5.5話:罪の証
キャロラインが伯爵邸を飛び出した直後。
執事長ジェラルドは、いつもと同じように執務室に珈琲を運びに行った。
眠気覚ましにリュミエールはよくそれを口にする。
ジェラルドの気配に顔を上げたリュミエールは、彼を見て苦笑した。
「時期尚早だと思う?」
「いいえ。確かにあの方は手強い。ですが今まで、リュミエール様は十分なほど時間をかけてきました」
「子供の時は……伯爵位を継ぐまでは、まともに動けなかったんだから、実際動いたのはこの数年だ。僕は……本当に、あの人を失脚させることが出来るだろうか」
それは、自問自答するような声だった。
ジェラルドは黙って、カップを執務机に置く。
カタカタと風に煽られて、窓が音を立てた。
燭台に点った、仄かな灯りに照らされたリュミエールは、寄る辺のない子供を思わせた。
それに、ジェラルドが満足そうに笑う。
「リュミエール様」
「……何かな」
「私は、あなたとキャロライン様、とても相性がいいと思います」
「相性?」
突然何を言い出すんだ、とリュミエールが怪訝な顔をする。それに、ジェラルドはまた朗らかに笑った。
「慎重すぎるくらい守りを固めるリュミエール様と、思い切った行動を取る、型破りなキャロライン様。攻めはキャロライン様が、守りはリュミエール様が。完璧なタッグではありませんか!」
その言葉に、リュミエールは一瞬、呆気にとられたようだった。
だけどすぐに、ジェラルドの軽口に苦笑する。そのまま、背もたれにもたれた。
「……女性に切り込み隊長を任せるなんて、情けない限りだね」
「何をおっしゃいますか。人には向き不向きというものがあります。自分に足りない分は、相手が補う。相手の不足分は、自分が。そうできる関係というのは、なかなか得難いものですよ」
「それはお前の体験談か?」
「さて、どうでしょうね」
食えない笑みをうかべるジェラルドに、リュミエールはため息を吐いた。
彼がこんな調子なのは、もうずっと昔──それこそ、リュミエールが聖職者になる前から。
彼とは、母がまだ生きていた時からの付き合いだ。
「僕は臆病者だ。陛下に立ち向かうことを決めながら、失敗を恐れ、動けずにいた」
「慎重すぎるのは、よろしいことかと。相手は、あの陛下ですから。しかし……血筋、でしょうか」
瞬間、僅かにリュミエールの声がとがった。
「……母の?それとも、父の?」
「どちらも、でしょうか。お母様は、お強かった。どんな時でも、彼女は折れずに前を向いていた。……そしてお父様は」
リュミエールは、ジェラルドの言葉をさえぎった。
その先を、聞きたくないと思ったからだ。
「彼は、ろくでもない死に方をするだろうな」
それは、願望なのか、あるいは予感なのか。
リュミエール自身にも分からなかった。
ジェラルドも、答えなかった。
ただ、彼は黙って頭を下げ、そのまま執務室を出ていく。
とっくに月は真上に昇っていて、部屋の中は薄暗い。
その中で、彼は羽根ペンを手に取りながらも考え込んだ。
(……彼女は、怒るだろうか)
自分に秘密があることは、伝えている。
だけど、その秘密の内容まで予想はつかないはずだ。
これを知ったら、彼女はなんて言うだろう。
裏切り者、と言うだろうか。
侮蔑の目を向けられるだろうか。
だが彼は、この秘密を彼女に明かすつもりは──もっとも、誰にも言うつもりはなかった。
墓場まで持っていくのだ。
薄氷の上に成り立っている今の立場は、いつ失ってもおかしくない。
だからこそ、慎重になる。
なんてことのない出来事が、彼の生活を一変させかねない。
彼は変化を恐れていたし、僅かでも変わったことがあればすぐに報告させるようにしていた。
それも、今の生活を失いたくないからだ。
それは、ある意味、復讐──もしくは、彼自身の意地なのかもしれなかった。
自身の目的を果たすのであれば、いつかは動かなければならない。
だけど、そのいつか、を明確に定めることが出来ずにいた。
(キャロラインは……。僕が、あの事件よりずっと前から、彼女を気にしていたことを知ったら……なんて言うだろう)
間違いなく、驚くだろう。
そして、ストーカーだと思われるかもしれない。
そう思った彼は苦笑する。
彼が彼女を気にしていた理由は、とても俗なものだ。
どうしようも無い、罪の証だった。




