66話 水が示す先
66話 水が示す先
しばらくして、エレノアは濃紺の外套の陰でゆっくりと涙を拭った。
何度か呼吸を整えてから顔を上げると、目元にはまだ赤みが残っていたものの、涙はもう止まっていた。
「……申し訳ありません。」
外套の前を両手で押さえたまま、小さく頭を下げる。
「皆様の前で、取り乱してしまって……。」
ガレスは静かに首を横へ振った。
「謝る必要はない。」
その声音には咎める響きなど少しもなく、ただ彼女の思いを受け止める温かさがあった。
リアナも柔らかく微笑む。
「当然の涙です。長い間、信じ続けてこられたことですもの。」
クラウディアも穏やかに続けた。
「恥じる必要などありません。」
「……ありがとうございます。」
エレノアは胸の奥へ染み込んでいく言葉を噛み締め、もう一度だけ頭を下げた。
オーウェンは何も言わなかった。いつものように場を和ませる冗談を口にすることもなく、ただ少し照れくさそうに視線を逸らしている。それもまた、彼なりの気遣いなのだと分かった。
シリルも何も言わず、エレノアの肩からずれかけていた外套を静かに掛け直すと、いつものように半歩前へ立った。
慰めの言葉を重ねることも、涙の理由を尋ねることもない。ただ彼女が再び前を向けるまで、変わらずそばにいる。それがシリルの優しさだった。
気持ちを落ち着けたエレノアは、改めて隠し部屋の中へ目を向けた。
黒い石と青みを帯びた金属で作られた水路装置。幾重にも組み合わされた輪。透明な管の中を絶えず巡る、澄み切った水。
そこから伸びる細い水路は壁の奥へ消え、どこまで続いているのか分からない。
父ローレンスが生涯に渡り存在を信じた、地下水路網の仕組みの一端が、確かに目の前にある。
その事実を胸へ刻むように、一つひとつを見つめていた時だった。
装置の手前にある黒い台座へ視線が止まる。
「……あれは。」
エレノアはゆっくりと近づいた。シリルもすぐ隣へつき、先に台座の周囲と床の継ぎ目を確かめる。 異変がないことを確認したあと、わずかに身体を引いて道を譲った。
台座の中央には、四角い窪みが刻まれていた。エレノアは触れないように注意しながら、その形を目で追う。
縦と横の長さ、厚み、わずかに斜めに削られた四つの角も、すべて見覚えがあった。
「石板と……同じです。」
ガレスが隣へ立ち、窪みを見下ろす。
「先ほどの石板を納めるための場所か。」
「おそらく。」
エレノアは慎重に頷いた。
「大きさも形も一致しています。」
ガレスは装置と台座を見比べる。
「碑文の流れから見ても、その可能性は高い。慎重に納めるぞ。」
「はい。」
返事をすると、第四の石板を抱えていたオーウェンが一歩前へ出た。その両腕の中にあるのは、信頼の試練を越えた先で授けられた黒い石板。
オーウェンが台座の前へ立つ。
「置きます。」
ゆっくりと腰を落とし、黒い石板を窪みへ近づけていく。
石と石が触れる寸前。石板は、見えない力に引かれたかのように、僅かにオーウェンの手を離れた。
「……っ!」
そのまま、ぴたりと窪みへ収まる。
――カチリ
小さな音が響いた。その直後、装置の内部から、低い水音が生まれた。
最初は、どこか遠くで水が流れ始めたような微かな音だった。
だが次第に近づき、部屋全体へ広がっていく。
「動きます。」
エレノアが息を呑む。
透明な管の内側へ、淡い蒼の光が灯った。だが、水の流れそのものが大きく変わったわけではない。
光は台座から装置の中心へ伝わり、幾重にも重なる輪を一つずつ通過していく。
一つ目の輪が、ゆっくりと半周する。続いて二つ目。三つ目。
それは装置そのものを本格的に起動させているというより、石板を認識し、どこか遠くへ送り出しているようにも見えた。
誰も声を発することなく、数千年もの時を越えてなお動く古代の装置を、ただ息を詰めて見つめていた。
「本当に……動いている。」
オーウェンが呟く。普段の彼らしからぬ、畏れを含んだ声だった。
エレノアも目を離すことができない。
父が論文の中で考察した装置。古代ヴァレシアの大地へ水を巡らせる巨大な仕組み、その一部なのかもしれない。
それが今自分たちの目の前で、確かに動いている。
装置の中心へ集まった蒼い光が一際強く輝いた。やがて光は一本の細い水路へ流れ込み、部屋の奥にある岩壁へ向かって走っていく。
壁の中へ、さらにその先へ。どこまでも遠くへ伸びていくように、光は吸い込まれていった。
「どこへ……。」
エレノアの呟きに答えられる者はいない。
知恵の祠の浮き彫りに残されていた装置と関係があるのか。何のための装置なのか。どこへ繋がっているのか。今の作動によって、何が動き始めたのか。
まだ、誰にも分からない。
蒼い光は数十秒ほど流れ続けた。やがて次第に弱まり、金属の輪も一つずつ速度を落としていく。
最後の輪が止まり、部屋には再び静かな水音だけが残った。
「……終わったのか?」
オーウェンが装置を見つめたまま尋ねる。
エレノアはゆっくりと首を横へ振った。
「分かりません。」
「起動したのか。」
ガレスが低く呟く。
「それとも、何らかの役目を終えたのか。」
「私にも判断できません。」
悔しさが、胸へ小さく刺さる。
古代文字を読むことはできる。父の論文と照らし合わせ、この装置が地下水路に関係するものだと推測することもできる。
けれど、それだけだ。
何のために作られ、どのような仕組みで動き、今何をしたのか。
そこまでは分からない。知識が足りない。古代文字が読めるというだけでは、まだ真実へ届かない。
だが、星鏡庭園で学んだ教えが胸に蘇る。知識は万能ではない。すべてを知らないことを認め、それでも学び続ける者に知恵は宿る。
分からないのなら、これから調べればいい。
エレノアは静かに息を整え、装置を見つめ直した。
ガレスもまた、軽率に結論を出すことはしなかった。
「未知の遺跡だ。これ以上、不用意に触れるべきではない。」
「はい。」
全員が頷いた。その時だった。
台座へ収まった黒い石板の表面に、淡い光が浮かび上がる。
「文字が……。」
すぐにシリルが先へ出て、台座に異変がないことを確認した。
「問題ない。」
「ありがとうございます。」
エレノアは石板の前へ立つ。黒い石板の表面へ、文字が一文字ずつ浮かび上がっていた。
最初は淡く。やがて蒼い光を帯び、はっきりと形を成していく。
エレノアは文字を追った。短い文章だった。けれど読み進めるほど、胸の奥に新たな緊張が広がっていく。
「ヴァレシア文字です。読めます。」
仲間たちの視線が集まる。
エレノアは、浮かび上がった言葉を静かに読み上げた。
「――『鍵は揃った』」
「――『在るべき処へ、還せ』」
声が消えると、石室へ深い静寂が落ちた。
水音だけが、言葉の余韻を運ぶように響いている。
「……それだけです。」
ガレスが石板を見つめる。
「説明はないのか。」
「はい。」
エレノアは首を横へ振った。
「何が“鍵”なのかも。」
石板へ視線を落とす。
「“在るべき処”が、どこを指しているのかも記されていません。」
「鍵は揃った……。」
クラウディアが静かに繰り返す。
「四枚の石板のことでしょうか。」
「可能性は高いと思います。」
エレノアは答えた。
第一の資格の石板、第二の知恵の石板、第三の勇気の石板、そして第四の信頼の石板。
四枚を集めることが“鍵を揃える”ことを意味するのなら、次に求められているのは、それらを“在るべき処”へ納めることなのだろう。
だが、その場所はどこなのか。
知恵の祠の壁画に描かれていた、四つの窪みを持つ円形の装置。その周囲には、大地を巡る水の流れが刻まれていた。そして先ほど、どこか遠くへ流れていった蒼い光。
これまで別々に見えていた手掛かりが、ようやく一本の線として繋がり始めている。
けれど、まだ答えには届かない。
淡く光っていた文字は、役目を終えたように一文字ずつ消えていった。最後の光が失われ、黒い石板は再び沈黙した。
ガレスはしばらく考え込んだあと、決断する。
「石板は回収する。王城へ戻り、これまでの資料と照合する。ここで推測を重ねるより、安全な場所で調べた方がいい。」
「私も、そう思います。」
オーウェンが台座の前へ進むと黒い石板の両脇へ手を添え、慎重に力を加えた。
初めは窪みへ固定されているような、わずかな抵抗があった。しかし少し持ち上げると。
――コトリ。
小さな音を立て、石板は静かに台座から離れた。
「外れました。」
その瞬間、全員が装置へ視線を向ける。
だが、変化は起きなかった。
蒼い光が戻ることも、止まった輪が再び動き始めることもない。水は変わらぬ速さで管を巡り、部屋には穏やかな音だけが響いていた。
「……持ち出しても問題はないようですね。」
エレノアが小さく呟く。
ガレスは頷いた。
「撤収する。」
疲労はすでに積み重なっている。遺跡の中で長く留まる理由はない。
「オーウェン。石板を頼む。」
「了解。」
オーウェンは石板を布で包み、両腕で大切に抱え直した。クラウディアとリアナが周囲を確認し、隊列を整える。
シリルはエレノアへ視線を向けた。
「歩けるか。」
「はい。」
まだ目元には少し熱が残っている。だが、足取りに不安はなかった。
「大丈夫です。」
シリルは数秒だけ彼女の顔を見つめ、それから短く頷いた。
「ああ。」
エレノアは部屋を出る直前に、もう一度だけ振り返った。
父が存在を信じた水路装置。今も静かに水を巡らせ続ける、古代ヴァレシアの遺産。
この発見を父へ伝えた時、どのような顔をするだろう。
きっと驚き、何度も話を聞き返し、そして、子どものように目を輝かせるのだろう。
エレノアの口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
必ず伝えよう。
父の研究は正しかったと。
その先に、まだ大きな謎が続いていることも。
一行が部屋を離れる。
やがて足音は遠ざかり、隠し部屋には静かな水音だけが残された。
誰も知らない。
彼らが第四の石板を、装置の窪みへ納めたその瞬間。
蒼い光は地下深くを走り、二千年ものあいだ閉ざされていた仕組みへ向かったことを。
その先では、四つの石板が還るべき場所が、彼らの訪れをしずかに待っていた。




