4_悲しみの果て
翌朝、鐘の音で目が覚めた。
乾いた、金属を叩いたような音。
前の世界で聞いていた電子音とは違う、重さのある響きだった。
子どもたちが一斉に起き出す。
誰も文句を言わない。ただ、慣れた動きで布団を畳み、並び、外へ出る。
僕もそれに倣った。
まだ身体はぎこちない。
歩幅が合わない。
少し走るだけで、胸がひゅう、と鳴る。
——弱い。
その事実が、やけに現実的だった。
⸻
朝食は、薄い粥だった。
ほとんど水だ。
底に沈んでいる粒を探すように、みんな無言で匙を動かしている。
隣の少年が、僕の器をちらりと見た。
その目にあったのは、好奇心でも親しみでもない。
計算だった。
どれだけ残しているか。
奪えるかどうか。
視線が合うと、すぐに逸らされた。
——ああ。
理解した。
ここは、優しい場所じゃない。
⸻
食後、子どもたちは外へ出された。
畑だった。
いや、畑だった場所だ。
土はひび割れ、ところどころに黒ずんだ跡がある。
焼けたのか、踏み荒らされたのか、判別がつかない。
大人が一人、鍬を振っている。
だが動きは鈍い。
何度も息を止め、咳き込み、膝をついている。
それでも、やめない。
やめたら——死ぬのだと分かっているから。
子どもたちは、石を拾い、草をむしる。
それが仕事だった。
僕もしゃがみ込む。
指に力が入らない。
爪の間に土が入る。
少し動くだけで息が上がる。
それでも、やる。
やらなければ、食えない。
⸻
昼過ぎ、騒ぎが起きた。
門の外。
誰かが来たらしい。
大人たちが集まり、子どもは近づくなと押し戻される。
それでも、隙間から見えた。
荷車。
痩せた馬。
骨が浮き出ている。
そして——人。
いや、人だったもの。
布に包まれた塊がいくつも積まれている。
一つ、落ちた。
転がる。
布がほどける。
見えたのは、顔だった。
目が、なかった。
空洞だけが、こちらを向いていた。
誰かが言った。
「……道中で食われたんだろ」
平然と。
まるで、雨が降った、くらいの調子で。
⸻
その夜。
また、眠れなかった。
隣の子が、寝言でうなされている。
反対側では、誰かが歯ぎしりしている。
腹が鳴る。
ぎゅる、と音がする。
恥ずかしいと思う感覚は、すぐに消えた。
全員、鳴っている。
僕は目を閉じた。
すると——
音が浮かんだ。
あの頃の旋律。
ライブハウスの、狭いステージ。
照明。
汗。
息。
それが、ここにはない。
代わりにあるのは、空腹と、乾いた空気と、
どこかで誰かが泣く声。
⸻
ふと、思った。
もし。
この世界に、音を残すとしたら。
何を、書く?
勝利の歌か。
英雄の物語か。
違う。
そんなものは、いずれ誰かが作る。
けれど——
今日見たものは、消える。
記録されない。
語られない。
誰も、美しく語ろうとしない。
あの荷車も。
あの空洞の目も。
あの「当たり前」の声も。
すべて、なかったことになる。
⸻
僕は布団の中で、小さな指を動かした。
空中に、線を引く。
旋律ではない。
もっと、重いもの。
削るような音。
引き裂くような間。
息が詰まる沈黙。
それを並べる。
形にする。
——記録だ。
これは、歌じゃない。
慰めでもない。
祈りでもない。
ただの、記録だ。
人がどうやって壊れていくかの。
⸻
「……書く」
小さな声で、呟く。
誰にも聞こえない。
「全部、書く」
飢えも。
奪い合いも。
見たくないものも。
全部。
残す。
たとえ、この身体が弱くても。
戦えなくても。
僕は——
見て、覚えて、書くことができる。
⸻
遠くで、また鐘が鳴った。
短く、二度。
誰かが死んだ合図だ。
誰も起きない。
誰も騒がない。
ただ、音だけが夜に溶けていく。
僕は天井を見つめた。
あの染みは、まだここにある。
前の世界とは違う。
でも、同じだ。
人は、こうして忘れていく。
だから——
忘れる前に、書く。
この世界が、どれだけ壊れているのかを。
この戦争が、何から始まったのかを。
そのすべてを。
——百年戦争。
その最初の一行を、僕はまだ知らない。
⸻
その夜は、やけに静かだった。
誰も泣かない。
誰も喋らない。
ただ、腹の鳴る音と、遠くで鳴る鐘だけが、時折空気を揺らす。
僕は眠れずにいた。
空腹のせいか、寒さのせいか、それとも——
思い出してしまったからか。
ふと、口が動いた。意識していなかった。
ただ、勝手に。
掠れる息に乗って、音が漏れた。
かすかに、ほとんど空気のように。
それでも、確かに——旋律だった。
歌詞は出てこない。
言葉はもう、形にならない。
ただ、音だけが残っている。
途切れ途切れに、なぞる。
上がって、落ちて、また上がる。
胸の奥をえぐるような、あの流れ。
声は、ひどく弱かった。
子どもの喉。
痩せた肺。
息が続かない。
音が割れる。
かすれる。
途中で消える。
それでも、やめられなかった。
⸻
——ああ。
これだ。
と思った。
あの頃、どうしてもやめられなかったもの。
売れなくても。
誰も聴いていなくても。
拍手が少なくても。
それでも、続けていた理由。
音が、胸に触れた。
その瞬間。何かが、崩れた。
ぽたり、と。
頬に、温かいものが落ちた。
「あ……」
止まらなかった。
次から次へと、溢れてくる。
声は出ないのに、涙だけが出る。
苦しいわけじゃない。
痛いわけでもない。
ただ——
戻ってしまった。
あの狭いステージに。
照明の熱。
アンプのノイズ。
湿った空気。
誰かが腕を組んで立っている。
誰かがスマホをいじっている。
それでも、前を向いて歌っていた自分。
下手でも。
届かなくても。
それでも、歌っていた。
「……なんで」
掠れた声が漏れる。
「なんで、今なんだよ……」
こんな場所で。
こんな身体で。
こんな世界で。
⸻
旋律が、またこぼれる。
今度は少しだけ、はっきり。
震えながら。
壊れながら。
それでも、続く。
⸻
周りの子どもが、一人、目を開けた。
暗闇の中で、こちらを見ている。
何も言わない。
ただ、聞いている。
意味なんて分からないはずだ。
歌詞もない。
ただの、かすれた音。
それでも——
その子は、目を逸らさなかった。
⸻
僕は、少しだけ息を吸った。
胸が痛い。
でも、続ける。
音を、繋ぐ。
⸻
気づけば、さっきまで聞こえていた歯ぎしりが止んでいた。
寝言もない。
静かだった。
ただ、自分の掠れた旋律だけが、
この小さな部屋に、細く漂っている。
⸻
最後の音が、途切れた。
本当に、途切れた。
息が続かなかった。
それで終わりだった。
⸻
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、さっきの子どもが、小さく呟いた。
「……いまの、なに?」
僕は答えなかった。
答えられなかった。
これは、なんだ?
歌か?
違う。
祈りか?
違う。
⸻
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……分からない」
本当だった。
でも、一つだけ確かなことがあった。
⸻
さっきまで、あれほど重かった空気が、
ほんの少しだけ——軽くなっていた。
飢えも、現実も、何も変わっていない。
それでも。
ほんの一瞬だけ。
誰もが、それを忘れていた。
⸻
僕は、震える指を見つめた。
この手は弱い。
剣は持てない。
誰も守れない。
でも。
さっきの音は、確かにここから出た。
⸻
「……まだ、鳴るな」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声で。
⸻
遠くで、また鐘が鳴った。
誰かが死んだ。
世界は変わらない。
何も救われていない。
⸻
それでも。
僕は、もう一度だけ、口を開いた。
今度は、少しだけ、はっきりと。
掠れながらも。
途切れながらも。
それでも——
音を、なぞった。
⸻
この世界に。
まだ、音は残せる。




