95話 以前と同じ、けれど 後編
95話 以前と同じ、けれど 後編
その日の夜、エレノアは自室の机へ向かっていた。
目の前には古代文明に関する本が開かれている。けれど同じ頁を何度読み返しても、内容が頭へ入ってこない。
午後からずっと、門前で馬車が止まる音や廊下を歩く足音が聞こえるたび、誰かから便りが届いたのではないかと耳を澄ませていた。
シリルへ手紙を送ったのは、家へ戻った翌日。
無事に帰宅したこと、家族も変わりなく過ごしていること、見送りへの感謝。そして、身体を大切にしてほしいということを綴った、短い手紙だった。
返事を求めるような内容ではない。
忙しいシリルが、必ず返書を寄越すとも限らない。怪我もまだ完治しておらず、第一隊長としての務めもある。返事を書く時間などないかもしれない。
分かっている。
それなのに、午後はずっと手紙のことを考えていた。
エレノアは、開いた本へ視線を落とした。
(私……お返事を待っているのね)
そう認めると、胸の奥へ少しだけくすぐったいような気持ちが広がった。
以前なら、誰かからの便りを、こんなふうに心待ちにしたことなどなかった。
けれど今は、シリルが何をしているのか、傷はどこまで治ったのかを知りたい。そして、会いたいとも思っている。
その気持ちに何という名をつければよいのか、エレノアにはまだはっきりとは分からなかった。
けれど、彼を大切に思っていることだけは、もう否定できない。
机の端には今日買った薄焼き菓子が一枚だけ残されていた。エレノアはそれを見つめ、小さく息を吐く。
「本当に、お好きなのかしら……」
今度会えたら、尋ねてみよう。
そう考えた時だった。
階下で扉が開かれる音がした。
続いて、誰かが玄関へ急ぐ足音。
エレノアは思わず顔を上げる。
そしてすぐに、自分の反応が少し可笑しくなった。
(また期待してしまったわ)
この時間に届くものが、必ずしも手紙とは限らない。近所からの使いかもしれない、父への連絡かもしれない。
それでも、胸の鼓動は少しだけ速くなっていた。
しばらくして、廊下を歩く足音が近づいてくる。
エレノアの部屋の前で止まり、扉に控えめなノックが響いた。
「お姉様」
フローリアの声だった。
「起きていらっしゃいますか?」
「ええ」
エレノアは椅子から立ち上がった。
「どうぞ」
扉が開く。
フローリアは一通の封書を、両手で大切そうに持っていた。
「先ほど、使者の方が届けてくださいました」
エレノアの呼吸が止まる。
封筒は上質な白い紙。
表には、端正で力強い文字で名前が記されている。
――エレノア嬢。
裏返すと濃紺の封蝋が施されていた。
刻まれているのは、ヴァルモント家の紋章。
胸が大きく鳴る。
「シリル様から……」
思わず零れた声に、フローリアの表情が明るくなる。
「やっぱり、あの方からなのですね」
「やっぱり?」
「お姉様、今日も何度も玄関の方を気にしていらしたでしょう?」
「そ、そんなに?」
「はい」
きっぱり答えられ、エレノアは頬へ熱が集まるのを感じた。
否定しようとして、やめた。
実際、待っていたのだから。
エレノアは封書を受け取る。
「届けてくれて、ありがとう」
「はい」
フローリアはすぐに部屋を出ようとした。けれど、扉の前で振り返る。
「お返事の内容、明日教えてくださいね」
「教えません」
「どうしてですか?」
「私に宛てられたお手紙ですから」
「では、良い内容だったかだけでも」
「フローリア」
少し強く名を呼ぶと、妹は笑いながら扉を閉じた。
一人になった部屋でエレノアは改めて封書を見る。
濃紺の封蝋とシリルの文字。
それだけで、自然と口元が緩む。
彼が返事をくれた。
忙しい中、自分へ。
そのことが純粋に嬉しかった。
エレノアは慎重に封を開くと、中には一枚だけ便箋が入っていた。それに思わず微笑む。
いかにもシリルらしい、無駄のない短い手紙。
灯りの下へ広げ、一行目からゆっくりと目で追う。
―― エレノア嬢
――無事に帰宅したとの知らせを受け、安堵した。
――私の傷はほぼ回復している。
――昨日の診察で、軽い訓練なら再開してよいと許可が出た。
エレノアの口元が、さらに緩む。
自分が何を心配しているのか、きっと分かっていたのだろう。尋ねていないのに、怪我のことも記してある。
「では、本当に順調なのですね」
小さく呟く。それだけで、胸へ溜まっていた心配が少しほどけた。
続きへ視線を移す。
――先日伝えたことについては、もう少しだけ待ってほしい。
胸が、小さく跳ねた。
王命を解かれた日。近いうちに時間をもらいたいと、シリルは言った。
船着場でも、
『すぐに会う。』
そう告げてくれた。
……忘れていなかった。
エレノアはほんの少しだけ息を整えて、最後の一文へ視線を移す。
――必ず、私から迎えに行く。
「……迎えに?」
思わず、声へ出ていた。
エレノアは一度瞬きをしてもう一度、その文章を読む。
やはり、そう書いてある。
(迎えに行く……?)
話をするだけなら、邸を訪ねてくれるものだと思っていた。けれど「迎えに行く」ということは、そのあと、どこかへ向かうのだろうか。
王城へ――とも考えたが、それならシリル自身が迎えに来る必要はない。
(では、どこか別の場所で、お話をなさるのかしら)
考えてみるが、もちろん答えは出ない。
ふと、別の可能性が浮かんだ。
(……『訪ねに行く』と、お書きになるつもりだったのかしら)
シリルなら、絶対にないとは言い切れない。長い手紙を書くことには、あまり慣れていなさそうだ。
エレノアは思わず小さく笑った。けれど、もう一度最後の一文を見る。
――必ず、私から迎えに行く。
書き間違いかもしれないし、本当にどこかへ連れて行くつもりなのかもしれない。何を話すつもりなのかも、まだ分からない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
シリルは自分から会いに来るつもりでいる。
王命だからではなく、護衛任務でもなく、彼自身の意思で。
その事実へ気づいた瞬間、胸の奥へ、ゆっくりと温かなものが満ちていった。
「……はい。楽しみにしております」
誰も聞いていないのに、エレノアは便箋へ向かって小さく答えた。
そう口にするとなぜか、それまでよりも素直な気持ちになれた。
明日は、父の資料整理を続けよう。次の授業ではフレデリカへ何を教えようか考えたい。母と庭の花も見たい。フローリアとは、菓子を巡ってまた何か言い合うかもしれない。
エレノアは手紙を丁寧に折り直した。そして自分の机の、一番大切なものを収める引き出しへしまう。
以前と同じ日常。
家族と暮らし、教え子へ歴史を教え、見慣れた街を歩く。
その時間は王城へ行く前と同じようで、もう、まったく同じではない。
大切な人が増え、会いたいと思える場所も増えた。
自分の世界が少しだけ広くなったのだ。
エレノアは窓辺へ立った。
遠く、夜の王城にはいくつもの灯りが点っている。あのどこかで、シリルも同じ夜を過ごしているのだろう。
すぐに会えなくても、もう寂しさばかりを感じることはなかった。互いにそれぞれの日々を過ごし、その先でまた会えるのだと思えば、離れている時間も以前ほど心細くはない。
エレノアは窓を閉じ、明日のために机の上の本を片づける。
記録作成のために王城へ行く日には、リアナたちとの約束どおり近衛騎士団へも顔を出そう。皆と話をして、それから――。
(シリル様にも……お会いできたら)
そこまで考えて、エレノアは少しだけ頬を染めた。けれどもう、その気持ちを慌てて打ち消すことはしなかった。
会えたら嬉しい。
王命がなくても、護衛という理由がなくても、そう思ってよいのだと今は知っている。
もしシリルに会えたなら、あの薄焼き菓子が好きか、聞いてみよう。
そんな小さな楽しみを胸に、エレノアは灯りを落とした。
以前と同じように始まった日常には、いつの間にか、次に会える日を待つ甘い楽しみが一つ増えていた。




