心の汚れ判定試験(第3題) 先端だけでは意味がありません
黒崎主任の説明は止められない。
止めようとすると、だいたいもっと悪化する。
その事実を、俺たち梱包発送課はこの二日で嫌というほど学んでいた。だから三日目の朝、作業台に細長い金属プローブと透明の保護スリーブが並んだ時点で、俺はもう半分諦めていた。
主任はいつもの真面目な顔で言った。
「いいですか。保護スリーブは、先端だけでは意味がありません。根元まで被せてください」
開始一秒だった。
倉持がむせた。
田所が無言で額を押さえた。
俺は目を閉じた。
そして、この場でいちばん危ない女が、静かに手を挙げた。
篠宮ひより、二十三歳。仕事はできる。気も利く。愛想もいい。
ただし、主任の説明が妙な方向に聞こえそうな時だけ、勘が鋭すぎる。
「主任、最初は先端だけで様子を見るのも駄目ですか?」
「駄目です」
黒崎主任は即答した。
「先端だけ入っても保護になりません。根元まで被せて、初めて意味があります」
倉持が後ろを向いた。
田所が低い声で言う。
「今日も初手から強いな」
「強くはありません。標準作業です」
主任はそう言って、金属プローブを一本持ち上げた。
透明スリーブの口を軽く広げる。
「見ていてください。最初は少し緩いですが問題ありません。入れてから温めると締まります」
倉持が崩れ落ちた。
「締まるのか」
「締まります」
主任はきっぱり言った。
「温めると全体が縮むので、根元まできちんと入っていれば、きれいに締まります」
篠宮が真顔でうなずく。
「主任、じゃあ最初は緩くてもいいんですね」
「はい。入れてから締めれば大丈夫です」
もう駄目だ。
「では篠宮さん、やってみてください。片方を押さえて、もう片方をゆっくり被せます」
「はい」
「焦らなくていいです。途中で止めると、先だけ余って見た目が悪いので」
「先だけ余る」
「はい。根元まで入れてください」
倉持が作業台に額を押しつけた。
田所がぼそりとつぶやく。
「誰かもう主任の語彙を取り上げろ」
篠宮は楽しそうにスリーブをつまみ、プローブの先に当てた。
「主任、これ、途中で引っかかります」
「無理に押し込まないでください。少し回すと入りやすくなります」
「回すんですか」
「はい。ゆっくりです。雑にやると傷がつきます」
俺はもう静かに天井を見た。
人は三日連続で理性を削られると、逆に落ち着くらしい。
「そうです。いいですね。そこで止めないで、もう少し」
「はい」
「まだです。根元まで」
「主任、これ以上いくと破れませんか?」
「大丈夫です。そのために温めて締めるので」
倉持が死んだ。
その時だった。
梱包エリアの引き戸が開き、資材メーカーの営業がサンプル確認に入ってきた。
「お世話になってます。試作品の様子を——」
そして、止まった。
最悪の間で、主任が篠宮に言う。
「先端だけでは意味がありません。根元まで被せてください」
営業の笑顔が止まった。
篠宮は振り向きもせず、さらに聞く。
「主任、途中で引っかかるんですけど、このまま最後までいって大丈夫ですか?」
「大丈夫です。少し回せば入ります」
営業の目が泳いだ。
倉持がその場で膝をつき、田所が荷札を持ったまま俯いた。
俺が口を開くより先に、営業の方が乾いた声で言った。
「も、申し訳ありません。差し込みが少し渋い感じでしょうか」
さすが営業だった。仕事として拾おうとする根性だけはある。
だが、主任も負けていなかった。
「先端だけなら入りやすいです」
営業が固まった。
「ですが、それでは意味がないので、根元まで被せる必要があります。入れた後に温めると締まります」
「は、はい」
「ただ、途中で止めると先だけ余って見た目が悪いので、最後まで入れてから口を整えてください」
沈黙。
長い。
致命的に長い。
営業は俺を見た。
俺は何も言えなかった。
主任はさらに実物を掲げる。
「御社の製品自体は問題ありません。温めた後の締まりも良いです」
営業の顔から営業スマイルが消えた。
田所が小さくつぶやく。
「商品説明としてもだいぶ終わってるな」
だが主任は止まらない。
「ただ、口の部分が少し広がりやすいので、最後に整えた方がきれいです」
営業は二秒ほど無言になったあと、深く頭を下げた。
「貴重なご意見、ありがとうございます。社内で共有します」
そう言って、ほとんど逃げるように引き戸の向こうへ消えた。
戸が閉まるなり、倉持が爆発した。
「主任! 営業の人に“温めた後の締まりも良いです”は駄目だって!」
「なぜですか?」
「なぜって!」
「実際、締まりは良いですよね?」
正しい。
正しすぎる。
だから余計に駄目だった。
篠宮が目尻の涙を拭いながら言う。
「主任、うち、主任の説明ほんと分かりやすくて好きです」
「それは良かったです」
田所が完成品をコンテナに並べながら、ぽつりと言った。
「一日目は奥まで入れて、二日目は濡れてて滑って、三日目は先端だけじゃ意味がない、か」
少し間を置いて、鼻で笑う。
「ここまで来ると、被害者はうちの部署だけで済まんな」
主任は真面目にうなずいた。
「品質管理は他部署との連携も大事ですからね」
全員が一瞬だけ黙った。
頼むから、もう何も言わないでくれ。そう思った、その直後だった。
主任は次のプローブを手に取り、篠宮に差し出した。
「では次、これは少し太いので、最初に口を広げてから入れてみてください」
作業場の空気が、また死んだ。
篠宮が俺を見て、にっこり笑う。
「佐伯さん」
「何だ」
「今日も長い一日になりそうですね」
まったくだ。
梱包発送課の朝は早い。
そして黒崎主任の説明は、今日も順調に、職場の理性を削っていた。
ご拝読ありがとうございました。
本作は、健全な中身と不健全な会話でお送りする短編コメディです。
今後もどこかの現場で、似たような言葉の事故が起こるかもしれません。
また次の判定試験でも、お付き合いいただけましたら嬉しいです。




