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初めてのダンジョン(子連れ)③

 そこからの攻防は、かつて彼女と組んで共に戦った時よりも、よほど骨の折れるものだった。


「子連れでダンジョンに潜るだと? ベル、お前、本気で言ってるのか! 頭のネジが何本か飛んだか、それとも伯爵夫人の生活で脳みそまでお花畑になったか!」


 アイナはギルドマスターとしての威厳も忘れ、苛立ちも露わにデスクを叩く。幸い、今度は手加減してくれたらしく、デスクが砕けることはなかった。


「至って本気よ。脳みそは昔から、魔物と戦うための筋肉でできてるわ。それに、これしか方法がない。地上でゲルトナーの刺客に怯えながら、いつ襲われるかも分からない恐怖の中で暮らせと? そっちの方がよっぽど、レーラの心身に毒だわ」


 私は冷静に、しかし一歩も引かずに言い返す。私の腕の中で、レーラが小さな寝息を立てている。この子を守るためなら、私は悪魔にだってなってやる。


「ギルドが提携している託児所がある! 元騎士団の屈強な女団長が運営していて、セキュリティはそこらの砦より上だ! そこに預ければいいだろうが!」

「嫌よ。絶対に嫌」


 私の即答に、アイナは眉間の皺をさらに深くした。


「なぜだ! 理由を言え!」

「理由なんてない。母親が、自分の子供を傍に置いておきたいと思うのに、理由がいるの? この子が私の目の届かない場所にいる、その一瞬が、私には耐えられない。それだけよ」


 私の言葉に、アイナはぐっと言葉を詰まらせた。彼女もまた、頭ごなしに否定することはできなかったのだろう。

 しかし、彼女はすぐにギルドマスターとしての仮面を被り直す。


「……だがな、ベル。ギルドマスターとして、そんな前例は作れない。万が一、ダンジョン内でお前の娘に何かあれば、ギルドの信用は失墜する。第一、冒険者仲間たちが黙っちゃいねえ。子連れの冒険者を、誰が仲間として信用する? 足手まといだと、後ろ指をさされるのがオチだ」


「だから、パーティーは組まない。ソロで潜るわ。私と、レーラの二人で」

「余計に無謀だと言ってるんだ!」


 売り言葉に買い言葉。互いの主張はどこまでも平行線を辿り、時間だけが虚しく過ぎていく。


 ふと、レーラが「うにゅ……」と小さな声で身じろぎし、私の胸に顔をすり寄せてきた。その無防備な仕草に、張り詰めていた私の心が、ほんの少しだけ和らぐ。


 その様子を見ていたアイナが、ふう、と長い長い溜息をついた。その表情には、怒りよりも深い疲労と、そして諦観の色が浮かんでいた。


「……ああ、もう、分かった。分かったよ……。お前が一度こうと決めたら、竜が来たって聞かねえもんな。昔から、そうだった」


 彼女はガシガシと紅蓮の髪をかきむしり、天を仰いだ。

「ただし、条件がある。これは絶対に譲れん」


 アイナは指を一本立て、真剣な眼差しで私を射抜いた。


「『嘆きの深淵』本体に潜ることは、絶対に許可しない。お前が潜っていいのは、その周辺に点在する『衛星ダンジョン』の一つだけだ。まずはそこで、子連れでの活動が可能かどうか、お前自身が証明しろ」


 衛星ダンジョン。

『嘆きの深淵』のような規格外のダンジョンが形成される際、その強大な魔力の影響で周囲に生まれるとされる、いわばダンジョンの『雛』だ。


 規模は小さく、基本的に一~十階層程度で完結している。最奥にはボスがいるが、倒しても一定期間で復活するため、安定した狩り場として、主に初心者の訓練や、特殊なスキルを試したい中級者に利用されている。


「……いいわ。それで手を打ちましょう」

 私も、これ以上を望むのは酷だと分かっていた。まずは実績を作り、周囲を納得させるのが先決だ。何より、これが大きな一歩であることに違いはない。


「それから、定期的に俺の査定を受けること。この俺が直々にお前の活動状況を確認する。少しでも危険だと判断したら、即刻ライセンスを停止する。分かったな?」


「ええ、分かったわ。ギルドマスター直々の査定なんて、光栄ね」

 私が少し皮肉を込めて言うと、アイナは「うるせえ」と悪態をついた。


 こうして、私の無謀な挑戦は、なんとか第一歩を踏み出す許可を得たのだった。


 そこからは、話が驚くほどスムーズに進んだ。まるで、堰を切ったように。


 大八車に積んできた、もはやガラクタの山にしか見えない荷物をどうするか。当面の装備はどう調達するか。どの衛星ダンジョンが、今の私の腕と、そしてレーラの安全を両立するのに適しているか。


「このドレスはすぐに売る。この宝石も。……これは、夫からもらったものだから、手元に」


「この剣は……ああ、やっぱり、これがないと落ち着かない」


 木箱の中から、かつての愛剣を取り出す。貴族の生活で鈍ったはずの指が、その柄の感触を鮮明に記憶している。


「相変わらず見る目は確かだな、お前。その剣、そこらの魔法剣よりよっぽど質がいい」

 アイナが私の手元を覗き込み、感心したように言う。


「潜るなら『黒小鬼の洞穴』は避けろ。あそこの奴らは単純に数が多い、死角を突いてくる。子連れには最悪だ。『粘液の沼』もダメだ。スライムの酸で、嬢ちゃんの柔い肌がただれる」


 文句を言いながらも、彼女の口から出るアドバイスは的確で、ギルドマスターとしての経験と知識に裏打ちされたものだった。やはり、彼女はこの街の冒険者たちのことを、誰よりも真剣に考えているのだろう。


 そうして、まるで戦の前の作戦会議のように熱中して話し込んでいるうちに、ふと気づくと、執務室の窓の外が白み始めていた。東の空が、優しい乳白色に染まっている。


「おっと、いけねえ。もうこんな時間か」

 アイナはガシガシと頭を掻きながら、大きく伸びをした。


「お前さん、宿は決まってるのか?」

「ええ、一応……大八車ごと泊まれる安宿を」

「却下だ。そんなダニの巣みたいな場所に、生まれたての嬢ちゃんを寝かせられるか。ギルドの職員用宿舎に、ちょうど客員用の空き部屋がある。そこを使え。警備も万全だ」


「でも、それは悪いわ……」

「いいから、甘えとけ。元同業者への、俺からのささやかな餞別だ」


 その申し出は、乾いた心に染み渡るようにありがたかった。私は素直に、その厚意に甘えることにした。


「……泊まりになっちまったか。旦那には、また後でちゃんと謝んねえとなあ……」


 アイナが、ぽつりと、誰に言うでもなくそう呟いた。

 私は荷物をまとめる手をピタリと止め、ゆっくりと、まるで錆びついた機械のように、彼女の方を振り返った。


「……え?」


 聞き間違いか? 幻聴か? 今、この女は何と言った? 旦那?


「あなた、結婚したの!? あの『私はダンジョンが夫だ! そこらの男なんて見る目がねえし、私の斬馬刀より頼りにならねえ!』って、エール浴びるほど飲んではクダを巻いてた、あのあなたが?!」


 私のあまりの剣幕と、かつての自分の黒歴史を正確にトレースされたことに、アイナは「しまった!」という顔で肩を落とした。その反応は、何より雄弁な肯定の証だった。


「う、うるせえな! 人にはな、色々あんだよ、色々! お前だって伯爵夫人になっただろうが!」


「私のことはいいのよ! それとこれとは話が別! 一体どこの物好きなの!? もしかして、あのいつもあなたの後ろを金魚のフンみたいについて回ってた、やたら回復魔法だけは上手かった、気弱そうな神官の男の子?!」


「なっ……なんでそいつが出てくんだよ! そ、それ以上はやめろ! プライバシーの侵害で訴えるぞ!」


 顔をリンゴのように真っ赤にして狼狽えるアイナの姿は、あまりにも新鮮だった。あの『紅蓮のアイナ』が、男のことでこんなに取り乱す日が来ようとは。明日は槍でも降るかもしれない。


「いい? 絶対に、今度、その詳細を洗いざらい話してもらうからね! 馴れ初めからプロポーズの言葉まで、根掘り葉掘り聞かせてもらうわ!」


「わーった、わーったから! ほら、見てみろ、職員が迎えに来たぞ! さっさと行け、この元伯爵夫人!」


 アイナが必死の形相で指さす方を見ると、執務室のドアがそっと開き、若い女性職員が「あのぉ……」と困り果てた顔でこちらを窺っていた。どうやら、私たちの壮絶な(一方的な)やり取りは、全て聞こえていたらしい。


 私は「また、後でゆっくりね」とアイナに悪戯っぽくウィンクし、職員に促されるまま、まだ少しむくれているレーラを抱いて部屋を後にした。


 背後でアイナが「……最悪だ、よりによってベルに知られるとは……」と頭を抱えて崩れ落ちる音が聞こえたが、それは聞かなかったことにしておいた。

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