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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第五章

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84話 受け継ぐ者たち

84話 受け継ぐ者たち




目にした光景の一つ一つが、まだ誰の胸からも消えていなかった。


レオンハルト王が、深く息を吐いた。


「……四千年か」


低い声が、広大な地下空間へ落ちる。


「これほど多くの者が、自らは見ることのできぬ未来のために、この水を繋いできたのだな」


返事をする者はいなかった。


どのような言葉を返しても、今しがた目にした四千年の歴史の前では、あまりにも軽くなってしまう気がした。


普段は揺るがぬダリウスでさえ、長い間、記憶石から目を離さなかった。

やがて、わずかに目を伏せる。


「……我々は、途方もない歴史を見届けたのだな」


過去には王国最強と称され、どのような危機の中でも冷静さを失わない騎士。その彼が口にした短い一言には、畏れにも似た重みがあった。


ガレスも巨大な水路を見渡す。


「……はい」


簡潔な返答だが、その表情はいつもより深く引き締まっている。自らが『信頼』を担い、調律を行った意味を、改めて噛みしめているのだろう。


クラウディアは静かに胸元へ手を添えた。オーウェンたちも言葉を失ったまま、遠くへ流れていく水を見つめている。


そしてアルヴィンは顔を伏せ、目元を指で押さえていた。


「史書に残る、どの歴史よりも……尊い記録です」


絞り出すような声だった。その肩が僅かに震える。


「王の名も、国の名も残らなかった人々が、ただ未来へ水を残すためだけに、何千年も役目を受け継いできた」


アルヴィンは記憶石を見上げる。


「こんな真実が……何千年もの間、誰にも知られず眠っていたなんて」


歴史家として、彼がどれほどこの記録の価値を理解しているのか、エレノアにも分かった。


けれどそれは、学術的な価値だけではない。


記録の中で生きていた人々。未来を信じ、知識を残し、結果を見届けられないまま、役目を果たした者たち。


その思いが、時を越えて胸へ迫っていた。


エレノアは記憶石を見つめた。

光を失った巨大な石は、今は何も映していない。ただ静かに、装置の中枢へ浮かんでいる。


「文字だけでは……ここまで伝えられなかったと思います」


皆の視線がエレノアへ集まる。


「建国王が、どんな思いで人々へ水を分けたのか。最後の四人が、間に合わないと知った時、どれほど悔しかったのか」


彼女は記憶石から目を離さず静かに続けた。


「それでも未来のために、最後まで調律をやめなかったことも」


文字として記されていれば、事実は知ることができる。

けれど、震える手も、絶望の中でなお前を向いた表情も、その声に込められた願いまでは残せない。


エレノアの翡翠色の瞳に再び涙が滲んだ。


「記憶石は、すべて残していたんですね」


――真実は石に刻まれる。


石に刻まれていたのは言葉だけではない。


生きた人々の姿、声、選択。そして、その時代を生きた者たちが、確かに抱いていた思い。


歴史そのものだった。


エレノアは、胸元で両手を重ねた。


「……本当に、石へ刻まれていたのですね」


誰に聞かせるでもない、小さな呟きだった。




シリルはその横顔を静かに見つめていた。


彼女の頬を伝った涙へ手を伸ばすことはしない。


任務の最中で、王や仲間たちがいる。


ただ、エレノアのすぐそばへ立ち。誰にも遮られない位置から、黙って見守っていた。




やがて、レオンハルト王が一歩、記憶石へ近づいた。


ガレスとクラウディアが反射的に動こうとする。だが、王は僅かに手を上げて制した。危険がないことは、もう分かっている。


レオンハルトは巨大な記憶石と、その向こうで流れ続ける水へ向き直った。


そして。


静かに頭を下げた。


王が、誰も名を知らぬ者たちへ。


深く、一礼した。


「名も知らぬ先人たちよ」


その声が水音へ重なる。


「我らは、確かに受け継いだ」


それは王としての誓いであると同時に。


遥かな過去から命を託された、一人の人間としての言葉だった。


「あなた方が未来へ繋いだ水も、知識も、その願いも。決して、再び失わせはしない」


その背後で、ダリウスが、静かに胸へ掌を当てた。近衛騎士が捧げる、最も深い敬意の礼。


ガレスが続く。

クラウディア。

シリル。

オーウェン。

リアナ。

その場にいた全ての近衛騎士たちが、同じように胸へ掌を当て、頭を垂れた。


誰一人先人の名を知らない。

それでも、自分たちが今ここに立てているのは、彼らが未来を諦めなかったからだ。


エリオットも、アルヴィンも、そしてエレノアも、遠い過去を生きた者たちへ深く一礼する。


巨大な地下空間に歓声はなかった。勝利を誇る声もない。

ただ、遥かな時を越えて命を繋いだ者たちへ捧げる、静かな敬意だけが満ちていた。


その時。


記憶石の内側に、淡い光が一度だけ灯った。先ほどのように映像を映すほど強くはない。

柔らかく微かな光。


まるで、その礼を受け取った誰かが、遥かな過去から応えたようだった。


やがて光は消え、記憶石は再び長い沈黙へ戻っていった。


調律を終えた巨大水路装置は、淀みなく王国各地へ水を送り出している。記憶石も沈黙している。


彼らがここで成すべき役目は、果たせたのだ。





しばらくして、ダリウスが顔を上げた。


「帰還する」


いつもの簡潔な声。その言葉によってようやく一行は現実へ引き戻された。


「はっ」


返答は大きくなかった。けれど、静かに一つへ重なった。


一行は中央の足場を離れ来た道へ向かう。


エレノアのすぐそばには、シリルがいた。

いつもの半歩前の位置。

右腕には止血布が巻かれ、左肩にも痛みが残っているはずだった。それでも、何かあればすぐに彼女を支えられる距離から離れない。


エレノアは何度か、シリルの腕へ視線を向けた。止血布にはもう新しい血はほとんど滲んでいない。それでも痛みが消えたはずはない。


「痛みませんか」


歩きながら小声で尋ねる。


「問題ない」


予想どおりの答えだった。

エレノアは僅かに眉を下げる。


「問題ない、は禁止にしたいくらいです」


シリルが彼女へ目を向ける。


「禁止?」


「はい。シリル様はどれほどお怪我をされても、そうおっしゃいますから」


「動ける」


「動けることと、痛くないことは違います」


シリルは答えなかった。

図星なのだろう。


エレノアは少しだけ歩調を落とす。彼もそれに気づき、無言で速度を合わせた。


「王城へ戻りましたら、必ずもう一度診ていただいてください」


「ああ」


「本当にですよ」


「分かった」


今度の返答には僅かな諦めが混じっていた。


エレノアはようやく小さく息を吐く。


「よかったです」


その声に、シリルの表情がほんの僅かに和らいだ。


「君もだ」


「え?」


「診察を受けろ」


「私は大丈夫です」


今度はシリルの眉が寄った。


「問題ない、は禁止ではなかったのか」


思いがけない返しに、エレノアは目を瞬いた。


やがてその意味を理解して、少しだけ頬を膨らませる。


「……それは、シリル様に対してです」


「同じだ」


エレノアは困ったように彼を見上げた。けれどそのやり取りが、妙に嬉しかった。


ほんの少し前まで、自分たちは四千年の歴史を前にして言葉を失っていた。水路へ落ちかけ、互いを失う恐怖も味わった。


それでも今、二人で並んで歩き、互いの傷を心配することができる。

その当たり前の時間がどれほど尊いものなのか。

今のエレノアには、よく分かった。


「では二人とも、きちんと診ていただきましょう」


「ああ」


エレノアが小さく微笑むと、今度はシリルも素直に頷いた。




巨大水路装置の出口へ向かう通路へ入る直前。


エレノアはふと足を止める。


背後では巨大な輪が静かに回り続け、無数の管を満たした水が青白い光を帯びながら四方へ流れていく。


ここを出ればこの光景を再び目にする日は、もう来ないかもしれない。


巨大水路装置の存在は、国家の行く末を左右する。簡単に立ち入ることのできる場所ではない。記憶石もまた、次に目覚めるのがいつになるのかは分からない。


エレノアは、もう一度だけ振り返った。


気づいたシリルも足を止める。先を進んでいた一行との距離が、少しだけ開いた。


「どうした」


「……もう一度だけ、見ておきたくて」


シリルは何も言わなかった。

先を急かすことも、振り返る必要はないと告げることもない。

ただ、エレノアの隣へ並んだ。


二人で巨大水路装置を見つめる。


何千年も前から流れ続けてきた水。幾つもの国を生み、多くの命を救い、一度は歴史の中へ埋もれながら、今、再び本来の流れを取り戻した。


「守られてきたんですね」


エレノアが静かに呟く。


「ずっと」


管理を続けてきた一族。ヴァレシア建国王。最後の四人。そして、名前すら残らなかった無数の人々。


誰か一人ではない。長い時の中で、幾人もの者が受け継いできたからこそ、この水は現代まで残った。


「ああ」


シリルの短い返事が隣から届く。


エレノアは水の流れを見つめたまま、胸元で手を重ねた。


「今度は……」


言葉を選ぶように、僅かに間を置く。


「私たちの番ですね」


受け取った真実を、再び失わせないこと。巨大水路装置を守り、二千年後の未来へ正しい知識を残すこと。


そして。


この水を、国に生きるすべての人々へ繋いでいくこと。




シリルはエレノアへ視線を向けた。横顔には、まだ涙の跡が僅かに残っている。それでも、その翡翠色の瞳は真っ直ぐ未来を見つめていた。


最初に出会った頃、彼女は失われた文字を読める令嬢であり、王命を果たすために守るべき重要人物だった。


けれど今は違う。


誰よりも真実へ向き合い、受け取った知識を自分だけのものにせず、未来へ渡そうとする人だ。


その隣で、


これから先も同じ未来を歩きたい。


胸の内に秘めてきた決意が、静かに、けれど確かなものへ変わっていく。




「そうだな」


シリルは静かに答えた。


それだけだった。けれどその声には任務の役割を越えた、揺るぎない意思が込められていた。


エレノアは柔らかく微笑んだ。


「参りましょうか」


「ああ」


少し先では仲間たちが立ち止まり、二人を待っていた。エレノアとシリルは並んで歩き出す。





地下通路を抜け、星環の祭壇へ続く階段を上る。地上へ近づくにつれ、空気が少しずつ変わっていく。


冷たい石と水の匂いから。


土と苔、木々の香りへ。


やがて、先頭を進んでいたダリウスが祭壇の外へ出た。続いて一人、また一人と、一行は地上へ戻っていく。


最後の一人が階段を上り切った、その直後だった。


――ゴォン


祭壇の奥から、低い響きが伝わる。祭壇の中央では、地下へ続く階段がゆっくりと閉じ始めていた。


四つに分かれていた石床が元の位置へ戻り。長い年月と同じように、入口を静かに覆い隠していく。


やがてそこには、円形の古い祭壇だけが残った。その地下で、王国の命を支える巨大な装置が今も動き続けているなど、誰も想像できないだろう。


森の木々の隙間から、夕陽が差し込んでいた。地下へ入った時より、空は大きく傾いている。


風が吹き、葉が揺れ、鳥の声が聞こえる。当たり前の地上の音。


それが、どこか懐かしく感じられた。







森を抜けた先の丘の向こうには、夕陽を受けて輝く白亜の王都が見えている。


その街を巡る運河の水は、地上から見ただけでは以前と何も変わらない。


けれどその流れの遥か下では。


調律を終えた水が確かな力を取り戻し、王国の隅々へ向かって流れ始めていた。


過去から未来へ。


絶えることなく。


命を繋ぐように。

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