2_飢え
冬は、やけに長かった。
春は来た。
暦の上では、確かに来ていた。
だが大地は芽吹かない。
畑は荒れ、田は干上がり、
何より——
耕す者がいない。
あの戦いで死んだのは兵士だけではなかった。
農民が死んだ。
粉挽きが死んだ。
牛を扱う者が死んだ。
そして残った者の多くは、
腕がない。脚がない。
あるいは、鍬を握る力がない。
春は来たが——
種が蒔かれなかった。
⸻
最初に消えたのは、家畜だった。
牛は屠られ、
豚は鍋に入り、
鶏は骨までしゃぶられた。
次に消えたのは、種だった。
麦の種。
豆の種。
次の年のために残しておくはずのもの。
だが空腹は未来を許さない。
袋は破られ、
石臼で挽かれ、
その日の粥になった。
それを食った時点で、
翌年は終わる。
だが誰も止めなかった。
止められなかった。
⸻
夏。
街道に人が増えた。
流民だ。
骨と皮だけの人間が、
家財を背負い、子を引き、
ただ歩いている。
どこへ行くのかは、本人も知らない。
「穀倉の都へ行けば、まだ食える」
そんな噂だけが彼らを動かしていた。
だが穀倉の都も——
もう食えない。
城門の外に、列ができる。
粥を求める列だ。
だが鍋の底は浅い。
杓子で掬えば、
すぐに見える。
底が。
それでも人は並ぶ。
空腹は希望よりも強い。
⸻
秋。
収穫の季節だったはずだ。
だが畑は黒い。
雑草だけが伸びている。
収穫はない。
あるのは——
人間の収穫だった。
街道脇に、倒れている。
昨日まで歩いていた者。
今朝まで息をしていた者。
誰も埋めない。
埋める体力がない。
子供が母の身体を揺する。
「起きて」
母は起きない。
子供はしばらく揺する。
やがて諦める。
そして母の懐を探る。
何か食えるものがないか。
ない。
だから子供は、また歩く。
⸻
冬。
雪が降った。
最初の雪の日、
人々は少し喜んだ。
水が飲めるからだ。
だが喜びは長く続かない。
空腹は、冬になると
別の形になる。
ある村で、男が捕まった。
鍋があった。
中には肉があった。
だが村にはもう家畜はいない。
誰かが言った。
「どこの肉だ」
男は答えない。
鍋の横には、小さな靴があった。
子供の靴だった。
村人は黙った。
怒鳴る者もいた。
泣く者もいた。
だが結局——
誰もその肉を捨てなかった。
捨てるほどの余裕がない。
⸻
春が来た。
だが村は半分になっていた。
家は空き、
畑は荒れ、
井戸の周りに人がいない。
街では、市が立たない。
売るものがない。
買う者もいない。
人は痩せて、
声も小さくなり、
そしてある日、
静かに倒れる。
誰も驚かない。
驚く元気がない。
⸻
老将は城壁の上から街を見ていた。
戦の時よりも、
ずっと顔が老けている。
彼は知っていた。
あの時。
あの戦場で。
人類は確かに滅びを押し返した。
だが今、広がっているのは
もう一つの滅びだ。
剣では防げない。
槍では殺せない。
それはゆっくりと。
確実に。
人を減らしていく。
老将は呟いた。
「……これが」
声がかすれる。
「飢えか」
城壁の下で、
粥の列がまた一人倒れた。
誰も動かない。
列は、少し前に詰めただけだった。
風が吹くたび、土埃ではなく骨の粉が舞った。
あの戦いから、三年。
大海嘯は押し止められた。
人類は滅びなかった。
だが。
大陸の四分の一が死んだ。
戦場で。
城壁の下で。
村で。
街で。
そして、その後に来たものが——
本当の地獄だった。
⸻
最初は、ただの「不作」だった。
畑を耕す人がいない。
種を蒔く人がいない。
麦を守る人がいない。
黄金の穂で埋まっていたはずの穀倉地帯は、
雑草と瓦礫と、
そして墓で埋まっていた。
人々は最初、倉を開けた。
備蓄の穀物。
軍の兵糧。
寺院の蓄え。
それで一年は凌げた。
だが二年目。
倉は空になった。
⸻
街では、パン屋の前に長い列ができた。
朝から並ぶ。
昼になっても並ぶ。
夕方になっても並ぶ。
そして、扉が開く。
パン屋は袋を見せる。
空だ。
列の最後尾から、誰かが崩れ落ちる。
それが日常になった。
⸻
村では、犬がいなくなった。
次に猫がいなくなった。
次に、鶏がいなくなった。
最後に——
人がいなくなった。
旅人が村に入ると、家の戸は開いたまま。
囲炉裏は冷え、鍋には泥水が残っている。
そして井戸のそばに、
干からびた死体が一つ。
腹は膨れ、
手は自分の腹を掻きむしっている。
飢えた人間は、腹を掻く。
中に何かある気がするのだ。
何もないのに。
⸻
都市では、別の光景があった。
市場に、人が集まる。
売られているのは——
革。
靴底。
古い鞄。
馬具。
それを煮る。
何時間も煮る。
膨らんだ革を噛む。
味はない。
だが胃の中に何かが入る。
それだけで人は涙を流す。
⸻
三年目。
城門の外に、小さな影が現れた。
子供だった。
七歳くらい。
骨と皮だけ。
兵士が近づく。
子供は、震える手で何かを差し出す。
布に包まれた塊。
兵士が開く。
中には——
赤ん坊の腕が入っていた。
子供は言った。
かすれた声で。
「パン……」
兵士は吐いた。
⸻
川では、死体が流れていた。
誰も拾わない。
拾えば食うしかないからだ。
夜になると、人影が川に入る。
死体を引き上げる。
骨を削る。
肉を削る。
火で炙る。
翌朝、岸には白い骨だけが残る。
⸻
墓地は役に立たなかった。
人は、死体を埋めない。
埋める余裕がない。
土を掘る力がない。
そして——
埋めれば食えなくなる。
夜になると墓が掘り返される。
棺が開けられる。
骨が砕かれる。
脂を削る。
それを煮る。
街ではそれを**「白い粥」**と呼んだ。
誰も中身を言わない。
言えば狂うからだ。
⸻
飢えは、人間を変える。
父が息子の皿を奪う。
妻が夫のパンを隠す。
兄が弟を殴る。
そしてある夜。
一つの村で、火が上がった。
隣の村が襲ったのだ。
理由は単純だった。
「あの村にはまだ食べ物がある」
それだけ。
男たちは殺された。
女は連れていかれた。
子供は——
その場で解体された。
⸻
五年後。
飢饉は終わった。
終わった理由は、単純だった。
食べる人間が減ったからだ。
戦争で四分の一。
飢えでさらに四分の一。
世界の半分が消えた。
街は空き家だらけ。
畑は草だらけ。
人類は生きている。
だが、誰も同じ世界には住んでいなかった。
⸻
国境は崩れた。
そして新しい線が引かれた。
食糧を持つ者。
持たない者。
生き残った者。
奪うしかない者。
人はもう知っている。
飢えるということを。
あの地獄を。
だから。
誰も譲らない。
誰も信じない。
誰も隣人を見て笑わない。
⸻
ある歴史家が、後にこう書いた。
「大海嘯は、人類を滅ぼさなかった」
「だが」
「飢えが、人類を壊した」
その年。
最初の大戦が始まった。
大陸中の軍が動いた。
麦畑のために。
倉庫のために。
川のために。
そして。
それは終わらなかった。
十年。
二十年。
五十年。
百年。
人はそれを、後にこう呼ぶ。
百年戦争。
だが、その始まりを見た老人たちは、
別の名前で呼んでいた。
静かに。
低く。
震える声で。
「——飢えの戦争だ」




