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初めてのダンジョン(子連れ)⑤

 

 グレンフォルトの北門をくぐり、しばらく歩くと巨大な洞窟がぽっかりと口を開けていた。


 ここが、衛星ダンジョン『滄溟の原野』の入り口だ。


 ダンジョン特有の、ひんやりと湿った空気が肌を撫でる。私は乳母車の幌を少し深くし、レーラに冷気が直接当たらないようにしてから、躊躇なくその闇の中へと足を踏み入れた。


 数歩進んだだけで、景色は一変した。


 背後の薄暗い洞窟は嘘のように消え去り、目の前にはどこまでも広がる草原、高く澄み切った青空が広がっていた。もちろん、これはダンジョンが生み出した幻影だ。この空に太陽はなく、魔力の光が全てを照らしている。風も、花の香りも、全てが偽物。


 だが、その精巧さは本物と見紛うほどで、レーラは乳母車の中から初めて見る広大な景色に「あー」「うー」と感嘆の声を漏らし、きらきらと目を輝かせている。


「ふふ、綺麗ね、レーラ」


 その無邪気な反応に、私の頬も自然と緩む。屋敷の天井ばかり見ていたこの子にとって、この偽りの世界はどれほど新鮮なのだろう。それだけでここに来た価値はあったと思えた。


 ダンジョンに入って一時間。状況は驚くほど楽なものだった。


 出現するモンスターは、ぷるぷると震える青いスライムや、前歯がやたらと大きいファングラビットといった、いわゆる最弱クラスの雑魚ばかり。


 こちらに気づいて跳ねてくるスライムを、私は鞘に収めたままのアイシングフェイタルで軽く打ち払う。ぽよん、とゴムボールのように弾け飛んだスライムは、地面に落ちるとしょんぼりとした様子で逃げていった。

「ぴぎっ!」


 最初にモンスターの甲高い鳴き声を聞いた時、レーラはびくりと体を震わせて、べそをかきそうになった。

 だが、私が「大丈夫よ、お母さんがやっつけたからね」と笑いかけ、乳母車を優しく揺らしてやると、すぐにけろりとして、また窓の外の景色に夢中になる。どうやら、私の傍にいれば安全だと、この小さな頭でも理解してくれているらしい。


 その絶対的な信頼が、嬉しくもあり、身の引き締まる思いでもあった。


(それにしても……楽すぎるわね)


 正直、拍子抜けだった。冒険者時代の勘が、手応えのなさに少しばかり物足りなさを訴えている。

 だが、今の私は一人ではない。


 この腕一本で全てを守り抜かなければならない、か弱い(世界一可愛い)娘がいるのだ。このくらいの難易度が、今の私たちにとっては最適解なのだろう。


 私はレーラの機嫌をうかがいながら、乳母車をゆっくりと押し、草原の小道を進んでいった。

 その時だった。


「―――きゃあああっ!」


「くそっ、下がってろリナ! こっちに来るな!」


 茂みの向こうから、若い男女の悲鳴と、甲高い金属音が響いてきた。


 この声、この雰囲気。明らかに、戦闘だ。しかも、かなり追い詰められている。

 私は即座に辺りに他の気配がないと見ると乳母車を近くの大きな岩陰に隠し、レーラに聞こえるか聞こえないかくらいの小声で囁いた。


「いい子だから、少しだけ待っててね。すぐに戻るから」


 レーラはきょとんとした顔で私を見ている。その頬にそっとキスを落とし、私は音もなく茂みの方へと駆け寄った。


 葉の隙間から覗き見ると、予想通りの光景が広がっていた。


 まだ十代半ばといったところだろうか。剣と盾を構えた少年と、杖を握りしめた少女の二人組が、三体のホブゴブリンに囲まれて苦戦していた。ホブゴブリンはゴブリンの上位種で、人間の子どもくらいの体躯だが、筋力は大人以上。見習い冒険者が相手にするには、少し荷が勝ちすぎる相手だ。


「このっ、このっ!」


 少年――カイルと、少女が叫んでいた――は必死に盾で棍棒の攻撃を防いでいるが、一撃ごとに体勢を崩し、じりじりと後退している。その顔には、焦りと恐怖が色濃く浮かんでいた。


「リナ! 魔法はまだか!?」

「ご、ごめんなさい、カイル! 『ファイア・アロー』! ……きゃっ!」


 少女――リナは震える声で呪文を詠唱するが、恐怖で集中できないのか、放たれた炎の矢は狙いを大きく外し、明後日の方向に飛んで消えていった。それを見たホブゴブリンが、下卑た笑い声を上げて少女ににじり寄る。万事休す、といったところか。


(やれやれ。アイナに『他の冒険者と積極的に関われ』とは言われたけど、早速お守りをさせられることになるとはね)


 これも何かの縁、というやつだろう。見て見ぬふりをして、後でこの二人が無残な姿で発見された、なんて話を聞くのは寝覚めが悪い。


 私はすぅ、と息を吸い、アイシングフェイタルの柄に手をかけた。


「――そこまでよ」


 低い声で告げると、三体のホブゴブリンが一斉にこちらを振り向いた。その醜悪な顔が、新たな獲物を見つけた喜びに歪む。二人の見習いは、突然現れた私を見て、目を丸くしていた。


「な、誰だ!?」

「ギギッ!」


 一体のホブゴブリンが、棍棒を振りかざして真っ直ぐに突進してくる。

 速いが、あまりに単調な攻撃。


 私は半歩だけ身をずらし、その勢いを柳に風と受け流す。すれ違いざま、抜き放ったアイシングフェイタルの切っ先が、閃光のようにホブゴブリンの首筋を掠めた。


「ギ……?」

 何が起こったか分からない、という顔で固まるホブゴブリン。その首筋には、一本の赤い線。そして、その線を中心に、白い霜がパキパキと音を立てて広がっていく。次の瞬間、ホブゴブリンは悲鳴を上げる間もなく、凍りついたまま地面に崩れ落ちた。


「ギヒィッ!?」


 ゴブリンの悲鳴と共に少年と少女が、信じられないものを見たという顔で息を呑む。


 残りの二体が、仲間をやられた怒りで警戒も忘れて同時に襲い掛かってきた。左右からの挟撃。だが、それも私にとっては、ただの的が二つに増えただけに過ぎない。


 私は地面を軽く蹴り、まるで舞うように宙を舞った。二つの棍棒が空中でぶつかり合い、愚かなモンスターたちが互いの頭を強打する。その一瞬の隙を、私が見逃すはずもない。


 着地と同時に体を反転させ、流れるような動きで二度の突きを繰り出す。

 シュッ、シュッ、と空気を切り裂く微かな音。


 二体のホブゴブリンは、心臓を正確に貫かれ、声もなくその場に崩れ落ちた。その傷口からも、やはり白い霜が広がっている。


 一瞬の静寂。


 私は剣を軽く振るって血糊を払い、何事もなかったかのように鞘に収めた。

 振り返ると、助けられた二人が、口を半開きにしたまま呆然と私を見つめていた。


「……ふぅ」


 私は小さく息をつき、彼らに一瞥もくれずにレーラの待つ岩陰へと戻った。


「お待たせ、レーラ。悪い奴らはもういないわよ」


 乳母車を岩陰から出すと、助けられた二人が慌てて駆け寄ってきた。


「あ、あの! ありがとうございました!」


「す、すごい……! 今の、一体……。お、お強いんですね! もしかして、Aランクとか、もっと上の冒険者の方ですか!?」


 少年が興奮気味にまくし立てる。私は彼らに視線を向け、ぶっきらぼうに答えた。


「通りすがりよ。それより、あなたたち、新米でしょう? ギルドの依頼なら、もっと身の丈に合ったものを選ぶべきだわ」


「う……はい、すみません……」


 私の指摘に、少年はシュンとうなだれる。隣の少女は、今にも泣き出しそうだ。


「僕、カイルって言います! こっちはリナ! 僕たち、ギルドから『月光草』っていう薬草を採取する依頼を受けて、ここに来たんです。本来なら、ホブゴブリンなんて出ないはずの安全なルートだったんですけど……」


「ご、ごめんなさい……。私が、もっと早く魔法を撃てていれば、カイルに怪我をさせずに済んだのに……」


 見れば、カイルの腕には真新しい切り傷ができている。大した傷ではないが、このままでは依頼の続行は難しいだろう。


「もう僕たちだけじゃ無理だ……。依頼、失敗だね……」

「うう……ごめんなさい……」


 落ち込む二人を見ていると、なんだか大きな犬と小さな猫が雨に打たれているようで、少しだけ、ほんの少しだけ、罪悪感が湧いてきた。


(……仕方ないわね)


「分かったわ。その月光草とやら、私も探すのを手伝ってあげる」

「「えっ!?」」


 私の言葉に、二人は顔を上げて鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。


「い、いいんですか!? でも、俺たち、お礼できるようなものなんて……」

「別に、あなたたちのためにやるわけじゃないわ」


 私は乳母車の中のレーラに視線を落とす。彼女は、私の指を小さな手でぎゅっと握っていた。


「この子に、外の景色をもう少し見せてやりたいだけ。ついでよ、ついで」


 そう言うと、カイルとリナの顔が、ぱあっと明るくなった。


「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」

「わ、私たち、足手まといにならないように、頑張ります!」


 こうして、私とレーラの二人パーティーは、思いがけず四人(?)の臨時パーティーとなった。

 カイルが、私の隣にある乳母車を不思議そうに、そして恐る恐る覗き込む。


「あの……その、赤ちゃん? は……もしかして、あなたのお子さん、ですか……?」

「ええ」


 私は真顔で、きっぱりと答えた。


「私の、大事なパーティーメンバーよ」

「……ええええええええ!?」


 少年少女の絶叫が、偽りの青空に高々と響き渡った。

 私の新たなダンジョン攻略は、どうやら思った以上に賑やかなものになりそうだ。

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