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令嬢の軌跡

私に意地悪をした方が次々と不幸になっておりますが、心当たりがございません

作者: 久留トガ
掲載日:2026/04/24




私の周りでは、不思議なことが起きる。


意地悪をした人間が、必ず後で不運に遭う。


今朝も、そうだった。


廊下を歩いていると、背後に気配を感じた。振り向くより早く、廊下の角から別の侍女が現れて、その気配と正面からぶつかった。何かが床に落ちる音がして、侍女のマルタの声が「きゃあ」と上がった。泥で汚れた布が床に散らばり、マルタのエプロンにべったりとかかっている。


「申し訳ありません」


角から現れた侍女がマルタに頭を下げながら立ち上がった。マルタは自分のエプロンを見て、それから床の布を見て、それからこちらを見た。何か言いたそうな顔だったが、私は特に何も言わず廊下を進んだ。


後ろで「なんで今……」という呟きが聞こえた気がしたが、振り向かなかった。


自室に戻り、窓辺の椅子に腰を下ろす。外では庭師のトーマが低木を手入れしている。いつもと変わらない朝だった。


変わらないのは、こういうことが繰り返されることも含めて。


思い出せるだけでも、同じようなことは何度もある。


半年前、私の食事に何かを混入しようとした侍女のリーザが、翌日から十日間高熱で寝込んだ。その後彼女は別の部署へ異動になり、以来顔を合わせていない。


先月、夜会で私への悪口をあちこちに触れ回っていたセシル姉様の取り巻きが、帰り道の馬車ごと泥濘にはまった。宝石をふんだんに使ったドレスが台無しになったと翌日の噂に聞いた。それを伝えてくれた侍女のアーナが「少しすっとしました」と言ったけれど、私はただ「怪我がなくてよかった」と思った。


先週、私の刺繍を台無しにしようとした侍女が、誤って針を指に深く刺して一週間手が使えなくなった。私は薬草を煎じて渡したが、受け取ってもらえなかった。


誰も、直接傷つけられてはいない。でも、私に悪意を向けた人間が、必ず後で何かしらの不運に遭っている。


その理由として思い当たるのは、一つだけだ。私の体質が、何か人に良くないものを引き寄せているのだろう。


——疫病神、という言葉を、私は自分に使っている。口に出したことはないけれど。


公爵家の庶子として生まれた私に、始めから居場所は多くなかった。才能があると言われるほど嫉妬を買い、美しいと言われるほど陰口が増えた。庶子の分際で、と言われることには慣れた。慣れたというより、もうそういうものだと思っている。


正嫡の姉であるセシル様は、表向きには私を無視している。直接手を出すより、周囲の侍女に働きかける方が彼女の流儀らしかった。私に近しくしようとした使用人が一人また一人と離れていくのも、今では驚かない。


屋敷の中での私の役割は、いつも曖昧だった。公爵家の娘として教育は受けた。礼儀作法も刺繍も語学も一通りこなした。それでも、どこにも収まりきらない感覚は、ずっとあった。


それに加えて、この「体質」だ。


だから、なるべく人と深く関わらないようにしてきた。礼儀は尽くす、距離は保つ。それがこの屋敷で私が選んできた生き方だった。気の毒なのは、私が何もしていなくても向こうから近づいてきてしまう人間がいることだ。嫉妬であれ、悪意であれ、そういうものを持ってくれば、必ずその人間が不運に遭う。


私にはどうしようもない。ただ、申し訳ないと思っている。


窓の外を見る。庭師のトーマは今日も丁寧に作業をしている。この人は私に悪意を持ったことがないのか、十年来ずっと変わらず庭を手入れしている。私が刺繍を持って庭に出たとき、一言二言だけ話す。この屋敷の中で、珍しい種類の人間だった。


この屋敷に、私の居場所と呼べるものがあるとすれば、この窓から見える景色と、手元の刺繍だけかもしれなかった。


◇◇◇


数日後、宮廷魔法師が公爵家を訪ねてきた。


庭で刺繍をしていると、屋敷の方から足音がした。使用人の歩き方ではない。


「エリゼ・ファルコン令嬢ですか」


顔を上げると、見慣れない男が立っていた。銀に近い灰色の髪、落ち着いた灰青色の瞳。鋭い目元だが、声には威圧がない。宮廷の紋章が入った外套を羽織っている。


「……宮廷魔法師の方ですね」


紋章を見ればわかる。


「レイ・カーライルと申します。この屋敷で不思議な出来事が続いているという報告を受け、調査に参りました」


「調査の件でしたら、お断りいたします」


即答した私に、彼は表情を変えなかった。動じた様子もない。


「理由を聞かせていただけますか」


手の中の刺繍針を、少し握った。断る理由を、正直に言うべきかどうか迷った。でも遠回しに言っても伝わらないならば、率直なほうがいい。


「……あなたに近づいてもらうのは困ります。私の周りにいると、関わった人間が不運に遭います。調査をしていただく前に、あなたに何か起きてからでは申し訳ない」


彼は少し黙った。


「あなたは、自分が呪われていると思っているのですか」


「呪いかどうかはわかりません。ただ、事実として私に悪意を向けた人間が次々と不運に見舞われています。原因として最も可能性が高いのは、私の体質だと考えています」


「……不思議なことをおっしゃる」


「不思議?」


「ええ。ご自分の身を心配するのではなく、私の身を心配されている」


視線が合った。どこか、探るような目だった。


「あなたを傷つけようとした人間だけが不運に遭っている、というお話を伺いました。その場合、体質ではなく、守護の力と考えるのが自然です」


「……どういう意味ですか」


「調査させてもらえれば、答えられます。令嬢に迷惑をかけるつもりは、一切ありません」


刺繍針を持ち直して、考えた。


今まで不運に遭った人間は、全員が私に悪意を持っていた。トーマは何も起きていない。アーナも。


「……わかりました。ただし、何も出てこなかった場合はすぐにお引き上げください」


「承知しました」


「それと——もし調査中に何か不運に遭われたら、すぐにお帰りください。私が原因だったとしても、止める方法がわからないので」


「止めなくて構いません」


「でも——」


「私にあなたを傷つけるつもりはありません」


静かに、しかし迷いのない声だった。「だから問題ありません」


それだけ言って、彼はゆっくりと歩き出した。庭の向こうでカラスが一羽鳴いた。


◇◇◇


レイが屋敷に通い始めて、四日が経った。


初日、彼は屋敷の各部屋を確認し、何かを書き留め、夕方前に帰った。二日目も同じだった。彼が何を見ているのか私にはわからなかったが、邪魔をしないよう刺繍か本を持って別の部屋にいるようにした。


ただ、奇妙なことに気づいていた。彼が屋敷に来ている間、誰も不運に遭っていない。初日も二日目も、いつもなら誰かが何かしてくるような廊下やすれ違いが、何事もなく過ぎていった。「傷つけようとしていない人間には何も起きない」というレイの言葉が、少しずつ現実味を帯びてきていた。


三日目、廊下でマルタとすれ違ったとき、彼女が足を引っかけて転んだ。ぶつかってもいない、段差もない場所で。「なんで……」と呟きながら立ち上がった彼女が私を見た。


「大丈夫ですか」


「……けっこうです」


そっぽを向いて去っていくマルタの後ろ姿を見ながら、申し訳ないと思った。後ろで調査をしていたレイが、静かに何かを書いた気配がした。


その日の昼過ぎ、応接室で彼が作業をしている傍らで私は刺繍をしていた。特に意味があってそうしたわけではない。部屋が広すぎて、遠い場所に人がいると静かすぎる気がしただけだ。一人の部屋には慣れているはずなのに、不思議なことだった。


しばらくして、レイが顔を上げた。


「令嬢は、よく一人でいるのですか」


「……そうですね。自分の部屋か、庭にいることが多いです」


「好んで?」


少し考えた。好んで、というわけではないかもしれない。他に選択肢がないと思っていたから、という方が近い。


「……人と関わるのが苦手なわけではないのですが、近づいてくる人間が不幸になると困るので」


「ご自分のためではなく、相手のために」


「そうです」


レイは少し間を置いてから、手帳に何かを書いた。何を書いているのか、聞けなかった。


「先ほど廊下で侍女に薬草を渡そうとしていましたね」


「……見ていたのですか」


「調査中でしたので。薬草は受け取ってもらえなかったようですが、あの後どうされましたか」


「捨てました。受け取ってもらえなかったものを持っていても仕方ないので」


「……捨てたのですか」


「はい」


「せっかく煎じたのに、もったいないとは思いませんでしたか」


思わなかったわけではない。でも、それより受け取ってもらえなかった相手が痛い思いをしているかもしれないことの方が気になった。あの侍女は今も怪我を痛がっているだろうか。


「……私の体質のせいで怪我をさせてしまったので、少しでも役に立てればと思っただけです」


レイはしばらく私を見ていた。何かを考えるような間があった。


「令嬢は、ご自分に随分と厳しい」


「そうでしょうか」


「他の誰かが同じ立場なら、受け取らない方がおかしいと言いませんか」


言わないかもしれない、とは思った。でも、うまく答えられなかった。


四日目の午後、調査が終わりに近づいているらしいことは雰囲気でわかった。彼の動きが確認から整理へ変わっていた。書き留めた資料を何度も読み返し、部屋の角や柱のそばに手をかざしては何かを確かめている。


「何が見えているのですか」


聞いたのは私の方だった。


レイが振り向いた。「魔力の流れです。目には見えませんが、術者にはわかります」


「私には見えません」


「令嬢に見える必要はないので、問題ありません」


簡潔な答えだったが、不思議と不快ではなかった。この人の言葉は、余計なものがない。ただ必要なことだけ言う。


「令嬢のお母上はどんな方でしたか」


不意に聞かれて、刺繍の針が少し止まった。


「……私が三歳のときに亡くなりましたので、直接はほとんど覚えていません。乳母から聞いた話では、薬師をしていたと。優しい人だったと、聞いています」


「薬師を」


「はい。薬草の知識だけは、なぜか少し覚えていて。母から聞いたのか、乳母から聞いたのかはわかりませんが」


「令嬢も薬草を扱われる」


「……こういうところで役立てるくらいには」


「先日侍女に渡そうとしていたものも」


「はい。母が作り方を教えてくれたのか、乳母が教えてくれたのか。ただ、体が覚えているようなんです。手が動く、という感じで」


レイは小さく頷いた。「お母上から受け継いだものが、いくつかあるのですね」


「形見は何かお持ちですか」


左手を見た。指にはめている小さな指輪。飾り気のない、銀色の細い輪。石もなく、文様もない。ただの輪。


「これだけです。物心つく前からずっとはめています。なんとなく……落ち着くので。外したことがほとんどない」


レイの視線が、私の左手に向いた。


一瞬だったが、彼の目の動きが変わった。何かを見つけたときの目だ、と思った。探していたものを、ようやく見た、という顔。


「……その指輪を、少し見せてもらえますか」


「はい」


外して渡す。受け取ったレイが指輪を手のひらに載せた瞬間、かすかに息を詰めるのがわかった。それは一瞬で、すぐに平静な顔に戻ったが、指先だけが止まっていた。


「何か、わかりましたか」


「……もう一日だけ、時間をください」


顔を上げず、指輪の内側を確認しながら言った。その声に、普段とは違う何かがあった。


「わかりました」


指輪は翌日返してもらうことになった。物心ついてから一度も外したことのない指輪を手放すのは少し心もとなかったが、不思議と不安は少なかった。


◇◇◇


翌日、レイは資料を携えて来た。


応接室に入ってきた彼の顔を見て、昨日とは何かが違った。言うべきことを整理してきた人間の気配だった。書き物を持つ手が、いつもより少し静かだった。


「調査の結果を報告します」


指輪をテーブルに置き、私のほうへ滑らせた。


「この屋敷で起きていた不運な出来事の原因は、令嬢ではありません」


受け取ろうとした手が、止まった。


「あなたに向けられた悪意は、その発信源に倍返しで戻っていました。誰かがあなたを守るために、強力な守護の魔法をかけています」


「……守護の、魔法」


「発動条件は、エリゼ・ファルコンを傷つけようとする意図を持った者に対して、その意図と同等の不運を返す、というものです。あなたが疫病神なのではない。あなたを傷つけようとしていない人間が不幸になったことは、一件もありません」


しばらく、何も言えなかった。


思い返す。リーザ、取り巻き、マルタ——全員が私に何かしようとしていた。アーナは何も起きていない。トーマも。庭師のトーマは一度も、私に悪意を向けたことがない。だから十年、ずっと変わらずそこにいる。


「……本当に、私が原因ではなかった?」


「はい」


「私が近くにいるだけで人が不幸になるわけではなかった、ということですか」


「そうです」


声が、少し震えた。


今まで、そんなふうに考えたことがなかった。ずっと私のせいだと思っていた。近づく人間を遠ざけたのも、一人でいることを選んできたのも、全部私の「体質」だと思ってきた。それが、違ったのだ。


「……では、なぜそんなものが、私に」


「指輪の内側に刻印があります。古代文字で」


手に取る。細い輪の内側を目を細めて見ても、何か刻まれているとはわかるが、読めない。


「……読んでいただけますか」


レイが少し間を置いた。


「『いつまでも、あなたのそばに』」


指輪の縁が、手のひらに食い込んだ。


「この魔法は外部から施されたものです。魔力の質から、血縁者によるものと判定できます」


血縁者。


「しかも——」


レイの声が、一段静かになった。


「命を対価にしています」


「……え」


「守護の魔法を永続させるには、術者が自分の寿命を消費します。これほど強固な術は、術者が生きている間には完成しません。施した本人が亡くなることで、初めて完全になる形式です」


テーブルの上に置いていた手が、動かなくなった。


「お母様が……」


声が、掠れた。


「おそらく、あなたが生まれた直後に施したのだと思います」


少し間があった。


「お母上は、元から体が丈夫ではなかった。出産でさらに衰えて、長くは生きられないとご自身でもわかっていたのでしょう。そして——庶子として生まれた娘が、この屋敷でどういう目に遭うかも」


声が返せなかった。


「傍にいてあげられない。でも守ることはできる。だから命を使った。この形式の術は、施した直後から機能し始めます。ただ永続するためには術者の死が必要です。お母上はあなたが三歳になるまで、残りの命を少しずつ使いながら傍にいた。術が完全に定着したとき、逝かれた」


「生まれたばかりの子に残せる、最大のものを選んだのでしょう。ずっと傍にいたんですよ——あなたのお母様は」


顔を伏せた。


肩が、勝手に震えた。


こらえようとした。こんな場所で、初対面に近い人間の前で、こういうことをする自分ではないと思っていた。


でも、声が漏れた。


「疫病神なんか……じゃなかった……」


「はい」


「ずっと……私のせいで……人が不幸に……って……」


「違います」


両手で顔を覆った。指輪を握ったまま。


三歳から覚えていない母のことを、ずっと遠い存在だと思ってきた。形見はこの指輪だけで、声も顔もほとんど知らなくて、乳母に聞いた話の断片しか持っていなかった。薬師だったこと。優しい人だったこと。それだけしかわからなかった。


それが、ずっとここにいたのだ。この指輪の中に。私が一人でいるたびに、廊下を歩くたびに、庭で刺繍をするたびに。誰かに意地悪をされるたびに。


一度も会えなかったのに、一度も離れていなかった。


三歳の私が知らないまま過ごしてきた十五年間。自分が疫病神かもしれないと思いながら、近づいてくる人間を遠ざけながら、一人でいることに慣れようとしていた時間。その全部の隣に、ずっといたのだ。


「……お母様、ずっとそこにいてくれたんですね」


声を殺して泣く私の隣で、レイは何も言わなかった。立ったまま、ただそこにいた。


どれだけ経ったかわからない。泣き続けることに慣れていなかったから、最初は止まらなくて、それから少しずつ息が整ってきた。目元を拭って顔を上げると、レイがまだそこにいた。


表情は変わっていなかった。でも何か、その場にいることを選んでいる人間の気配があった。座ることも、立ち去ることも、どちらでもできたはずなのに。ただ立って、そこにいた。


「……お見苦しいところを」


「いいえ」


短く返した。


少し沈黙があった。窓の外で、鳥が鳴いた。


目元を拭って、改めて指輪を見た。何十回も見てきたはずの、銀の細い輪。でも今日は違う目で見ている。


「母は、どんな気持ちでこれをかけたのでしょう」


声に出すつもりはなかったのに、出てしまった。


レイが少し考えてから答えた。「わかりません。でも命を使ってかけた術です。理由は一つしかないと思います」


「……愛していたから、ですね」


「はい」


私はもう一度、目を拭った。これ以上泣くつもりはなかったが、目元が熱かった。


◇◇◇


「調査は以上です。宮廷への報告書には、呪術反応はあるが無害なもの、継続監視不要、と記します」


しばらくして、レイが言った。窓の外はいつの間にか夕方近い光になっていた。


「……ありがとうございました」


「礼はいりません。仕事でしたから」


「でも」と口が動いた。止める間がなかった。「あなたが来なければ、私はずっとこのまま自分を疫病神だと思っていました。それは、仕事以上のことだと思います」


レイは少し黙った。「……そうですね」とだけ、静かに言った。


指輪を改めてはめ直す。薬指に戻す途中、少し指が震えた。いつもと変わらない重さのはずなのに、今日は少し違う気がした。知っているのに、知らなかったころと同じものがそこにある。


「あなたは、私の近くにいても不幸になりませんでした」


「傷つけようとしていませんから。当然の結果です」


「……当然、なのですね」


「はい」


これほど穏やかな確信で「当然」と言える人間が、今まで周りにいなかった。


窓から午後の光が差し込んでいた。テーブルの上の指輪が、少しだけ輝いた。今まで何度も見てきた光景なのに、今日は違って見えた。


「また……来ることはありますか」


口から出てから、少し後悔した。なぜそんなことを聞いたのか。調査が終わったなら、来る理由はもうない。引き留めようとしたわけではないのに、声が先に出た。


レイは少し考えた後で言った。


「調査とは別に来ることは、許可が必要ですか」


少し目を見開いた。


彼の言葉の意味を、一拍遅れて理解した。


それから、小さく首を振った。


「……いいえ」


「わかりました」


レイが立ち上がり、部屋を出ていった。足音が廊下に遠ざかっていく。屋敷の中の音がいつものように戻ってきた。


窓から差し込む光の中で、私はしばらくそのまま座っていた。


胸の中に何かがあった。名前のわからない、温かいもの。今まで知らなかったものが、今日一日で二つも増えた。


一つは、自分がずっと愛されていたということ。


もう一つは——この人の足音が廊下から消えていくのを、少し惜しいと思ったということ。


指輪を見る。


銀の細い輪。石も文様もない、ただの輪。でも今は、それがとても大切なものに見えた。ずっとそうだったのに、今日初めてわかった。


「お母様」


誰も聞いていないのに、声に出して言った。


「私、ちゃんと生きていきます。一人で抱えなくていいことも、これからは少しずつ、覚えていきます」


光が、窓の向こうで穏やかに揺れていた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


本作は短編シリーズ「令嬢たちの軌跡」の一作です。

それぞれ独立した物語ですので、どこから読んでいただいても大丈夫です。


▼シリーズ他作品

【短編】お役御免でございます、殿下

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【短編】国宝に指定された令嬢の日記。百年後の学者が解読した結果、中身が全部食レポなんですが

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もしよかったら、他の作品も覗いていただけると嬉しいです。

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