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初めてのダンジョン(子連れ)➀

 

 さて、と。まずは状況を再確認しよう。


 ごちゃごちゃになった頭を整理するには、それが一番だ。思考を整頓するのは、かつて魔物の群れを相手にする時も、複雑な貴族の序列を覚える時も、常に有効な手段だった。


 私の名前はベルキア。親しい人間はベルと呼ぶ。


 つい先刻まで、由緒正しきクライフォルト伯爵家の奥方、ベルキア・フォン・クライフォルトだったけれど……まあ、そのキラキラした肩書は、雪に閉ざされたあの鉄門の向こうに置いてきた。今の私は、ただのベルキア。いや、昔みたいに『ベル』と名乗る方が、なんだかしっくりくるかもしれない。


 年は十八。社交界の基準によれば、ギリギリ「うら若き」と付けても失笑を買わずに済む年頃らしい。

 恐らくもう一生、縁のない世界の話だけど。あの息の詰まる空間より、よほど雪道の方がマシだ。


 そして、私の左腕。ここに確かな重みと温もりを伝えてくる、この小さな存在が、私の全て。


 私の胸に顔をうずめ、すー、すー、と天使のような寝息を立てているのが、我が娘のレーラだ。私が羽織っていたショールは、今や彼女専用の最高級おくるみと化している。時折、もにゅ、と口を動かして何かを味わうような仕草をするのが、たまらなく愛おしい。


 うん、今日も娘はかわいい。世界で一番。これは客観的な事実だ。異論は認めない。


 よし、状況確認終わり。


 ……いや、終わってない。全然終わってないわ、私。


 これからどう生きるか、という一番大事で、一番面倒な問題が、雪だるま式に大きくなって目の前に転がっている。


 私は視線を、雪がうっすらと積もり始めた大八車へと移した。メイドたちが放り投げたせいで、雑然と積み上げられた木箱の山。これを引きずって、一体どこへ行けというのか。


「その前に、これか」


 ごそごそと懐を探り、あの家令ダリウスから半ば投げつけるように渡された皮袋を取り出す。


 ずしり、とした重み。期待もせずに口の紐を解き、中を覗き込むと、鈍い黄金色の輝きが目に飛び込んできた。


「……なるほど」

 金貨が数十枚。それに銀貨がいくらか。


 私の冒険者時代の金銭感覚からすれば、これはかなりの大金だ。これだけあれば、安宿に一月は泊まって、そこそこの剣と革鎧を新調してもお釣りがくる。


 まあ、伯爵夫人としての感覚なら、これは鼻で笑うようなはした金だろう。この金貨をすべてかき集めても、夫にプレゼントされたイヤリングの片方すら買えやしない。


 ゲルトナー卿たちが、私をどちらの人間として扱ったのか、その答えがこの皮袋にはっきりと示されていた。


 つまり、だ。

 このまま近くの教会の前に、この腕の中の温もり……レーラをこっそり置いてきて。身軽になった私が、夜の帳が下りた色街の路地裏にでも立てば。


 そうね、有り体に言えば、暗がりで男たちに声をかけるような仕事でも始めれば、この手切れ金を元手に、十分に、それもかなり裕福に生きていける。


「いや元貴族がそんな事するか!」


 思わず、素っ頓狂な声が出た。芯から冷えた空気に、自分の声がやけに大きく響く。


 ハッと我に返り、腕の中のレーラに視線を落とす。幸い、私の声で目を覚ますことはなかったようだ。むしろ、私の腕にぐりぐりと頭を擦り付けてくる。


(……危ない、危ない。レーラを起こさないように、声の大きさには注意しないと)

 ふぅ、と安堵の息を吐く。


 それにしても、たった三秒で立てた将来設計の割には、やけにリアルだったな。あまりの具体性に、自分でも少し引いてしまった。


 もちろん、そんな選択肢は思考のゴミ箱に即座に叩き込む。一秒の躊躇もなく、だ。


 この腕の中の温もりを手放してまで手に入れたい未来なんて、この世のどこにも存在しない。


「それにしても……」

 私はもう一度、皮袋の中の金貨を見つめる。

 あの男たち……ゲルトナーとダリウスは、本気でそう思っていたのかもしれない。


『この程度の金を与えておけば、山猿上がりの女など、娘を捨ててどこぞで身でも売って生きていくだろう』と。


 だとしたら、心底、舐められたものだ。


「いいわ。その見通しの甘さ、後悔させてあげる」


 かつて、私を知る冒険者仲間たちは、私のことをこう呼んだ。『雷霜の剣帝』と。


 雷の如き速さで敵を両断し、その剣筋は触れるもの全てを凍てつかせる。

 ……自分では大袈裟な二つ名だと思っていたし、好きではなかった。ただ、生きるために、必死に剣を振るっていただけだ。功績を誇る趣味もない。


 私は皮袋の口を固く結び、再び懐の奥深くにしまい込む。


 まずは、この荷物をどうにかしないと。幸い、この中には換金できそうな宝飾品だけでなく、私がかつて愛用していた剣も入っているはずだ。

 それさえあれば、道は拓ける。


 私は再び大八車の重い持ち手に手をかけた。


 これから向かうのは、教会の孤児院でも、色街の路地裏でもない。

 もっと私らしく、もっと稼げる場所。

 金と、名声と、そして力が、正当に評価される唯一の場所。


「冒険者ギルド、ね」


 ◆◇◆◇◆◇


 雪道を大八車と共に進むこと、数時間。

 王都の華やかな街並みを抜け、外壁をくぐり、ようやく見えてきたのは、巨大な城壁に囲まれた武骨な都市の姿だった。


 グレンフォルト。


 クライフォルト伯爵領の中でも、最も活気に満ちた場所。


 その理由は単純明快。この都市の背後に、大陸でも有数の規模を誇る大ダンジョン『嘆きの深淵』が口を開けているからだ。

 ダンジョンから湧き出すモンスターから領地を守るための城塞として生まれ、今では富と名声を求める冒険者たちが大陸全土から集まる、一大拠点となっている。


「……着いた」

 息を切らしながら、私は都市の門をくぐった。

 王都とは全く違う、鉄と汗と、そして微かな血の匂いが混じった空気が肺を満たす。


 活気がある、と言えば聞こえはいいが、要は荒くれ者たちの巣窟だ。道の両脇には武具屋や酒場が軒を連ね、屈強な冒険者たちが大声で談笑している。


(ここなら、大丈夫そうね)


 首都の王宮や貴族街での社交活動が主だった私にとって、このグレンフォルトはいわば自領の辺境。伯爵夫人としての私の顔を知る者など、まずいないだろう。


 その見立ては、どうやら正しかったようだ。

 大八車を引き、明らかに場違いな格好の私に投げかけられる視線は好奇の色が強いものの、誰もそれが『前』伯爵夫人だとは気づいていない。


 私はすぐさま街の中心にそびえる、一際大きな建物へと向かった。

 冒険者ギルド、グレンフォルト支部。


 中に入ると、むわりとした熱気と喧噪が私を迎えた。酒と煙草の匂い、武器がぶつかり合う音、男たちの野太い声。ああ、懐かしい。この雰囲気、嫌いじゃない。


 私はレーラを抱き直し、受付カウンターへと進んだ。

「新規登録を、お願いしたいのですが」


 受付の女性職員は、私と、腕の中のレーラを交互に見て、少し怪訝な顔をした。

 まあ、無理もない。子連れの女性が一人で冒険者登録に来るなど、前代未聞だろう。


「……ええと、承知いたしました。こちらの用紙にご記入を」


 差し出された羊皮紙に、私は慣れた手つきでペンを走らせる。


 名前は『ベル』。年齢、十八。特技は剣術。


 かつて、クライフォルト家に嫁ぐ際、私はとある人に命じられて、ギルドに残っていた全ての記録を抹消した。『雷霜の剣帝』としての過去は、伯爵夫人の経歴には不要な傷だと。


 あの時は、夫のためにと納得して従ったが、今となってはありがたい。おかげで、しがらみなく、全くの新人として再出発できる。

(それも面白いか)


 全てを失ったのだ。一からやり直すのも悪くない。


 そう思いながら用紙を提出し、あとは簡単な手続きを待つだけ……のはずだった。


「……え? あ、はい……承知いたしました。すぐに!」


 しかし、私の登録用紙を受け取った受付嬢が、中身に目を通した途端、急に顔色を変えた。彼女は慌てた様子でカウンターの奥にいる別の職員に何事か耳打ちをし、その職員もまた、驚いたように私を一瞥する。


 なんだ? 何か不備でもあっただろうか。


 ざわざわ、と受付周辺が妙にあわただしくなる。他の冒険者たちも何事かとこちらに視線を向け始め、居心地が悪い。


「あの、何か?」

 私が声をかけると、先ほどの受付嬢が緊張した面持ちで戻ってきた。


「も、申し訳ありません、ベル様! ギルドマスターが、至急お会いしたいと……! こちらへどうぞ!」

「……は?」

 ギルドマスター? 私が?


 一体なぜ? 新規登録に来ただけの、どこの馬の骨とも知れない女に、支部のトップが何の用だというのか。

(ここのギルマスって……確か、人の良さそうなお爺さんだったはずだけど……いつの間にか変わったのかしら?)


 冒険者をしていた頃、何度か顔を合わせたことがある。白髭をたくわえた、温厚なドワーフの老人だったはずだ。彼なら、こんな騒ぎにはしないだろう。


「あ、あの、人違いでは……?」

「いえ! 『ベル』様で、お間違いありません! さあ、こちらへ!」


 有無を言わさぬ勢いで、受付嬢に背中を押される。周囲の冒険者たちの好奇の視線が突き刺さり、レーラが不安そうに私の胸にしがみついてきた。


 大丈夫よ、と背中を優しく叩きながら、私はわけがわからないまま、ギルドの奥にある重厚な扉の前へと案内された。


 コンコン、と受付嬢が扉をノックする。


「ギルドマスター、お連れいたしました」

「……入れ」


 扉の向こうから聞こえてきたのは、老人のしゃがれた声ではなかった。

 低く、落ち着いた、どこか懐かしさを感じる、女の声。


(やっぱり、ギルマスが変わってる……)


 面倒なことにならなければいいが、と内心でため息をつきながら、私はゆっくりと、その扉を開いたのだった。

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