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少女と山田君のノート

作者: 雨宮氷弦
掲載日:2026/05/17

 ある秋の夜明け。機械的なアラーム音が容赦なく少女の夢を奪う。いつもより早い時間に目が覚めた。早朝ランニングに行くつもりだったが、眠くて起きたくなかった。外はやや薄明るい。ベッドから半身だけ起こしてカーテンを開けると、窓の外の銀杏の木の豊かな黄色い葉がよく見えた。その向こうの山並みが赤いラインに染まっている。


 少女はもう一度寝直そうと思って机の上のスマホを取ってアラーム音を消した。机には一冊のノートが置いてある。少女のものではない。クラスメイトの山田君のノートだ。昨日の放課後、帰り際に通っている中学校の中庭で拾った。彼とはあまり話さないので親しいわけでは無い。しかし、つい、好奇心でノートの中を見てしまった。


 内容は冬のマラソン大会に向けての自主トレ記録だった。定規を使って丁寧に表が作られて、とても綺麗な字で、日々の努力が数字になって記録されていた。真面目な山田君らしいな、と少女は思った。下駄箱を確かめると、山田君はすでに帰宅したみたいだった。貴重品というほどでも無いだろうし、教室に引き返すのは手間だったので、少女はそのノートを翌日に返そうと思って家に持ち帰った。


 山田君はマラソン大会で一位を狙っているようだ、と少女はそのノートを見て知った。山田君は真面目だが、それほど優秀な生徒ではない。運動神経が良いというイメージは無い。部活は美術部で、彼の絵を一度見たことがあった。上手だな、と思った。幼い頃から絵を描くことが好きだというのを誰からというのでもなく聞いたことがある。彼は運動や勉強よりも絵の才能がある人なんだな、と少女は思っていた。


 ノートには彼が並々ならぬ努力でマラソンの練習をしている様子が見て取れた。なぜ、向いていないのに一生懸命走るのだろう、と少女は疑問に思った。

 

 目標:マラソンで一位になって、篠田さんを振り向かせる

 

 ノートにはそう書いてあった。篠田という苗字は3学年を通じて少女しかいなかった。驚いてよく見てみると、ノートには時折、山田君から篠田さんへの気持ちが汲み取れる言葉が書かれていた。


 少女はこの間学校の廊下で山田君がハンカチを落としたので拾ってあげた時のことを思い出した。後ろから追いかけて肩を叩くと、彼は振り向いて目が合うなり異常に驚いた表情をした。たしかに、ちょっとだけいたずら心で驚かせようと思って忍び足で近づいたけど、あんなに大きなリアクションをするなんて。あの時は、意外と面白い人なんだなと思った。今になって思えば、その後一度も目が合わなかったし、耳が真っ赤だった。


 山田君はハンカチを受け取ると、口をカクカクさせながら掠れた声で一言だけ「ありがとう」と言って、すぐに早足で歩き去ってしまった。


 少女は山田君の気持ちを察して、とても申し訳ない気持ちになり、ノートを返すのが気まずくなった。山田君と付き合うことは考えられなかった。決して嫌いなわけではない。しかし、恋愛対象として見るのは難しかった。


 きっと、山田君はこのノートを探している、と少女は思った。きっと、誰かが拾って中を見たことを想像して不安になっているだろう。だから、このノートはちゃんと彼に返さなければならない。


 少女は山田君にノートを返すところを想像した。山田君に嫌な思いをさせずに渡したかった。中を見ていないと言っても山田君はきっと半信半疑だろう。実際、少女は中を見てしまった。よりによって自分が。


 誰にも気づかれないようにそっと山田君の机の中にノートを返しても、彼は誰がそれをしたのか分からなくて不安でたまらないだろう。誰かに返すのを頼んでも、その誰かがノートの中を見てしまうかも知れないし、少女が見たこともどこかで知られてしまうかも知れない。そもそも、そういうことを画策するのは不誠実な気がした。


 そして何より、山田君がどんなに頑張って走っても彼の目標が達成されることは無い。どうすれば傷つけないで済むかわからなかった。


 少女はもっと山田君の気持ちになって考えてみようと思った。それで彼に(なら)って早朝ランニングをしてみようと思った。他に思いつくことが無かった。少女は走ることはそれほど好きでは無かった。しかし、今は山田君のことを少しでも理解してあげたかった。たとえ理解できなくても、その努力をした上で彼にノートを返したかった。


 山並みの赤いラインが濃くなった。少女は二度寝せずにランニングに行く事にした。


 玄関のドアを開けると、秋らしい涼しい空気が少女の頬を撫でた。息を吸って吐くと、その新鮮な空気が微かな銀杏の香りと共に肺の中を洗い流すように通り抜け、少女の目をしっかりと覚ました。少女はちょっとした高揚感と共にゆっくりとしたペースで走り始めた。


 表通りに出ると、どこまでも続く豊かな銀杏並木が少女を出迎えた。誰もいない表通りは鳥の(さえず)りがよく澄んで聴こえた。その鳥の高い歌声と、どこか遠くの方で鳴っている車の低い走行音がよくマッチして耳に心地良い。しばらくすると朝日が登り、銀杏並木が朝焼けに包まれて燃えるような輝きを放ち始めた。その眩い光景はとても美しくて、少女の気持ちを晴れやかにした。


 少女の心から迷いが消えた。少女は走り続けながら、今日、登校したら山田君にノートを返そう、と決意した。


 そして、言おう。付き合うことはできない。だから、もっと自分の好きなことをして欲しい。素敵な絵を描いて。あんなに苦しそうな絵ではなく、もっと楽しい、もっと明るい絵を。少女は走りながら、これから山田君がどんな絵を描くことになるか想像した。


 息が上がってきた。でも、少女は走るのをやめなかった。ペースを崩さず走り続け、顔を上げて銀杏並木を見続けた。


 それはとても残酷かも知れない、と少女は思った。


 それでも少女は、高鳴る心臓の音を胸の内で聴きながら、これから彼の描いていく絵を、見たい、と強く思った。

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