5話:契約書
それぞれソファに着座する。
ティーセットが配膳されると、私はすぐ本題に入った。
「本日はお別れをお伝えしに来たんですの」
「お別れ?」
大仰に足を組んだローガンは、随分偉そうだ。居丈高な様子の彼に、私は微笑みを浮かべた。
「ええ。安心なさって。もう、あなたと王女殿下にはお会いしませんから」
「当てつけのつもりか?」
「まさか!もう二度と、あなた方には関わらない、という意思表明です。これをお持ちしました」
同行した侍女のミーシャに視線を向けると、彼女は頭を下げて、一枚の書類を持ってくる。
それを受け取って、テーブルの上に広げた。
ローガンの眉の間に、深い皺が刻まれた。
「これは?」
「契約書です。あなたと王女殿下には金輪際関わらない、という内容の。私の存在は、あなた方を随分悩ませたでしょう。まあ、私も同じくらい、あなたたちの存在に悩まされたのですけれど……」
「それがなんだ?恨み言か。まさかとは思うが、お前、こんなものを渡すためにわざわざここまで来たのか?」
言外に暇人だと言われ、それに肩を竦めた。
「あら。あなたが──そして、恐らく王女殿下も。随分、私の存在を気にしていらっしゃるようでしたから、好意で用意したのですけれど。お気に召しませんでした?」
「ふざけるな。何を企んでいるんだ?彼女に……デライラに何をする気だ?」
何を……って。
(だから何もしないから、その証明のためにこれを持ってきたんでしょ!!)
なんで分からないのかしら!?
確かに今まで、しつこかった女がいきなりこんな契約書を持ってやってきたら、怪しむのも分かる。
(でもね、ローガン!?
あなたはそんなことを言える立場にはないわよね!?)
私とローガンと王女殿下の立場は、前世風に言うなら【目をかけていた自社のアイドルが、自分を裏切って他の事務所に所属を決めたようなもの】だろう。
それに納得がいかず、問い合わせを続けていたら、相手の事務所から『法的措置取りますけど!?』って逆上されたようなものだ。
こんなの、ハァ?って思わない方がおかしい。
王女殿下の立場とか、ローガンに起きたこととか、本当にどうでもいい。
私は、私に起きたことに焦点を当て、私のために怒っている。
他人の事情を汲んだり、察したりといった気遣いはもう品切れだ。
売り切れ御免状態なのよ!!
いっそ私もローガンや王女殿下のことを口汚く罵ってやろうかと思ったけど、それはやめた。
自身の品位を落とすだけだから。
口元が引きつったが、私は契約書を引いた。
「では、これはいらないのかしら」
「いらないとは言ってない」
(何なのよ!!
何なのよ、こいつは!?)
と、言わなかった私を褒めて欲しい。
ローガンはその場で署名した。
私の方は既に署名済みだ。
これで、この契約書は強い効力を持つことになる。
もし私がこの契約を破った場合、ローガンは然るべき場所──つまり、裁判所に届けるだけで、私は罰を受けることになる。
どうして、こんなに私に不利な契約を結んだのかといえば、それはひとえに私自身が彼らにもう二度と、関わりたくなかったからである。
これは、私だけでなく、ローガンにも適用される契約書だ。
契約が締結したことを確認した私は、簡単に不備がないかを改めて確認した。
既に散々確認したが、ヒューマンエラーというのはどこでも起こり得るものである。
前世、事務職に就いていたのもあって、確認法は今も身についている。
目で確認、指差し確認、声出し確認、のトリプルチェック。
流石にこの場で声に出して読み上げるのははばかられたので、心の中で契約書を読み上げた。
(……よし、不備はないわね)
不備があって不履行、なんてなったらここまで来た意味が無い。
何せ、私は近日中に全てを手放すのだから。
後日、不備が発覚しても、ふたたびここを訪れることは難しいだろう。
注意深く契約書に目を通した私は、顔を上げた。
そして、にっこりと笑ってみせる。
ローガンは、変なものでも食べたような顔をしていた。
「お幸せに、ローゼンハイム卿。これは、餞別ですわ」
私はシャトレーヌに繋げていたポシェットから、小さな短剣を取り出した。
よく研がれたそれを見て、ローガンは何を勘違いしたのか、思わず、と言ったように腰を浮かした。
そして、何かに気がついたように訝しげにこちらを見た。
「餞別だと?」
「ええ。いずれ、必要になると思うわ」
もっとも、必要とするのはローガンではなく、国、だろうけど。
そう思いながら、私は一息に自身の髪を切った。
腰まである長い髪は、時間をかけて伸ばしたもの。手入れを欠かしたことの無い白い髪は、私の自慢でもあった。
雪のように真っ白な髪を一束にまとめて、顎あたりでざっくり切る。
ローガンは、これは流石に想定外だったのだろう。
ポカンと口を開けていた。