初めてのダンジョン(子連れ)④
意識が、どろりとした深い沼の底からゆっくりと浮上してくる感覚。
最後に覚えているのは、アイナが手配してくれた清潔なベッドに、レーラと共に倒れ込むように身を横たえたことだった。どれくらい眠っていたのだろう。鉛のように重かった体は嘘のように軽く、頭もすっきりしている。
目を開けると、窓から差し込む光はとっくに正午の鋭さを失い、部屋の床に気怠げなオレンジ色の四角形を描いていた。
(……昼過ぎ? いや、もう夕方に近いわね)
どうやら、丸一日近く眠りこけていたらしい。追い出された夜の極度の緊張と疲労、そして旧友との再会による安堵が、私の中に溜まっていた澱を全て洗い流し、まるで気絶するかのような深い眠りへと誘ったようだ。
そこまで思考して、はたと気づく。
いつも隣にあるはずの、小さな温もりがない。
私の腕が、レーラの重さを感じていない。
「――ッ!?」
一瞬で血の気が引いた。心臓が氷の塊に握りつぶされたかのように、ドクン、と大きく嫌な音を立てる。
「レーラ!?」
思考よりも先に体が動いていた。ベッドから転がるように起き上がり、部屋の中を見回す。いない。どこにも、あの小さな姿はない。まさか、ゲルトナーの追手がここまで!? いや、ここはギルドの宿舎、アイナがいる場所だ。そんなはずは……!
パニックで真っ白になった頭で、必死に昨夜の出来事を手繰り寄せる。そうだ、アイナが言っていた。
何かあったら職員が面倒を見ると。
そうだ、落ち着け、私。元『雷霜の剣帝』が、娘が隣にいないくらいで取り乱すんじゃない。
それでも逸る心を抑えきれず、私は慌てて部屋を飛び出した。幸い、廊下の先にある談話室から、やけに楽しげな女性たちの黄色い歓声と、それに混じって聞き覚えのある、きゃっきゃという愛らしい声が聞こえてきた。
「まあ、レーラちゃん! ギルドマスターの若い頃の写真よ、見てごらんなさい! 今と違って可愛らしいでしょう?」
「こら! 勝手に執務室から持ち出すな! それよりレーラ様、こちらのミルクはいかがです? 最高級のブレンドでございます!」
「あーん、こっち向いて! その天使の微笑みを私だけに……! この一瞬を魔法で記録しておきたい!」
「このほっぺの弾力……ああ、故郷の母が作るパンを思い出します……」
談話室の扉をそっと開けると、そこには想像の斜め上を行く光景が広がっていた。
非番らしい数人の女性職員たちが、我が娘レーラをぐるりと囲み、貢ぎ物を捧げる信者のように熱狂的な視線を送っている。
一方、当のレーラはといえば、差し出されたスプーンを掴もうと小さな手を懸命に伸ばしたり、お世辞にも上手いとは言えない職員のあやし歌に声を上げて笑ったりと、完全に場の中心人物として君臨していた。その様は、さながら幼き女王とその侍女たちだ。
私の存在に気づいた一人が、はっとしたように立ち上がる。
「べ、ベル様! お目覚めでしたか! その、レーラ様があまりにも可愛らしかったもので、つい……」
「いいのよ、ありがとう。助かったわ」
私が微笑むと、職員たちはほっとしたように胸を撫でおろした。
(流石は私の娘。生まれながらにして人心掌握術を心得ているとは、末恐ろしいわ。このカリスマ性、将来は大陸を動かす女帝になるのでは……?)
親バカ全開の感想を胸に、私はレーラを抱き上げて部屋に戻った。
さて、感傷に浸っている暇はない。戦いの準備をしなければ。
運び込まれていた荷物の中から、ひときわ丁寧に梱包された細長い木箱を取り出す。
そっと蓋を開けると、黒いビロードの上に静かに横たわる一振りのレイピアが、薄暗い部屋の中で冷たい光を放っていた。
「久しぶりね、アイシングフェイタル」
友に語りかけるように呟き、その柄を握る。手に吸い付くような、懐かしい感触。しゅるり、と鞘から抜き放つと、澄み切った金属音が凛と響いた。現れた刀身は、まるで冬の早朝の空気を凝縮して鍛え上げたかのように、青白い輝きを帯びている。
この剣の真価は、その魔力にある。持ち主の闘気に呼応し、斬撃に氷の魔力を纏わせる。かつてこの剣で、火を吹くサラマンダーの喉を凍らせ、炎の精霊の核を砕いたこともあった。
手入れ用の油を染み込ませた柔らかい布で刀身をゆっくりと拭っていく。
変わらない。この鋭さ、この冷たさ。これさえあれば、私は戦える。私の腕は、まだ錆びついてはいない。
アイナの仲介で、ギルドの購買部から必要な装備を揃えた。
体の動きを阻害しない、しなやかな革鎧。悪路でも足を取られない、底の厚いブーツ。そして、今回の遠征の要、レーラを乗せるための乳母車だ。
これはもちろん、ただの乳母車ではない。アイナが「あの頑固ジジイに頭を下げてやったんだ、ありがたく思え」と言っていた、ドワーフの職人による特別製。
フレームには軽量かつ頑強なミスリル合金が使われ、車輪には衝撃吸収の魔法陣。おまけに、ゴブリンの矢くらいなら余裕で弾き返すという簡易な魔法障壁発生装置まで付いている。下手な盾よりよっぽど信頼できる、走る要塞だ。
「よし、と」
準備を終え、新調した革鎧を身に着けてみる。
「……む」
肩や腕周りは問題ない。だが、腰回りと、太腿を守るための 防具が、どうにも、ほんの少しだけ窮屈に感じた。
「ふんっ!」と息を止めて、なんとか最後のバックルを留める。昔の、贅肉の一切ない冒険者だった頃の私なら、もっと余裕があったはずなのに。
(……これがいわゆる、髀肉の嘆というやつかしら)
伯爵邸での穏やかな日々が、私の体を鈍らせたのか。一瞬、そんな考えが胸をよぎったが、すぐに首を振って打ち消した。
違う。これは、なまったんじゃない。断じて違う。
この引き締まりを失った腰、わずかに丸みを帯びた体つきは、この腕の中にいる愛しい存在を十月十日、命がけで育んできた証なのだ。この体で、レーラを産んだのだ。後悔など、一片たりともない。
むしろ、誇らしい。この僅かな窮屈さは、私が冒見者『ベル』であると同時に、母『ベルキア』になったという、何物にも代えがたい勲章なのだから。
ありがとう、私の贅肉。君は愛の結晶だ。
「よし、行こうか!」
私はレーラを走る要塞、もとい特別製の乳母車に乗せ、優しく毛布をかけてやる。レーラは新しい乗り物がたいそう気に入ったのか、ご機嫌な様子で小さな手足をばたつかせている。
準備は整った。
ギルドのロビーに出ると、私たちに気づいた職員たちがわらわらと集まってきて、まるで英雄の出陣を見送るかのように手を振ってくれた。
「ベル様、ご武運を!」
「レーラ様、お気をつけてー!」
(いや、初心者向けのダンジョンに行くだけなんだけど……)
この大げさな見送りは少し気恥ずかしいが、悪い気はしない。
私は皆に軽く手を振り返し、街の北門へと向かった。目指すは、衛星ダンジョン『滄溟の原野』。
左手で乳母車のハンドルを握り、腰のアイシングフェイタルの感触を確かめる。
さあ、行こう。
バツイチ子持ちの元令嬢、ダンジョン攻略、始めます!
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