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それでも動いていることを

作者: P4rn0s

朝が来たというのは、音でわかる。

アパートの上の階の住人がバタバタと出ていく音。カーテン越しに差し込む、やけに白々しい光。あと、スマホに溜まった通知の振動音。

それらを一つひとつ確認しなくても、体は勝手に「今日が始まった」と判断する。

でもそれに合わせて、自分の中の何かが動き出すわけではない。

布団の中でぼんやりと横になったまま、何かを思考しているふりをして、ただ、じっとしている。


最近、空腹を空腹だと思わなくなった。

朝ごはんを抜くのも、昼ごはんをスキップするのも、特に苦ではない。

むしろ、口に何も入れずにいるほうが、頭が冴えている気がする。

職場の同僚が「お腹空いたー」と笑いながらパンをかじる姿を見ても、うらやましいとは思わない。

代わりに、頭の奥で小さな考えがひとつ、ふわりと浮かぶ。


──“お腹が空いた”って思えるの、ちゃんと生きてる証拠なんだろうな。


たとえば、朝の通勤電車。車内は混んでいて、誰もが無表情だ。

目は虚ろで、脳のどこかに「あと何駅」「遅刻しないか」「あの資料仕上がってたっけ」といった数字的な計算だけが流れている。

そのなかで私は、ただひたすら、どうでもいいような思考をずっと巡らせている。

「もし今日、世界がちょっとだけ傾いたら、最初に倒れる建物はどこだろう」とか、

「“約束”って言葉に心を預けすぎると人間って壊れるな」とか、

「水のように生きるって誰かが言ってたけど、それって溺れることと紙一重だよな」とか。

考えたところで何にもならないのに、そういう思考が次から次へと浮かんでは、流れていく。

そのたびに、少しだけ体の重さが抜ける気がする。

まるで、それが“栄養”みたいに。

心の中でつぶやくように思考することで、私は何かを食べてるんじゃないかと思う。

食事を摂らずとも、文字や音や匂いを吸い込んで、それで生きてる。

栄養がなくても生きていけるような気がする。

思考さえあれば。


会社に着き、デスクに座り、PCを立ち上げる。

メールの山を片付け、淡々と数字を処理し、電話に出る。

自分が誰なのか、何をしているのか、ふとわからなくなる瞬間がある。


けれど、頭の中では常に、何かが回っている。


たとえば、

「どうして人は“自分が生きてる”と確信しないと、安心できないのか」とか、

「誰かに見られてると思っているときの“自分”って、本当の自分なんだろうか」とか。

その思考は、ときに不安や焦燥と隣り合わせだけど、でも止まってしまうよりはマシだ。

もし頭の中が空っぽになったら、自分が「今ここにいる」と思えなくなる。

同僚がコンビニのチキンを片手に話しかけてくる。

「今日、お昼どうするんですか?」

私は笑って、「なんか、あんまりお腹空いてなくて」と返す。

それは本当だし、同時に嘘でもある。

空腹じゃないんじゃなくて、空腹を“空腹”として認識できなくなってるだけかもしれない。

体の信号を受け取るより、脳内の思考が早すぎて、すべて上書きされてしまうのだ。

彼女は「倒れないようにしてくださいね〜」と笑って自分の席に戻っていった。

優しい人だな、と思う。

けれどその優しさすら、どこか現実味がない。

そう思ってしまう自分に、ほんの少しだけ罪悪感を覚える。


午後も過ぎて、仕事が落ち着いてくるころ、ふと、天井を見上げる。

白くて何もないその空間に、さっきまで考えていた思考の残り香がふわっと漂っている気がした。


何も食べてないのに、こうして今日も動いている。

体も、心も、最低限の熱だけを燃やして、そこに存在している。


“本当に大事な栄養って、食べ物じゃないのかもしれないな”


そんな言葉が浮かぶ。

でも、それも一時的な言い訳かもしれない。

今は思考で生きられているだけで、ある日ふと、何も浮かばなくなったときに、私はようやく「何かを食べなきゃ」と思うのだろう。


今日もまた、電車に揺られながら、脳内では延々と思考がぐるぐると回っている。

考えて、考えて、考えて。

それでやっと、“生きている気がする”。


きっとそれだけで、生きていける日もある。

そしてそれだけでは、いけない日も、ある。


でも、今はそれでいいと思える。

それが今の、自分の“生命維持”のかたちなのだ。

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