2.人心恟恟
「たぶん、牛鬼の声……だったんだと思います」
研吾は、ぽつりと呟く。左頬に保冷剤を当てられて包帯で固定されているが、顔の周りを一周するように巻かれているので、実際の怪我より重傷に見えて痛々しい。
ひとまず怪我の手当ての為立ち寄った病院の待合室の中、長椅子に座って、陽翔と柚希は研吾の話を聞いていた。瑠璃は特に問題はないとのことだったが、眠っているので、寝台に寝かされている。
「牛鬼の声?」
柚希が首を傾げると、研吾は頷いた。
「祭りの日、僕は山本くんと牛鬼の岩を見に行きました。実際に触ってみた時、ビリって電気が走ったように感じたんですが、山本くんは何も感じてないと言っていたから、僕の気のせいくらいに思っていたんですけど、思えばその後から、頭痛がするようになったんです。そして……変な声を聞くようになりました」
「なんて?」
「……"雨宮を殺せ"……そういう声です」
陽翔も柚希も絶句する。
「じゃ、じゃあ……坂っちは、その声に従って瑠璃を襲ったってこと?」
柚希が震える声で尋ねるが、頷きつつも研吾は、少し視線を彷徨わせる。
「……本当にそれだけか?」
陽翔が低い声で問う。
「は、陽翔さん?」
その声音の強さに驚いて柚希は声を掛けるが、陽翔は研吾を見つめて、「声が聞こえて、その通りにしただけか?……他にも何か、言われたんじゃないか?」と更に詰めた。それで研吾はハッとした表情で陽翔を見つめ返した。
「ほ、他にもってなんですか?陽翔さん!」
柚希が縋るように陽翔のほうに身を乗り出すと、陽翔は少し表情を和らげる。
「いや。牛鬼に操られて瑠璃を襲ったにしては、随分とタイミングが遅かったなと思ってさ。だって、頭痛が牛鬼と繋がっているなら、少なくとも先週には、行動を起こしていても不思議じゃない。なんで、今なんだろう?」
「それは……きっと、坂っちも抗っていたから……とか?」
「そうかもしれない。だけど、牛鬼は人の心の弱さにつけ込むと言われているし、もしかしたら何か、交換条件でもあったのかなって思って。頭痛も、もう治まってるみたいだしね」
「たしかに…」
言われて柚希も訝しげに研吾を見つめた。
二人の視線を受け、研吾は更に気不味そうに目を泳がせていたが、やがて観念したように肩を落として俯いた。
「……ごめんなさい……僕は……」
声を震わせて言う研吾は、それきり言葉が続かない。
「いいよ。ゆっくりで。操られてしたことなら、これ以上責めたりしないから…」
陽翔はそっと研吾の肩に手を置いた。
「……雨宮さんと……ぐすっ……話す…勇気が……欲しくて……」
しゃくり上げなから話す研吾の背中を、陽翔は静かに擦る。
「うん。それで?」
「そしたら……頭痛が治ったあとから、急に……話す時に、緊張しなくなって、言いたいことが、ちゃんと言えたんです……」
「もしかして……それで今日、遊びに誘ってくれたの?」
柚希が口をはさむと、研吾は黙って頷いた。
「なるほどね……ひょっとしたら、坂下君の中にいた牛鬼が、坂下君の願望を逆手に取って、こうして遊びに来れたことで君の願いを叶えたと解釈して、体を乗っ取ったのかも……」
「そんなこと、出来るんですか?」
柚希が不安そうに訊くと、陽翔は難しい顔で頷いた。
「伝承に書かれていた牛鬼の話によれば、牛鬼は暴れる前、人の願望や弱みを見抜き、あることないことを話しては混乱させたらしい。牛鬼はそうすることで生まれた怒りや恨みを糧にして、体が大きく、妖力が強くなって、双龍と戦えるまでになったと言われてるんだ」
「じゃあ……やっぱり本当に牛鬼が、復活しちゃったんですか?」
「……だろうね。瑠璃を狙っていたし、間違いないよ。きっと牛鬼は、封印を守ってきた雨宮家が憎いだろうから…」
「そんな…」
「僕は、どうしたら…」
青褪めた顔で研吾は呟く。その肩を軽く叩いて陽翔は笑う。
「叔父さんに頼んで、お祓いしてもらおう。そうしたら君の中の牛鬼はいなくなるだろうし」
「でも、牛鬼が坂っちから追い出されたら、どこかに逃げちゃいますよね?」
「俺も詳しくは知らないんだけど、結界みたいのを張って、どこかに閉じ込めることが出来るんじゃないかと思うんだ」
「なるほど…」
「とりあえず叔父さんに連絡してみるから、坂下君も、親御さんに事情を話してくれる?……たぶん、このまま家に帰ったりしないほうがいいと思う」
「……分かりました」
その後は、研吾の母親や和成、瑠璃の父、柚希の父親まで駆けつけた。柚希は家に帰り、他のメンバーは、神社に行くことになった。
「……確かに、さっきの坂下くんは普通じゃなかったけど……本当に牛鬼が?」
意識を取り戻した瑠璃は、首を擦りながら研吾に目を向けた。研吾は気不味そうに俯いている。
「そうでないと説明がつかないだろ……まさか、本当に牛鬼があの岩に封印されていたなんてな…」
父は青褪めた顔をしている。
「それで、うちの子はお祓いすれば大丈夫なんですよね?」
こちらも青い顔をしている研吾の母親は、和成に縋る。
「はい。問題ないと思います」
「"思います"って……確実では無いということですか!?その牛鬼だかっていう妖怪は、雨宮さんに恨みがあるんでしょう?なんでうちの研吾が巻き添えを食らわないといけないんです!」
「お、落ち着いて下さい。奥さん」
「これが落ち着いていられますか!息子の命が掛かっているんですよ!うちの子は、なんにも関係ないじゃないですか!」
「奥さん。ここは病院の中ですから、あまり大声では――」
「そもそも、お宅がちゃんと管理していないから、封印が解けたんじゃないんですか?神社の神主が聞いて呆れますね!」
和成の言葉を遮って、研吾の母の怒号は続く。
「……いい加減にして下さいよ。うちの妹は、殺されかけてるんですよ」
陽翔の、小さいが強い怒りの籠もった声に、全員の動きが止まる。
「陽翔」
べしっと、父が陽翔の頭を叩く。それで陽翔は「すみません……」と頭を下げた。
「とにかく、まずは神社へ急ぎましょう」
和成が言って、皆はそれぞれの車に乗り込み、神社を目指した。
「ハル兄。助けてくれて、ありがとう」
父の運転する車の中で、瑠璃は隣に座る陽翔に声を掛けた。
「何言ってんだよ。妹を助けるのは当然だろ?……血は繋がってなくても、妹は妹だ」
「うん。……だけど、どうしてあそこにいたの?」
「え〜っと……実は、心配でこっそりついて来てたんだ…」
陽翔は申し訳なさそうに首を竦めた。瑠璃はそれを咎めようかとも思ったが、結果的にそれで命を救われているのだからと思い止まった。
「それにしても、牛鬼が実在して暴れているとなると、いよいよお前達に戦ってもらわなきゃならなくなるのか……」
苦しげに父が呟く。ルームミラー越しに見える父の表情は固い。まるで湧き上がる感情を抑えているかのようだ。
「大丈夫だよ。父さん。きっとなんとかなるって!」
陽翔は明るく言ったが、父の表情は晴れない。
「俺も和成も……ひょっとしたら、親戚中みんなそうかもしれないが、牛鬼なんてものが実在することすら疑っていたから、双龍の神器の継承だって、半ばいい加減だった。確かに龍の夢を見る人は居たから、その人に継がせてきたが……まさか陽翔が夢を見るとは思わなかったし、だからといって継承させないのは、陽翔の秘密がバレることになると思ったから黙っていたが……陽翔じゃ、きっと紅龍の槍は使えんだろう…」
「そう……かもね……じゃあ、なんで俺は夢を見たんだろう?本当に継承出来ないんだったら、あの夢は勘違いだったってことなのかな?」
「分からない……だが、牛鬼が復活した今、神器の力が必要になるのは確かだ……なんとか、封印し直せればいいんだが……」
何となく皆黙り、重苦しい沈黙が広がった。
牛鬼は実在して、雨宮家に恨みを晴らそうとしている――その事実に、瑠璃の心臓は鳴りっぱなしだった。
(このままだと、町は火の海になってしまう……)
ずっと見ていた悪夢が、いよいよ現実味を増して迫ってきた。
(私に、蒼龍の扇は使えるかな…)
意地でも使わなければという使命感と、先程首を絞められた時に感じた死の恐怖によって得た、無条件に逃げ出したくなる本能とが交互に顔を覗かせ、瑠璃の判断を鈍らせる。真夏にも関わらず、寒気を感じて体が震えた。
「大丈夫だよ。瑠璃。瑠璃のことは、俺が守るから…」
瑠璃がなんとか震えを鎮めようと自らの体を擦っていると、陽翔がそう言いながら瑠璃の肩を抱き寄せた。肩越しに伝わる陽翔の体温を感じた瞬間、瑠璃の激しかった心臓の鼓動が落ち着いてきた。
「もちろん。父さんも全力を尽くすぞ。子ども二人にだけ、責任を負わせたりしないからな!」
父もハンドルを握る手に力を込めながら言う。
「…うん」
返事をする声は涙で震えたが、体の震えは止まっていた。
(きっと、なんとかなる…)
多少楽観的でも、そう信じることで力が湧くようだった。
神社に着くと、鳥居の前に緊張した表情の楓が立っていた。
「言われた通りにやっておいたよ」
「ありがとう。後は任せろ」
楓が和成に言い、和成は頷いて労うように楓の肩を叩いた。
「……瑠璃、大丈夫か?」
楓は心配そうに瑠璃に声を掛けた。瑠璃はそれに頷くだけで応えながら、神社の中に足を踏み入れた。
普段は滅多に入らない本殿へと通される。本殿は、普段お参りをする拝殿より奥にあり、ご神体が祀られている。一般人はまず立ち入れないし、瑠璃も陽翔も入ったのは数える程しかない。特別な神事でもない限りは扉も閉ざされている場所だった。
そんな本殿の中、祭壇にはお供え物が置かれ、等間隔に置かれた蝋燭で部屋の灯りとしていた。気のせいかもしれないが、入った瞬間から空気が張り詰めているように感じた。
「ぅううぅう……」
それまで普通そうにしていた研吾が、本殿に足を踏み入れようとした瞬間、頭を抱えて苦しそうに唸り始めた。
「研吾?どうしたの?」
研吾の母が研吾の肩に手を掛けようとすると、研吾はその手を邪険に振り払った。それから急に踵を返して外へ出ようとする。
「捕まえろ!」
和成が叫び、反射的に瑠璃の父と陽翔が反応して研吾を押さえにかかった。
「はなせぇえーっ!!」
研吾は目を血走らせて叫びながら、父と陽翔から逃れようと藻掻く。男二人で押さえているにも関わらず、研吾は二人を引きずりながら徐々に本殿から遠ざかる。
「なんとしても、本殿の中へ!そうすれば結界で動きを封じられるはずだからっ!」
二人に加え和成も研吾を押さえ、なんとか本殿に放り込む。研吾は再び本殿から出ようと立ち上がるがしかし、不自然にその場に立ち尽くした。まるで体が凍ったかのように、微動だにしない。けれど相変わらず目は血走り、唸り声を上げている。
「なんとか結界が効いたようだな…」
和成が額の汗を拭いながら言う。
「け、研吾は……どうなるんです?」
研吾の母が青い顔をして問うと、和成は研吾から目を逸らさずに、「これから祈祷をして、牛鬼を息子さんから引き剥がします」と低い声で答えた。
「兄さんも手伝ってくれ」
「お、俺もか?」
父は目を丸くして自分を指差す。それに和成は頷いて、「やり方は覚えているだろ?」と返した。
「ま、まあ……」
「瑠璃と陽翔は、双龍の舞を頼む」
「わかった!」
「…はい」
瑠璃は自信がなかったが、そんなことを言っている場合ではないと腹を括った。
「はい。これ…」
そこへ楓が槍と扇を持って現れた。それを受け取りながら、瑠璃は陽翔に目を向ける。陽翔も瑠璃を見つめ返し、力強く頷いて見せた。瑠璃も頷き返し、扇を持つ手に力を込めた。
和成と父は、榊の枝に白い紐状の紙を複数つけた大麻と呼ばれる道具を手に持ち、研吾の頭上で左右に揺らす。和成はそうしながら声高に祝詞を唱えた。そしてその外側を囲むように左右に分かれて立っていた陽翔と瑠璃は、祝詞が始まったと同時に、双龍の舞を舞い始めた。この舞は、祭の時の演舞で言うところの後半部分、二人が同時に舞う場面の動きだった。
「グワァアァアあぁあっーー!!」
研吾は、とても人間とは思えない奇声を発しながらもその場に縫い留められているかの如く、動けずにいる。苦しげに頭を掻きむしりながら、和成や父に手を伸ばして、攻撃しようとする。しかし動けないので、届かず仕舞いだ。
「け…研吾……」
本殿の外で様子を見ていた研吾の母は、今にも倒れそうだ。
「大丈夫だよ」
その肩を楓が支えるが、その手は震えていた。
(この状況でよく、舞えるよな…)
真剣な表情で、祭の時と同じく完璧に舞続ける陽翔と瑠璃を見て、楓は感心する。今まで自分も継承者として舞を舞ってみたいと思っていたが、牛鬼が現れている今、そんなお遊び気分では居られない。自分がもし舞う立場だったら、あの二人のように出来る自信がなかった。きっと恐れをなして、神器を落としてしまうだろう。
どれくらい時間が経ったのか、祝詞も舞も何度も繰り返され、再び始めからになったタイミングで動きがあった。研吾が叫ばなくなり、唐突に意識を失って倒れ込んだ。それと強い風が吹き、同時に蝋燭の灯りが一斉に消えた。
「研吾っ!?」
「ま、まだダメだ!」
悲鳴を上げながらすぐに研吾に駆け寄ろうとする研吾の母を、楓が必死に押さえていると、和成の祝詞が止まり、大麻を下ろした。それを合図に、陽翔と瑠璃も舞を止めた。
「たぶん……大丈夫だ」
大きく息を吐くように和成が言うと、父も頷いた。「…そのようだな。しかし――」父はそこで表情を険しくする。
「牛鬼の野郎はどこ行った?」
父の言う通り、辺りは静まり返り、研吾から離れた筈の牛鬼の気配は感じられなかった。
「まさか……まだ中にいるのか?」
「……いや。それは無いだろう。さっきまであった邪気のようなものが見られない」
「じゃあ、どこに行ったんだ?ここは結界の中だぞ」
「……」
これにはさすがの和成も、答えを持たなかった。しかし、待てど暮らせど何も起こらない。
「万が一祓えていなかったことを考え、今日はこちらにお泊りいただいたほうが宜しいでしょう」
和成は研吾の母を振り返る。
「わ、わかりました」
研吾の母は、今にも倒れそうな程に顔色が悪かったが、しっかり頷いた。
その後坂下親子を含め、瑠璃たちも神社に泊まり、和成、父、陽翔の三人は交代で研吾の見張りをしたが、結局その夜は何も起こらなかった。
お読み頂き、ありがとうございます!
いつも、別のメモからコピペして投稿していたのですが、環境依存文字が使われているとエラーが出て焦りましたw何が環境依存文字に当たるのか、しらみ潰しに見ていたら、犯人は"榊"でした……。何気なく変換を押してましたが、よく見ないと駄目ですね。




