86話 未来へ流れる水
86話 未来へ流れる水
王城の極秘会議室には、この任務に関わった者たちに加え、宰相をはじめとするごく少数の重臣だけが集められていた。
エレノアとシリルが入室すると、一同の視線が二人へ向けられ、とりわけ包帯の巻かれたシリルの右腕へ集まった。
ダリウスが短く尋ねる。
「傷は」
シリルは口を開く。
「問題――」
そこで言葉を止めた。
すぐ隣にいるエレノアへ、ほんの一瞬だけ視線を向ける。
「……回復は順調です」
ダリウスの眉が僅かに動いた。
オーウェンは何かを堪えるように口元へ拳を当て、リアナも事情を察したように目を細めた。
エレノアは頬へ熱が集まるのを感じながら、何も言わず席へ着いた。
全員が揃ったことを確認すると、レオンハルト王が静かに口を開く。
「会議を始める」
重く落ち着いた声が、室内へ響いた。
「まずは、各地の水源について届いた最初の報告を聞こう」
王の視線を受け、エリオットが一礼する。
円卓の上には、幾つもの報告書と、王国全土を示した地図が用意されていた。
「昨夜から今朝にかけ、まず王都および王都近郊の観測地点から、相次いで報告が入っております」
エリオットは一枚目の報告書を開いた。
「王都北西部の共同井戸では、低下を続けていた水位が僅かに上昇しました。城外東部を流れる支流でも、今朝の観測で流量の増加が確認されています」
エレノアの指先が、膝の上で小さく動く。
「さらに、王都からほど近い南方の二つの集落からも、枯れかけていた井戸へ水が戻り始めたとの報告が届いております」
会議室の空気が、僅かに変わった。
期待と安堵。そして、まだ信じきれないほどの驚きが、一同の表情へ静かに広がっていく。
エリオットは地図へ三つの印を付けた。
「遠方の領地については、まだ報告を待っている段階です。しかし少なくとも、王都周辺では、調律以前とは明らかに異なる変化が確認されています」
まだ王国全土から報告が揃ったわけではない。遠い領地の状況が分かるには、さらに数日かかるだろう。
井戸が満ちたわけでも、川が以前の水位へ戻ったわけでもない。一度乾いた農地が、すぐに蘇ることもない。
それでも、これまで水量は衰える一方だった。
どれほど対策を講じても、配給を行って耐えても、一度減った水が増えたという知らせはただの一件もなかった。
その流れが初めて、逆へ向かい始めている。
宰相は、一枚ずつ報告書へ目を通した。
「誤報の可能性は」
「各地で複数の者が確認しております」
エリオットは即座に答える。
「王都近郊の観測地点へも人員を送り、同様の変化を確認いたしました。昨日まで低下を続けていた水位が、調律後初めて上昇へ転じています」
その一言が、静かな会議室へ深く落ちた。
レオンハルト王は、地図の上へ増えた印を見つめていた。やがて、深く息を吐く。
「……届いたのだな」
地下で見た巨大な水路装置。淀みを失い、四方へ流れ始めた無数の水路。
それが、遥か地上にいる人々のもとへ、確かに届いた。
エレノアは胸元へ手を添えた。
巨大水路装置が本来の力を取り戻したことは、自分の目で見ていた。けれど、それはあまりにも大きく、あまりにも現実離れした光景だった。
本当に王国各地へ繋がっているのか。どこか、夢を見ていたような感覚さえ残っていた。
だが今、地図に記された一つ一つの土地で井戸へ水が戻り、枯れかけた川が再び流れ、人々の暮らしへ命が届き始めている。
自分たちが成し遂げたことは、伝説ではない。古代の歴史の中だけにあるものでもない。
地下で繋いだ水は今、確かにこの国を生きる人々の命へ届き始めている。
「私たちが地下で見た水は……本当に、人々のもとへ届き始めているのですね」
エレノアがそう口にした途端、声が僅かに震えた。
レオンハルト王の深青の瞳が向けられる。
「これで……この国を、救うことができるのですね」
その言葉を口にした瞬間、長いあいだ胸の奥へ張り詰めていたものが、静かにほどけていった。
最初に王命を受けた日。自分に何ができるのかも分からず、ただ古代文字を読まなければならないという、その責任を抱えていた。
何度も恐怖を覚えた。
自分にはできないのではないかと、立ち止まりそうになった。
それでも。仲間たちに支えられ、ここまで辿り着いた。
エレノアは、隣の席へ視線を向ける。
シリルもまた、彼女を見ていた。
言葉はない。青い瞳が、ごく僅かに細められる。それだけで十分だった。
エレノア一人が救ったのではない。誰か一人の力でもない。
過去の者たちが残した知識を今を生きる者たちが受け取り、皆で力を合わせて、未来へ水を繋いだのだ。
レオンハルト王は、ゆっくりと一同を見渡した。
「皆の働きによって、この国は救われた」
低く、穏やかな声だった。
「心より感謝する」
ダリウスが胸へ掌を当てる。ガレスをはじめ、近衛騎士たちも一斉に続いた。
「もったいなきお言葉」
ダリウスの声が、全員を代表するように響く。
エレノアとアルヴィンも深く頭を下げた。
しばらくの静寂のあと、レオンハルトは表情を引き締める。
「次に、巨大水路装置と記憶石の扱いについて決定する」
空気が再び変わる。
王は円卓へ置かれた地図から顔を上げた。
「巨大水路装置の存在。各地の遺跡へ還った四枚の石板とその真の役割。星環の祭壇から続く地下通路。そして、記憶石に残されたすべての記録」
一つずつ、明確に告げる。
「これらを、本日より国家最高機密に指定する」
誰も異論を挟まなかった。
「存在が外部へ漏れれば、国内外を問わず、これを手に入れようとする者が現れるでしょう」
宰相が静かに続ける。
「広大な地域の水の流れを左右する装置です。たとえ本来は民を救うために守られてきたものであっても、使う者によっては、国一つの命脈を握る力になり得ます」
記憶石で見た過去が、脳裏へ蘇る。
水を巡って争い、滅びた歴史。巨大水路装置を独占すれば、誰か一人だけを富ませることも、奪うこともできる。
だからこそ、資格が必要だった。
すべての民の未来を背負う者。水を、自分だけのものにしない者。
レオンハルトは重く頷く。
「星環の祭壇および周辺の森は、王家直轄の禁足地とする」
「はっ」
ダリウスが応じる。
「記憶石の内容については」
アルヴィンが慎重に尋ねた。
歴史家である彼にとって、あの映像は、生涯を懸けても研究し尽くせないほどの真実だっただろう。
それでも、その瞳には公表を求める色はない。今はまだ、世へ出すべきではないと理解している。
「すべて記録する」
レオンハルト王は答えた。
「ただし、記憶石から書き起こした正本は王家と近衛騎士団が共同で管理し、閲覧者を限定する。事実そのものを消し去るつもりはない」
「ですが、今すぐ公にもしないということですね」
「そうだ」
王は静かに記憶石の映像を思い返すように目を伏せた。
「知識は、人を救う。だが、正しく受け継がれなければ、争いの種にもなる」
建国王が未来へ残した知識。それでも二十年遅れた調律。
知識はただ残せばよいわけではない。
正確な意味と、受け継ぐべき責任を伴ってこそ、未来を救うことができる。
「二千年後、我らと同じ危機が再び訪れる可能性がある」
王の言葉に、全員が顔を上げた。
「その時、今度こそ知識を失わせてはならない。管理の仕組みを新たに整える」
エレノアは、ヴァレシア建国王の姿を思い出した。
未来へ知識を残そうとしながら一人で背負い。伝え終える前に急逝した王。
その悲劇を、繰り返してはならない。
「古代文字による記録だけでなく、現代語でも詳細を残すべきです」
エレノアが静かに進言すると、王の視線が向けられた。
「申してみよ」
エレノアは立ち上がる。
「古代文字は、時代とともに読める者が失われる可能性があります。私が読めるからといって、次の時代にもヴァレシア文字を読める者がいるとは限りません」
一度言葉を切り、円卓に置かれた報告書へ目を落とす。
「ですから、現代語による記録を複数作成し、異なる場所へ保管する必要があると思います。巨大水路装置の存在や場所は厳重に秘匿しながらも、調律の時期とそのために必要な知識だけは、決して意味を失わない形で残すべきです」
アルヴィンも頷いた。
「一つの王家や家系だけに依存しない継承制度が必要ですね」
エレノアも首を縦に振る。
「はい。知識を守る者が途絶えても、別の場所に残された記録から、再び真実へ辿り着けるように」
それこそ、ヴァレシア建国王が遺跡へ断片を残した理由でもあった。
「採用する。エレノアとアルヴィンを中心に、記録の作成へ取りかかれ」
レオンハルトは迷いなく告げた。
「王家だけへ託すのではない。王家、近衛騎士団、そして学術を担う機関。それぞれに必要な記録を残す。具体的な保管と継承の方法については、改めて定める」
王はエリオットへ視線を向けた。
「エリオット。関係各所と協議できるよう、案をまとめよ」
「承知いたしました」
三人が一礼する。
続いて宰相が尋ねた。
「国民へは、どのように発表いたしますか」
王は一度、窓の外へ視線を向けた。
白亜の王都。朝の光を受けて輝く運河。
そこに暮らす人々は、自分たちの足元で何が起きたのか知らない。
四千年の歴史も、滅びた王国の願いも、巨大な装置も。それらを知ることはない。
それでも、水が戻ったことは、必ず伝えなければならない。
「王命による水源調査が成功した、と発表する」
レオンハルトは答えた。
「各地の水量は回復へ向かっている。ただし、完全な回復には時間が必要であり、当面は節水と配給を継続するよう伝えよ」
「承知いたしました」
「巨大水路装置と記憶石については、一切公表しない」
決定が下される。
人々が知るのは、王命による調査が成功し水が戻り始めた、ということだけ。
だが、それでよいのかもしれない。
名も知られぬ先人たちも、自分たちの功績を讃えられるために水を繋いだのではない。未来の誰かが生きられるように、ただそのために役目を果たした。
エレノアたちも、同じだった。
窓の外では、朝の光を受けた運河が穏やかに流れている。
遥かな過去から託された水は今、王都を越え、遠い土地で生きる人々のもとへ、そしてまだ見ぬ未来へ向かって、絶えることなく流れ続けていた。




