3_五歳の僕と、知らない空
――音は、途中で途切れた。
ステージの照明がやけに眩しくて、譜面が滲んで見えたのを覚えている。
売れない音楽家。三十手前。小さなライブハウス。客は十人に満たなかった。
最後の一音を引き延ばそうとした瞬間、背後で悲鳴と、衝撃音。身体が宙に浮いて、世界が裏返り――そこで記憶は切れた。
*
「……あ」
目を開けた瞬間、まず思ったのは、天井が高すぎる、ということだった。見慣れた染みだらけのワンルームではない。木の梁。白い布。知らない匂い。
身体が、やけに軽い。というより――短い。
小さな手。細い指。布の服。
起き上がろうとして、よろけて、転んだ。
「……え?」
床が近い。声が高い。
混乱したまま、壁に立てかけられた金属盆を覗き込む。
そこに映っていたのは、見覚えのない、幼い顔だった。
*
それからしばらく、僕は泣いた。
子どもらしく、というより、状況が理解できなくて、呼吸がぐちゃぐちゃになって、勝手に涙が出た。
誰かが駆け寄ってきた。
知らない言葉。けれど、不思議と意味だけは頭に入ってくる。
「大丈夫よ」「転んだだけ」「ほら、神様に感謝して」
抱き起こされて、分かった。
ここは孤児院らしい。
僕は五歳。親はいない。名前も、ここで付けられたものしかない。
そしてこの世界には、知っている国も、言葉も、楽譜もなかった。
*
決定的だったのは、その夜だった。
子どもたちが寝静まった後、天井を見つめていると、唐突に、音が戻ってきた。あのライブハウス。安物のスピーカー。走り書きの譜面。湿った拍手。
――ああ、僕は死んだのか。
そう思った瞬間、記憶が一気に繋がった。
売れなかったこと。
努力が足りなかったのか、才能がなかったのか分からなかったこと。それでも、音楽だけはやめなかったこと。
胸が、ぎゅっと縮んだ。
この身体には、あの頃みたいな肺も、指の力もない。
息を吸うだけで、少し苦しい。
運動なんて、ろくにしてこなかった。
楽器を演奏するために、無茶もしなかった。
……戦える気がしない。
でも。
布団の中で、小さな指を動かしてみる。覚えている運指を、何もない空中に描く。
音は出ない。
けれど、確かに、旋律はここにあった。
「……まだ、書けるな」
ぽつりと漏れた声は、ひどく幼くて、頼りなかった。
それでも思った。
剣が持てなくてもいい。強くなれなくてもいい。
少なくとも僕は、“覚えている”。
音を。
感情を。
人が何を残そうとするかを。
その夜、孤児院の天井の染みを眺めながら、僕は初めてこの世界で眠った。
――この先、戦争の記録を書くことになるとも知らずに。




