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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第六章

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99話 帰ってきた紋章

99話 帰ってきた紋章


正式褒賞の式典が終わったその夜、王城ではレオンハルト王主催の祝賀晩餐会が開かれた。国王自らが功労者を労う宴とあって、華やかな空気に包まれていた。


大広間には王族や重臣、貴族たちが集まり、王命の功労者へ次々と祝いの言葉を掛けていた。


復爵を果たしたアシュフォード家の周囲にも人が絶えず、ローレンスたちは久しく耳にすることのなかった祝辞を幾度となく受けることになった。


「アシュフォード伯爵、このたびは誠におめでとうございます」

「ご息女のご活躍も伺っております。まことに見事なことで」

「また日を改めてご挨拶へ伺わせていただきたい」


エレノア自身も王国名誉学士、そして王立古代文明研究顧問として多くの者から声を掛けられた。


ようやく一息ついたところで、エレノアは無意識に広間の向こうへ視線を向けていた。


探していることに気づいたのは、そのあとだった。


シリルは少し離れた場所にいた。


白を基調とした近衛騎士の礼装と濃紺のマントを纏い、他の騎士たちとともに招待客から祝いの言葉を受けている。


これほど多くの人がいる中なのに、エレノアにはすぐに彼が見つけられた。


やがてシリルもこちらへ視線を向ける。


一瞬だけ、目が合った。


シリルの表情はいつもと大きくは変わらなかった。ただ、澄んだ青の瞳が僅かに和らいだように見えた。


それだけでエレノアの胸の奥も少し温かくなる。


けれどその間にも別の貴族から声を掛けられ、エレノアはすぐにそちらへ向き直らなければならなかった。


以前なら、こうした場でもシリルがすぐ近くにいることが当たり前だった。けれど今は彼には彼の立場があり、自分には自分の立場がある。同じ広間にいてもそれぞれ別の場所で人々に囲まれている。


それが少し寂しい。なのに、隣にいなくても彼の姿を探し、見つけただけで嬉しくなる自分がいる。


その感情が何なのか、エレノアにも以前より少しずつ分かり始めていた。





祝賀晩餐会から帰宅する頃にはエレノアも家族もすっかり疲れていた。

王家の馬車でアシュフォード邸へ戻り、見慣れた玄関をくぐった途端、フローリアが小さく息を吐く。


「……やっぱり、お家が一番落ち着きます」


「私もそう思うわ」


マーガレットが笑う。ローレンスも何も言わなかったが、王城で張り詰めていた肩から明らかに力が抜けていた。


けれどアシュフォード家は、もう昨日までと同じ家ではなかった。

そのことをエレノアが本当の意味で実感するのは、翌朝になってからだった。





朝、エレノアはいつもと同じ寝台で目を覚ました。薄いカーテン越しに朝の光が差し込み、壁際の書棚には昨日までと同じ本が並んでいる。


王の前で復爵を告げられ、自身も王国名誉学士と王立古代文明研究顧問に任じられたというのに、一夜明けた部屋は驚くほど何も変わっていなかった。


(……本当に、伯爵家へ戻ったのかしら)


階下から聞こえるのは食器を並べる音や家人の足音。窓の外では鳥が鳴き、近所の煙突から細い煙が昇っている。


少なくとも、伯爵家へ戻ったからといって一晩で邸が大きくなるわけではないらしい。


その当たり前のことが妙に可笑しくて、エレノアは小さく笑った。


「当然よね……」


誰に聞かせるでもなく呟き、いつものように身支度を整え階下へ降りる。


朝食もまた見事なほどいつもと同じだった。焼きたてのパン、卵料理。野菜のスープ。小皿には、切り分けられた果物。

伯爵家へ戻った翌朝だからといって、突然食卓に豪華な銀器が増えるわけでも、高価な料理が並ぶわけでもなかった。


「お姉様」


向かいに座るフローリアが、パンへ果実のジャムを塗りながら言った。


「どうしたの?」


「昨日は伯爵令嬢だったのに、今日はいつものお姉様ですね」


エレノアは目を瞬いた。


「昨日もいつもの私だったでしょう?」


「でも昨日は、王様の前に立っていらっしゃいました」


「場所が違うだけよ」


「そうでしょうか」


フローリアはどこか納得していない。その様子に、マーガレットが穏やかに笑う。


「爵位が戻ったからといって、お姉様の中身まで変わるわけではありませんよ」


「それは分かっていますけれど……」


「私もそれは困る」


届いたばかりの書簡へ目を通していたローレンスが、ごく自然に口を挟んだ。


「お父様まで」


エレノアが少し眉を下げると、父は何事もなかったように紙へ視線を戻した。その様子に、マーガレットとフローリアが笑う。


爵位が戻っても、家族まで別のものへ変わったわけではない。父と母がいて妹がいる。いつもの食卓を囲み、他愛のない言葉を交わす。その変わらなさに、エレノアはどこかほっとしていた。


昨日王の前で復爵を告げられたことも、王国名誉学士という称号を与えられたことも、まるで華やかな夢の中で起きた出来事のようにさえ思える。


けれどその穏やかな感覚が長く続くことはなかった。


まだ朝食を終える前、玄関の扉を叩く音が邸内へ響いた。朝の来客としては少し早い時間だったため、四人が揃って顔を上げる。

扉を開けると、そこには王家の紋章を胸元へ付けた使者が大きな箱を携えていた。


「アシュフォード伯爵家へ、国王陛下より改めてお祝いの品をお届けに参りました」


四人は思わず顔を見合わせた。


昨日、王自身の口から復爵を告げられ、正式な褒賞まで受けたばかりである。それでも王家は、王城での宣言とは別に、アシュフォード家そのものの復帰を祝う贈答を届けてくれたらしい。


箱の中には、復爵を記念して贈られた銀製の杯と、王家の紋章が刻まれた文書箱。そして、復爵後の内容へ改められたアシュフォード家の爵位録と家系記録の写しが収められていた。


ローレンスがその一枚を慎重に手に取ると、そこには、紛れもなく記されている。


ローレンス・アシュフォード。

爵位――伯爵。


そして昨日の日付と王家の正式な認証印。

紙面へ視線を落とした父は、しばらく何も言わなかった。

エレノアもその隣から同じ文字を見つめる。


昨日大広間で王の口から告げられた言葉が、今日は正式な記録となってこの家へ届いている。

一夜明けてもどこか現実味の薄かった出来事が、初めて形を持って目の前へ置かれたようだった。


「……本当なのですね」


フローリアが、小さく呟く。今度は誰も笑わなかった。ローレンスは長いあいだ紙面を見つめた末、ようやく静かに息を吐いた。


「ああ。本当に戻ったんだな」


その声音には、昨日王の前で復爵を受けた時とはまた違う感情が滲んでいた。


けれど、アシュフォード家が復爵を実感する出来事はそれだけでは終わらなかった。




王家の使者が帰ってから半刻もしないうちに、今度は王都の侯爵家から祝いの花と書状が届いた。


続いて別の伯爵家、王立学術院、王立図書館、ローレンスと旧交のある学者たち。さらにはエレノアが家庭教師として関わってきた家々からも次々と祝いが届く。


気がつけば、朝から玄関の扉が閉じる暇さえなくなっていた。


「こちらのお花はどちらへ置きましょう?」


「応接室にはもう入りません」


「でしたら廊下へ――」


「お姉様!」


廊下の向こうからフローリアの声が飛んでくる。


「またお花が届きました!」


「また?」


エレノアが思わず聞き返しながら玄関へ向かうと、そこには先ほどとは別の花束を抱えた従者が立っていた。


昨日までこの邸を訪ねる者は決して多くなかった。

父の古い知人やエレノアの教え子。近所に住む者たち。それから王命の最中、何度か訪れた近衛騎士たち。

それが今日は違う。

祝い状も、花も、贈答品も、人も。

まるで失われていた時間を一度に取り戻すように、小さなアシュフォード邸へ次々と流れ込んでくる。


「これは……」


マーガレットが応接室を見回し、珍しく困ったように笑った。

卓上には祝い状が積み重なり、壁際には贈答品の箱が並び、窓辺は色とりどりの花で埋まり始めている。


「次の品は、どこへ置きましょう」


「もう棚がありませんね」


「食堂へ置きますか?」


その提案にローレンスが即座に顔を上げた。


「それは困る」


あまりにも真剣な口調だったため、フローリアが吹き出した。


「昨日より今日の方が大変ですね」


「式典の方がまだ楽だったのかもしれないわ」


エレノアも苦笑する。


伯爵家へ戻るということは、呼び名が変わるだけではない。貴族社会へ家名が戻り、人との繋がりも、家として果たすべき役割も再び生まれるということなのだ。

しかも昨日までのアシュフォード家は必要最小限の人数で静かに暮らしていた。これほど大勢の来客を迎える体制など整っているはずもない。


「お父様」


エレノアは少し困ったように父を見る。


「使用人の方を、お願いした方がよいのではありませんか?」


「ああ」


ローレンスも迷うことなく即答した。


「今日一日でよく分かった」


マーガレットがくすりと笑う。


「あなたがそこまで即答なさるなら、相当ですね」


「このままでは、私の書斎まで花で埋まる」


「それは困りますね」


「非常に困る」


あまりにも真剣な父の答えに、今度はエレノアまで笑ってしまった。

邸の中は騒がしく、慌ただしく、昨日までの静けさが嘘のようだった。


それでもエレノアはこの忙しさを嫌だとは思わなかった。

没落してから、アシュフォード家が王都の社交や学術の場から少しずつ遠ざかっていった年月を思えば、この慌ただしさこそ、家名が再び公の場へ戻った証なのかもしれない。





「エレノア」


昼を過ぎたころ、父に呼ばれエレノアは玄関へ向かった。

正門の前にはローレンスと数人の職人が立っている。

何をしているのだろうと思いながら近づいたところで、職人の一人が抱えていた木箱の中身が目に入った瞬間、思わず足を止めた。


厚い布に包まれていたのは、一枚の古い紋章板だった。


長い年月を経て表面には僅かな古びが見える。それでも、見間違えるはずはない。


アシュフォード家の紋章だった。


幼い頃、門の上にあるのが当たり前だったもの。王城へ向かう父を見送る時も、家族で外出して帰ってきた時も、いつもそこにあった。

けれど爵位を失った日、紋章は門から下ろされた。

それでも処分されることなく父がずっと保管していたのだ。


「……これは」


エレノアは木箱を見つめたまま、ゆっくり父へ視線を向ける。


「戻すのですね」


「ああ」


職人たちが門の古い金具を確認している。

かつて紋章が掛けられていた場所には、長い年月を経ても取り付け跡だけが残っていた。


その跡を見たエレノアの胸へ、昨日とは違う感情が込み上げてきた。

復爵を宣言された時も、父が再び伯爵となった時も、自分が伯爵令嬢へ戻った時も、もちろん嬉しかった。


けれど今、長年しまわれていた紋章を目の前にすると、それらとは少し違う。

もっと幼い頃の記憶へ、もっと家族の根に近い場所へ。そっと触れられたような気がした。


「エレノア」


父の声に、我へ返る。


「危ないから少し離れていなさい」


「はい」


エレノアが門の内側へ下がると、職人たちは紋章板を持ち上げた。古い金具へ位置を合わせ、一つずつ確実に留めていく。やがて最後の留め具が締められる。


アシュフォード家の紋章が、長い年月を経て、再び門の上へ掲げられた。


朝から薄く広がっていた雲がちょうど切れ、差し込んだ陽の光が古い紋章の表面を静かに照らした。


エレノアは、しばらく動くことができなかった。

幼い頃には当たり前のように見上げていた紋章。それが一度は下ろされ、長いあいだ誰の目にも触れない場所へしまわれていた。

それでも捨てられることなく、家族が生きてきた年月を越えて、今日もう一度ここへ戻ってきた。


「……お父様」


エレノアの声は、自分でも分かるほど僅かに震えていた。


「帰ってきましたね」


それ以上の言葉は見つからなかった。けれど、父には十分伝わったのだろう。

しばらく同じように紋章を見上げたあと、「ああ」と静かに答えた。

その横顔には、昨日王の前で復爵を受けた時とはまた違う、長い緊張からようやく解き放たれたような安堵があった。


「爵位を失った時、これを門から外すのが一番堪えた」


エレノアは父へ顔を向ける。


「屋敷は残った。家族もいた。だが、この紋章を下ろした時……アシュフォードという家そのものが終わったように思えた」


恨みも、悔しさも、もう表には出ていない。

ただ、その時に感じた痛みだけが、長い年月を経ても残っているのだと分かる声音だった。


エレノアは何も言わず父の言葉を聞いた。


しばらくの沈黙のあと、ローレンスは再び門の上へ視線を戻す。


「だから、昨日よりも今日の方が実感がある」


ほんの僅かに、その口元が緩んだ。


「戻ったのだな」


エレノアも同じように紋章を見上げた。


「……はい」


通りを行く人々も、何人か足を止めて門の上を見上げている。かつて王都から姿を消したアシュフォード家の紋章が、今また同じ場所に掲げられていた。



昨日までと同じ、小さな邸。


けれどその門には今、再びアシュフォードの紋章が掲げられていた。







同じ日の夕刻。


王城内にある近衛騎士団長室で机へ向かっていたダリウスは、一通の報告書の最後まで目を通し、頁の下へ署名を入れた。


近衛騎士団はすでに通常体制へ戻り始めているものの、王命の期間中に変更されていた巡回計画や各隊の人員配置、延期されていた訓練など、処理すべき仕事はまだ多い。


次の書類へ手を伸ばしたところで、扉が叩かれた。


「入れ」


「失礼します」


聞き慣れた低い声に、ダリウスは筆を置かぬまま顔だけを上げた。


入ってきたのはシリルだった。いつもの濃紺の隊服姿だが、手には報告書も資料もない。


「どうした」


シリルが団長室を訪れる理由は普段は分かりやすい。第一隊に関する報告か命令の確認、あるいは任務上の相談。

そのいずれでもないらしいことを察し、ダリウスは僅かに目を細めた。


「話があります」


「聞こう」


そう促されてもシリルはすぐには続けなかった。


任務の報告なら、必要なことを必要なだけ迷わず口にする男だ。その彼が僅かとはいえ言葉を選んでいる。


やがて、シリルは真っ直ぐダリウスを見た。


「三日後の夕刻、近衛騎士団専用運河の一部を使用したく存じます」


今度こそダリウスの筆が止まった。


「どの区間だ」


「西庭園から南運河へ続く区間です」


「時間は」


「日没前から二刻ほど」


準備してきたのだろう。返答には迷いがなかった。

ダリウスは筆を置き、目の前の部下をしばらく見つめた。


「任務か?」


ほんの僅かな間があった。


「……私用です」


それを聞いても、ダリウスの表情は変わらない。


ただ、長くシリルを見てきた者として、その一言がどれほど珍しいものかは十分に分かっていた。


任務でも訓練でもなく、私用で近衛専用運河を使いたい。しかも夕刻だ。


王命の最中、シリルが護衛対象へ私情を持ち込まず、最後まで己の役目を優先していたことをダリウスは知っている。

その男が今、自ら場所を選び、時間を決め、正式に許可を求めに来ている。


おおよその察しはついた。


「分かった。手配しておこう」


「ありがとうございます」


シリルの表情はほとんど変わらない。

けれど、張り詰めていたものがほんの僅かに緩んだのを、ダリウスは見逃さなかった。


誰より役目を優先し、自分の望みを後へ置いてきた男が、今ようやく自分自身のために一歩を踏み出そうとしている。


「以上です。失礼します」


「ああ」


シリルが一礼し、団長室を後にする。

扉が静かに閉じると、室内には再び紙をめくる音と西日の中を漂う静けさだけが残った。


ダリウスは卓上の予定表を引き寄せた。


三日後。夕刻。

近衛騎士団専用運河、西庭園から南運河へ続く区間。


該当する時間帯へ筆先を置き、短く記す。


――使用不可。


理由は書かなかった。書く必要もない。


予定表を閉じたダリウスは、ほんの僅かに口元を緩めると、何事もなかったように次の報告書へ手を伸ばした。



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