローレンスだけは窓の外を見たままほとんど口を開かなかった。けれど、その横顔がいつもより僅かに硬いことには、エレノアも気づいていた。
やがて馬車は王城正面の車寄せへ滑り込むように停まった。扉の外から、控えていた従者の声が届く。
「アシュフォード家の皆様、到着いたしました」
ローレンスは一度だけ深く息を吸った。
「行こう」
家族へ向けた短い言葉に、三人が揃って頷いた。
馬車を降りると、王城正面にはすでに数名の宮廷官と近衛騎士が待っていた。その中に見覚えのある銀灰色の髪を見つけ、エレノアの表情が僅かに和らぐ。
「エリオット様」
近衛騎士団補佐官エリオットは、いつも以上に整えられた正式な礼装姿で一礼した。
「お待ちしておりました。アシュフォード家の皆様」
王命中には幾度となく顔を合わせた相手なのに、今日は言葉遣いも所作も完全に公的なものだった。
「まず控えの間へご案内いたします。その後、国王陛下のお待ちになる大広間へお入りいただきます」
ローレンスが頷く。
「承知しました」
エリオットの案内で、一家は王城の中へ入った。
長い廊下を歩きながら、エレノアは何度も見覚えのある景色を目にした。
あちらへ進めば研究室がある。別の回廊を曲がれば近衛騎士団の執務区画へ続く。
何度も通った場所なのに、家族四人で歩くのは初めてだった。
行き交う官吏や侍従たちは、一家へ気づくたび静かに道を譲った。かつて伯爵だった頃には珍しくもなかった礼を受けるたび、ローレンスの歩みが僅かに硬くなる。
エレノアは黙って父の横顔を見つめた。前を向く背筋は真っ直ぐだった。
控えの間へ案内されると、エリオットは一同へ向き直って告げる。
「まもなくお呼びいたします」
「ありがとうございます」
エレノアが答えると、エリオットはほんの一瞬だけ彼女を見た。そして、普段の補佐官らしい無駄のない表情のまま、僅かに声を和らげる。
「……本日は、良い日になります」
エレノアは目を瞬いたあと、柔らかく微笑んだ。
「はい」
エリオットが退出し、扉が閉じる。
四人だけになると、それまで以上に室内が静かになった。
フローリアが小さく息を吐く。
「あと少しなのですね」
「ええ」
マーガレットが、娘の手をそっと握った。
ローレンスは立ったまま、大広間へ続く扉を見つめていた。エレノアはその隣へ並ぶ。
「お父様」
「何だ」
「先ほどから、あまりお話しになりませんね」
「……話せば緊張がなくなるか?」
「いいえ」
思わずエレノアは小さく笑った。ローレンスも僅かに口元を緩めたが、すぐに表情を戻した。
「エレノア」
「はい」
「今日、どのような裁可が下ったとしても、お前が成したことは変わらない」
エレノアは少し驚いて父を見る。
ローレンスの視線は、まだ閉ざされた大広間の扉へ向いていた。
「爵位が戻ろうと、戻るまいと。お前がこの国のためにしたことも、お前が自分の力で積み重ねてきたものも、何一つ変わらない」
「……はい」
エレノアは静かに頷いた。
その時控えの間の扉が開き、宮廷官が姿勢を正して告げた。
「ローレンス・アシュフォード様、マーガレット・アシュフォード様、エレノア・アシュフォード様、フローリア・アシュフォード様。国王陛下がお待ちです」
四人は同時に息を整えた。
◇
大広間の扉が開いた。
高い天井から降り注ぐ朝の光が、白亜の柱と深い青の絨毯を明るく照らしている。
最奥の玉座には、レオンハルト王。その傍らには王妃ベアトリスが静かに座し、少し離れて宰相と法官が控えていた。
王妃は淡い金髪を品よく結い上げ、穏やかな面差しで広間へ入ってきたアシュフォード家を見守っている。エレノアたちが礼を取ると、その表情がほんの僅かに和らいだ。
左右には王国の重臣たちが並び、さらにその一角には近衛騎士団の姿があった。
ダリウス。
ガレス。
クラウディア。
オーウェン。
リアナ。
そして、シリル。
エレノアの視線は、ごく自然に彼を見つけた。
濃紺のマントをまとった白色の近衛騎士礼装。
もう右腕に包帯はなく、まっすぐ立つ姿に傷の名残はほとんど見えない。
彼は何も言わない。
ただ、家族とともに広間へ入ってきたエレノアを静かに見つめている。やがて目が合うと、シリルの青い瞳が、ほんの僅かに和らいだ。
それだけで、エレノアには十分だった。
かつて王命を伝えるためアシュフォード邸を訪れた彼が今、同じ家が再び王の前へ立つ瞬間を見届けてくれている。
胸の奥へ静かな温かさが灯った。
エレノアはシリルへほんの僅かに頷き返し、家族とともに玉座の前へ進んだ。
四人は所定の位置で礼を取る。
「面を上げよ」
レオンハルト王の声が広間へ響く。エレノアたちはゆっくりと顔を上げた。
王はしばらく四人を見渡したあと、ローレンスへ視線を定めた。
「ローレンス・アシュフォード」
「はっ」
「前へ」
「承知いたしました」
ローレンスが一歩前へ出る。エレノアはその背中を見つめた。幼い頃より少し細くなった背。それでも今日、その姿は少しも弱く見えなかった。
ローレンスが王の前へ進むと、宰相が一巻の文書を開いた。
「国王レオンハルト・リーヴェル陛下の御名において、ここに宣する」
静かな大広間へ、声が明瞭に響く。
「ローレンス・アシュフォード、ならびにその家に連なる者たちは、このたびの王命遂行において、王国の安寧と民の未来へ多大なる功績を挙げた」
エレノアの胸が大きく鳴る。
「その功は一代の働きのみで成されたものではない。アシュフォード家が長きにわたり守り、受け継いできた学識と、それを未来へ繋いだ者たちの働きによるものである」
ローレンスの肩が、僅かに震えた。
爵位を失い、研究の場を奪われても、父が手放さなかったもの。
人に笑われても、価値がないと断じられても守り続け、娘へ託した知識。
それが今、王国の言葉によって認められている。
エレノアは唇を結ぶ。
「以上の功績を鑑み、アシュフォード家の名誉を回復し、その爵位を復するものとする。よって本日をもって――」
宰相はさらに続けた。
「ローレンス・アシュフォードにアシュフォード伯爵位を復す」
その言葉が響いた瞬間、エレノアには周囲の音が遠のいたように思えた。
――伯爵位を復す。
分かっていた。
今日、それを聞くためにここへ来たのだ。
けれど、実際に国王の裁可として宣言された瞬間、胸へ押し込めていたものが一気に込み上げた。
隣でフローリアが息を呑み、マーガレットは胸元で両手を重ねる。その瞳には、すでに涙が光っていた。
ローレンスだけは深く頭を下げたまま、しばらく動かなかった。
やがて。
「……謹んで、拝受いたします」
少し掠れた声。
それでも最後まで、アシュフォード家当主としての礼を崩さなかった。
レオンハルト王が頷く。法官が王家の印章が押された正式な証書を携えて前へ出た。ローレンスは両手でそれを受け取る。
失ったものと、まったく同じものが戻ったわけではない。過去へ戻ったわけでもない。
それでも、アシュフォードという家名が、再び王国の爵位録へ記される。
その事実だけで、エレノアの目元が熱くなった。
そしてレオンハルト王が静かに告げた。
「顔を上げよ」
「はっ」
ローレンスが顔を上げる。王は穏やかに、けれど広間のすべてへ届く声で呼んだ。
「アシュフォード伯爵」
ローレンスの瞳が、大きく揺れた。
何年ぶりだろう。父が、その名で呼ばれたのは。
エレノアの胸が熱くなる。
レオンハルトは続けた。
「そなたの家が失った年月を、余が返すことはできぬ。苦難がなかったことにもできぬ」
ローレンスは黙って王の言葉を聞いている。
「だが、その年月を越えてなお守り抜かれたものまで、失われていたとは余は思わぬ」
王の視線が、ローレンスからその後ろに立つ三人へ移った。
「そなたは家を守った。妻と娘たちもまた、そなたを支えた。そして、その家が守り続けた知識は、この国を救った」
ローレンスはゆっくりと振り返った。
マーガレット、フローリア。
そして、エレノア。
かつて自分の書斎で古代文字を教えた少女。いつしか自分より遠くまで、その知識を運んでいった娘。
ローレンスは再び王へ向き直り、深く頭を下げた。
「……ありがたきお言葉にございます」
今度の声は、先ほどより少しだけ震えていた。
続いてマーガレットとフローリアも王の前へ呼ばれた。
レオンハルトは、爵位を失ってからも家族を支え続けたマーガレットを労い、再び伯爵夫人としてその名を担うことを告げる。
フローリアが呼ばれた時には、緊張から少しだけ声が上ずった。
けれど王は穏やかに笑い、
「そう硬くならずともよい。そなたもまた、この家を支えた一人であろう」
と声を掛けた。フローリアは驚いたように目を見開く。
家に残って父と母を支え、姉の帰りを待った。その時間もまた、アシュフォード家を守ったものだった。
「……はい。ありがとうございます、陛下」
今度は、はっきりと答えることができた。
そして、
「エレノア・アシュフォード」
エレノアが前へ出る。
今日、この場で行われるのはまずアシュフォード家の復爵。エレノア個人への正式な褒賞は、後ほど改めて授けられる。
それでもレオンハルトは、しばらく彼女を見つめてから口を開いた。
「そなたには、後ほど改めて申すことがある」
「はい」
「だが、その前に」
王の表情が、少しだけ柔らかくなる。王の傍らでは、ベアトリス王妃も静かに微笑んでいた。
「まずは、家族の一人として受け取るがよい」
エレノアが目を瞬く。
レオンハルトは告げた。
「――おかえり、エレノア。アシュフォード伯爵令嬢として」
胸が、大きく鳴った。
――伯爵令嬢。
幼い頃は当たり前だった呼び名。失ってからは、もう二度と自分へ向けられることはないと思っていた。
けれど、それを取り戻した瞬間に胸へ浮かんだのは、かつての華やかな暮らしではなかった。
父と母、フローリア。旅をともにした仲間たち。そして、少し離れた場所から自分たちを見守るシリル。
目を向けると、彼は相変わらず静かな顔で立っている。
けれど、その青い瞳には隠しきれないほど穏やかな光があった。
エレノアが伯爵令嬢へ戻ったことを、父の名誉が取り戻されたことを、自分のことのように喜んでくれている。
そう思った。
エレノアは王へ深く頭を下げた。
「……ありがたきお言葉にございます」
声は少し震えていた。けれど、今はそれを隠す必要はないと思えた。
「この名に恥じぬよう、これからも努めてまいります」
レオンハルトは静かに頷いた。
法官による復爵証書の確認が終わり、アシュフォード家の爵位復帰が正式に成立した。
式の一区切りを告げる声が響く。
「アシュフォード伯爵家御一同、いったん控えの間へ」
その呼び方に、エレノアは思わず父を見た。
少し前までは、
――ローレンス・アシュフォード様。
そう呼ばれていた。
今は、
――アシュフォード伯爵。
たった一つの呼び名の違い。
それだけなのに。そこには、家族が歩いてきた長い年月すべてが横たわっているようだった。
アシュフォード伯爵家が並び大広間を出るため歩き始める。
近衛騎士団の前を通ると、リアナは目元を僅かに赤くし、オーウェンも珍しく穏やかな笑みを浮かべている。クラウディアとガレスが静かに頷き、ダリウスは胸へ掌を当てて最敬礼を取った。
それに続いて、シリルも胸へ掌を当てた。
エレノアはその前で、ほんの一瞬だけ歩みを緩めた。
目が合う。
青い瞳は、これまで見たことがないほど穏やかだった。
――よかった。
声にされなくても、そう伝わってくる。
エレノアは小さく微笑み、家族とともに大広間を出た。
◇
控えの間へ戻ると、扉が閉じた。その途端、四人の間へ不思議な沈黙が落ちる。
ローレンスは手にした証書を見つめたまま動かず、ほかの三人もまだ現実へ追いつけずにいた。
やがて、フローリアが小さく口を開いた。
「……お父様」
「何だ」
「本当に、伯爵様なのですね」
ローレンスが目を瞬く。
フローリアは慌てたように続けた。
「いえ、変な意味ではなくて……本当に戻ったのだと思ったら」
途中で声が震えた。
「……よかった」
その目から、一粒の涙が落ちた。
マーガレットはすぐ娘を抱き寄せた。
「ええ。よかったわね」
その声も、もう震えている。
エレノアの目元にも熱が集まった。
大広間では、最後まできちんとしていようと思っていた。けれど、家族だけになって、妹の涙と母の声を聞いた瞬間。
堪えていたものが、急に溢れそうになった。
「お母様……」
マーガレットが片腕を伸ばすと、エレノアもその胸へ寄り、フローリアと三人で抱き合った。
少し離れたところで、ローレンスがその様子を見ていた。
「お父様も」
フローリアが涙を拭きながら手を伸ばす。
「私はいい」
「駄目です」
「なぜだ」
「家族全員なのですから」
ローレンスは困ったような顔をした。けれど結局、ゆっくり三人へ近づいた。
マーガレットが夫の手を取る。エレノアも父の袖へそっと触れた。
四人が一つの輪になる。
大声で喜ぶでも、泣き崩れるでもない。ただ長い時間をともに耐えてきた四人が、互いがここにいることを確かめるように寄り添った。
しばらくして、ローレンスが静かに口を開いた。
「……私は、爵位を失った時」
三人が顔を上げる。
「お前たちから、多くのものを奪ってしまったと思った。暮らしも、将来も、本来なら娘たちが得られたはずのものまで、私のせいで失わせたのではないかと」
エレノアの胸が締めつけられる。
父がそんな思いを口にしたことは一度もなかった。それでもきっと、ずっと胸の内で背負っていたのだ。
ローレンスは手の中の証書を見た。
「今日、この紙を受け取った時。ほんの一瞬だけ、失ったものが戻ってきたと思った」
そこで首を横へ振る。
「だが、違った」
エレノアが父を見る。
「戻ったのではない。お前たちが、失った先で歩き続けて、ここまで来てくれたのだ」
そしてローレンスの視線が、まっすぐエレノアへ向いた。
「エレノア」
「……はい」
「お前が王命を受けた日、私は怖かった」
エレノアが目を見開く。
「お前を誇らしく思うよりも先に、危険な場所へ行かせることが怖かった」
ローレンスの目元が、ゆっくり和らいだ。
「けれど、お前は自分で選んで進んだ。私が教えた文字を読み、私には辿り着けなかった場所まで行った」
エレノアの瞳から、とうとう涙が零れた。
「お父様……」
ローレンスは少しだけ笑った。伯爵としてでも、研究者としてでもない。
ただ、娘を見る父の顔だった。
「エレノア」
はっきりと呼ぶ。
「お前は、私の誇りだ」
その言葉に、エレノアは何も返せなかった。
自分の方こそ、ずっと父を誇りに思ってきた。
研究を笑われても、爵位を失っても、身体を悪くしても、知識を手放さず、自分へ古代文字を教えてくれた父。
ずっと尊敬してきた父から、同じ思いを返してもらえる日が来るとは思っていなかった。
「……私も」
声が震える。
涙を拭っても、また溢れてくる。
それでも父を見た。
「私も、ずっとお父様を誇りに思っています。古代文字を教えてくださったことも、研究を諦めなかったことも……全部、お父様からいただいたものです」
エレノアは涙の中で微笑んだ。
「今日ここへ来られたのは、私一人の力ではありません。お父様が、ずっと知識を残してくださったからです」
ローレンスは何も答えず、ただ娘の頭へゆっくりと手を置いた。
幼い頃、勉強を褒められた時と同じ手だった。
「……大きくなったな」
「もう成人です」
「知っている」
「でしたら、今さらです」
「父親とは、そういうものだ」
エレノアは涙を浮かべたまま笑った。
マーガレットもフローリアも、同じように笑っている。
アシュフォード家は今日、伯爵家へ戻った。けれど、過去へ戻ったのではない。
爵位を失った日から家族四人で支え合い、それぞれが歩いてきた時間を抱えたまま、もう一度アシュフォードの名とともに前へ進むのだ。
やがて控えの間の外から、次の式典を知らせる足音が近づいてきた。
エレノアは涙を拭い、家族と顔を見合わせる。
胸には、父の言葉がまだ温かく残っていた。
――お前は、私の誇りだ。
きっと、生涯忘れない。
小さく微笑み、エレノアは家族とともに再び王の待つ大広間へ向かった。




