7_強く儚い者たち
部屋は、土と薬草の匂いが混ざっていた。
孤児院の奥。
普段は使われない物置を片付けて、急ごしらえの看病部屋にした場所だ。
窓は小さく、光も弱い。
それでも外よりはましだった。
倒れたままの人間を、放っておかなくていいだけ。
その日は、風が少しだけ柔らかかった。
畑に出るはずだった年少組は、呼び止められた。
「お前たちは中だ」
大人が短く言う。
「役に立たねえからな。看病でもしてろ」
吐き捨てるような言い方だったが、誰も反発しない。
外に出れば倒れるだけだと、みんな分かっている。
僕とガルドは、その隅にいた。
年少組は畑じゃ役に立たない。だからこういう役が回ってくる。
正直、こっちの方がきつい。目の前で人が死ぬからだ。
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薄暗い部屋。
藁の上に、あの子が寝かされている。
昨日、荷車に積まれていた中で、たった一人、生きていた子。
顔色は土みたいに悪い。唇はひび割れて、息は浅い。
それでも——
生きている。
細い。折れそうなくらい細い。
呼吸は浅く、胸がかすかに上下するだけ。
目は閉じたまま。肌は土みたいな色をしている。
——助かるのか?
考えて、やめた。
ここでは、その問いは意味がない。
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しばらくして。指が、動いた。
ほんの、わずか。
見間違いかと思うほど小さい動き。
でも——
確かに、動いた。
「……お」
ガルドが顔を近づける。
「なあ、見たか今」
「見た」
僕も身を乗り出す。
まぶたが、震える。ゆっくり。重そうに。
それでも——
開いた。
濁った光が、こちらを見る。
焦点が合っていない。
どこを見ているのかも分からない。
ただ、生きている目だった。
ガルドが、すぐに笑った。いつもの、あの顔。
こんな場所で出す顔じゃない。
それでも、出るやつだ。
「おっ、気が付いたな」
軽い調子で言う。まるで、昨日の続きみたいに。
少女の瞼が、ゆっくりと動く。
焦点の合わない目が、こちらを見る。
⸻
「水、少しだけ」
僕が言うと、ガルドが頷く。
木の器を傾けて、ほんの一滴、唇に落とす。
飲み込めるかどうかも分からない量。
しばらくして。指が、動いた。
ほんの、わずか。
見間違いかと思うほど小さい動き。
でも——
確かに、動いた。
⸻
少女の目が、わずかに揺れる。
声を出そうとしている。
喉が鳴るが音にならない。
ガルドは気にしない。そのまま続ける。
「名前は?」
少しだけ間を置いて、
「年は?」
少女のひび割れて血がにじんでいる唇が動く。
それでも——
「……エ……」
掠れた音。ほとんど空気。
ガルドが身を乗り出す。
「エ?」
「……エル……ナ……」
今度は、少しだけ形になった。
それでも、すぐに息が途切れる。
⸻
「エルナ、か」
ガルドが、にっと笑う。
「いい名前だな」
迷いなく言う。
⸻
少女——エルナの目が、わずかに開いたまま揺れる。
まだ意識は朦朧としている。
それでも、さっきより、少しだけこちらを見ている。
「年は?」
ガルドが続ける。
「……ご……」
声が途切れる。
「五歳か」
ガルドが代わりに言う。
「同じだな」
にっと笑う。その笑顔は、この場所には似合わないくらい、まっすぐだった。
⸻
僕は横で、それを見ていた。
……すごいヤツだ。
この状況で、普通に会話してる。
名前を聞いて、年を聞いて。
まるで、どこにでもある出会いみたいに。
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エルナの視線が、少しだけ動いた。
今度は、僕の方。
何かを言おうとしている。
でも、声にならない。
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「こいつはリオ」
ガルドが代わりに言う。
「変なやつだけど、悪いやつじゃない」
余計な一言を付ける。
「……おい」
小さく抗議する。
ガルドは気にしない。
「で、俺がガルド」
胸を軽く叩く。
「よろしくな」
よろしく、なんて言葉。
こんな場所で使うやつ、普通はいない。
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でも、エルナの目が、ほんの少しだけ柔らいだ気がした。錯覚かもしれない。
僕は、器を持ち直した。
「……もう一口だけ」
唇に水を落とす。
今度は、ほんのわずかに——飲み込んだ。
ガルドが、嬉しそうに笑う。
大したことじゃない。
たった一口にも満たない量だ。
ガルドが、また笑う。
「大丈夫だ」
根拠もなく言う。
「死なねえよ、お前」
ガルドがまた笑う。
まったく無茶苦茶だ。
そんな保証、どこにもない。
エルナの喉が動く。
何か言おうとしている。
でも、声にならない。
「無理すんなって」
ガルドが手を振る。
「生きてるだけで十分すげえよ」
さらっと言う。
本気でそう思っている顔だった。
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僕は、少し離れたところに立っていた。
何をすればいいか分からない。
水を持ってくるでもなく、手を握るでもなく、ただ、見ているだけ。
そのとき、ガルドが振り返った。
「なあ、リオ」
嫌な予感がした。
「なんか元気になりそうなの、歌ってくれよ」
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思わず顔をしかめる。
「……は?」
小さく返す。
「無理だろ、こんなとこで」
即答だった。
ガルドは肩をすくめる。
「いいじゃん」
軽い。
けど、やっぱり目は真剣だ。
「この子、今にも死にそうだし」
言い方は雑だった。でも、事実だった。
エルナの呼吸は浅い。
今、この瞬間に途切れてもおかしくない。
そんな状態。
「……歌でどうにかなるわけないだろ」
吐き出すように言う。少し強くなった。
ガルドは、少しだけ考えた。
それから、ぽつりと。
「でもさ」
視線をエルナに向けたまま。
「昨日の、ちょっと良かった」
言葉に詰まる。
「理由とか分かんねえけど」
ガルドは続ける。
「なんか、ああいうの、あってもいいじゃん」
静かだった。
外の風の音だけが、かすかに聞こえる。
エルナが、わずかに目を動かした。
僕の方へ。
ぼんやりと。
それでも、確かに。
逃げ場がなくなった。
「……一回だけだぞ」
小さく言う。
ガルドが、すぐに笑う。
「ああ」
短い返事。
僕は、ゆっくりと息を吸った。
胸が痛い。
空気が足りない。
それでも——
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口を開く。
音が、こぼれる。
掠れている。
震えている。
それでも、繋ぐ。
この曲は、昨日とは違う。
もっと、鋭い。
もっと、優しい。
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最初の音。
細い。
今にも切れそう。
でも、消えない。
息が続かない。
途中で止まる。
また吸って、繋ぐ。
不格好だ。
それでも、やめない。
部屋の空気が、わずかに変わる。
誰も気づかない。
でも——
ほんの少しだけ、張りつめていた何かが緩む。
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エルナの指が、動いた。
かすかに。
本当に、わずかに。
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僕は気づかない。
ただ、音を追っている。
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ガルドは、それを見ていた。
何も言わない。
ただ、じっと。
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最後の音は、やっぱり消えた。
息が足りない。
そこで終わり。
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沈黙。
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エルナの呼吸が、少しだけ深くなった。
ほんのわずか。
誤差みたいな差。
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ガルドが、小さく息を吐いた。
「……やっぱすげえな」
誰にともなく、呟く。
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僕は顔を逸らした。
「だから違うって……」
弱く否定する。
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でも。
さっきまでより、少しだけ。
部屋の空気が、あたたかかった。
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エルナの瞼が、ゆっくりと閉じる。
眠ったのか。
気を失ったのか。
分からない。
それでも、その呼吸は、途切れていなかった。
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外では、風が吹いている。
何も変わらない世界。
飢えも、死も、すぐそこにある。
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それでも。
ほんの少しだけ。
ここには、違うものがあった。




