1_大海嘯
黒雲のようなものが、地平線の向こうから押し寄せていた。まるで全てを飲み込む津波の様だった。
最初にそれを見た斥候は、言葉を失った。
雲ではない。霧でもない。
——動いている。
数だ。
数、数、数。
大地そのものがうねっているかのようだった。
牙、角、爪、甲殻、黒い鱗。
魔物、魔獣、名も知れぬ異形が、山崩れのように人の領域へと雪崩れ込んでくる。
それはまさに**大海嘯**だった。
すでに幾つもの国が消えた。
城壁は噛み砕かれ、街は踏み潰され、
人は——餌になった。
原因は噂だけが流れている。
どこかの小国が、魔物の領域に手を出した。
禁じられた谷に兵を入れ、宝を奪い、
そして——何かを殺した。
その報いだと。
だが、真相など関係ない。
今、押し寄せているのは**世界の終わり**だ。
---
大陸中央。
黄金の穂が風に揺れるはずだった場所。
**大穀倉地帯。**
だが今、麦は刈り取られていた。
兵糧としてではない。
**視界を確保するためだ。**
数万の兵が並び、槍が壁のように並ぶ。
その先には黒い地平。
誰もがそれを見ていた。
そして——
一人の老将が前へ出た。
鎧は古い。
傷だらけだ。
顔には深い皺が刻まれている。
だが、その声は雷だった。
---
「兵士たちよ」
ざわめきが消える。
老将は、ゆっくりと魔物の海を指さした。
「見ろ」
「世界の終わりだ」
誰も否定しない。
あれは軍ではない。
災害だ。
生き物の形をした**滅び**だ。
老将は続けた。
「すでに幾つもの国が消えた」
「城も、王も、民も」
「すべてだ」
沈黙。
遠くで魔獣の咆哮が響く。
地面が震える。
だが老将は一歩も引かない。
「だが——」
声がさらに低くなる。
「ここを越えればどうなる」
兵士たちは知っている。
後ろにあるのは——
村。
町。
都市。
そして——
**畑。**
老将の拳が震えた。
「この地は大陸の胃袋だ」
「ここを失えば何が起きる」
誰も答えない。
老将が代わりに言った。
「飢える」
「すべてがだ」
声が怒りに変わる。
「人類は飢える!」
「そして飢えた人間が何をするか、貴様ら知っているだろう!!」
沈黙。
兵士の中に農民の息子がいる。
父親がいる。
兄がいる。
老将は叫んだ。
「人は!」
「食うために!」
「人を殺す!!」
空気が凍る。
「隣人を刺す!」
「村を焼く!」
「子供からパンを奪う!」
拳が震えている。
「母が——」
声が掠れた。
「妻が——」
歯を食いしばる。
「娘が——」
怒声が爆発した。
「蹂躙される!!」
「殺される!!」
兵士たちの目が血走る。
老将は、剣を抜いた。
鋼が光る。
その切っ先を——
魔物の海へ向けた。
「何があっても」
声は静かだった。
「そんな世界には」
一拍。
「させん」
剣が振り下ろされる。
「ここは人類の門だ!!」
「門番は我らだ!!」
咆哮。
「退くな!!」
「折れるな!!」
「死んでも立て!!」
老将の声が裂ける。
「**死守だ!!**」
「ここを失えば!!」
「世界は終わる!!」
兵たちが叫ぶ。
「死力を尽くせ!!」
老将の最後の言葉は、怒号ではなかった。
低く。
重く。
燃える声だった。
「——戦え」
その瞬間。
黒い地平が崩れた。
魔物の海が——
**襲いかかった。**
---
夜明けは、あまりにも静かだった。
昨日まで地平を埋め尽くしていた咆哮は、もうない。
空には黒煙が細く上がり、焦げた臭いが風に混じっている。
大海嘯は——止まった。
押さえ込んだのだ。
あの黒い奔流を。
牙と爪の海を。
世界を呑み込もうとしていた災厄を。
人類は、生き延びた。
だが。
勝利の歓声はどこにもなかった。
---
戦場は、静まり返っていた。
麦を刈り払って作ったはずの広野は、
いまや別のもので覆われている。
倒れた兵。
砕けた槍。
裂けた旗。
そして——
人。
どこまでも、どこまでも。
老将はゆっくりと歩いていた。
鎧は割れ、肩から血が流れている。
だが彼は気にもしていない。
足元に横たわる男の顔を見た。
まだ若い。
泥にまみれた頬に、乾いた涙の跡がある。
「……お前は」
老将は思い出した。
この男は、徴募の日に言っていた。
**「麦刈りが終わったら帰ります」**
そう言って笑っていた。
帰らなかった。
老将は目を閉じた。
少し先には、鍛冶屋の息子が倒れている。
その隣には、村の書記官。
さらに向こうには、粉挽き職人。
兵士ではない。
**兵士でもあった人々**だ。
鍬を置き、
鎚を置き、
筆を置き、
槍を取った者たち。
そして。
ほとんどが——帰らなかった。
---
丘の上に登ると、大地が見えた。
かつてここは黄金だった。
秋になれば、風が吹くたび
**黄金の麦穂が海のように揺れた。**
大陸の穀倉。
人類の胃袋。
だが今は違う。
大地は黒く焦げ、
踏み荒らされ、
血と灰に覆われている。
耕す者はいない。
残った者も、腕がない。
脚がない。
あるいは——心が折れている。
老将は理解していた。
この土地は。
もう——
**すぐには実らない。**
一年では無理だ。
二年でも足りない。
耕す人がいない。
種を蒔く人がいない。
麦を守る人がいない。
沈黙の中で、風だけが吹いた。
遠くで生き残った兵たちが、
仲間の遺体を運んでいる。
静かに。
誰も泣いていない。
泣く力も残っていないのだ。
老将は、焦げた土を握った。
指の間から、黒い土がこぼれる。
その下に——
折れた麦の根が見えた。
かつて黄金を生んだ大地。
彼は呟いた。
声はほとんど風だった。
「……守ったか」
しばらく沈黙したあと。
老将は、ゆっくり首を振った。
「いや」
目の前に広がる荒野を見つめる。
「守ったのは——」
遠くの地平。
まだ残っている村。
まだ残っている街。
そして、まだ生きている人々。
老将は低く言った。
「時間だ」
風が吹く。
焦げた大地を渡っていく。
その風の中で、老将は立ち尽くしていた。
人類は生き延びた。
だが。
その代償は——
**あまりにも重かった。**




