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サボテン

作者: 星賀勇一郎






「あんたさ、本、たくさん持ってるじゃん。あれ、面白いの見繕って何冊か持って来てよ」


アクリル板の向こうにいる彼女は少し老けた気がした。

俺は快諾し、コンビニで買ったメモに書き込んだ。

そして他に欲しいモノが無いのか訊いた。


「他にって言われてもさ。また次までに考えておくから」


俺は小さく頷いて微笑んだ。


拘置所の外に出ると、門までの長い並木道を歩き、敷地の外に出た。

拘置所に入る時には携帯電話やタバコ、財布の類の一切を預ける事になり、ポケットの中を空にした状態で入る。

ただ、メモとペンは許してもらえるようだ。


今日は何が欲しいのかわからず、現金を持って彼女に会いに行った。

現金も三万円までしか渡せない様で、十万円入れた封筒から、七万円を抜いて差し入れとして預けた。


帰りに拘置所の職員に本は何冊まで差し入れできるのかを聞いた。


「月に十冊までは大丈夫ですよ……。みんなここに来ると本を読む様になります」


そう言っていた。


拘置所の駐車場で車に乗る前にタバコを吸った。

そろそろ冬を迎える季節で寒い日と暑い日が繰り返される。

今日は晴れてはいるが、比較的冷たい風が吹いていた。


携帯灰皿でタバコを揉み消すと、車に乗りエンジンをかけた。


そのまま彼女に家に向かう。

古い文化アパートで、錆びた郵便受けは支払いが滞っている請求書やチラシの類でいっぱいだった。

車から紙袋を出して、その郵便受けの中のモノを全部放り込んだ。


彼女の部屋に、弁護士から預かった鍵を差し込んで入る。

思ったよりも散らかっておらず、モノも少なかった。

食器も洗ってあり、ゴミも出したばかりだったようだ。


冷蔵庫を開けた。

その中には調味料と缶ビール、梅干しが入っていた。

ボロボロのキッチンの下に置いてあったゴミ袋を出すと、冷蔵庫の中のモノを全部ゴミ袋に入れた。


建付けの悪い窓を開けて風を通す。

そして押入れを開けると、きちんとたたんだ布団だけがあった。


狭い部屋に一つだけ置いてあるタンスの上には、数冊の古びた本と色褪せたぬいぐるみがあり、埃などどこにも見当たらなかった。


「すみませんね……無理言いまして……」


開け放した玄関から男の声がした。

俺に電話してきた大家だった。

頭を下げるとその大家は部屋に入って来た。


「荷物はこれだけですから、すぐに撤去出来るでしょう……」


拘置所にいる人間の荷物を移動させるのは引っ越しではなく撤去。

俺はそれに少し怒りを覚えたが黙って頷いた。


「それと……」


太った大家はケツのポケットから折りたたんだ封筒を出した。


「これ、未払いの家賃の請求書。どうすれば良いのかわからなくて……。とりあえず渡しておきます」


その封筒を受け取った。


「じゃあ、撤去の方、お願いしますね……」


大家は俺の顔も見ずに出て行った。


部屋の隅にあるテレビはアナログのブラウン管テレビで、それに黒い箱が付いている。

アナログ変換して見ていたのだろう。


そのテレビの横にメガネが置いてあった。

そのメガネを小さなテーブルの上に避けた。


拘置所の担当官に、


「飲まれている薬なんがあれば持って来てください」


と言われたのを思い出し、薬を探したが見当たらなかった。


窓際に置かれた小さな植木鉢に目が留まる。

サボテンだった。


そのサボテンの棘に指先で触れた。

意外にその棘は鋭く、指先から真っ赤な血が滲む様に出て来た。

指を口に咥えて止血すると、何もないその部屋に座り、見渡す。


本当に何もない部屋だな……。


窓の外を見ると、荷物の処分を頼んだ業者の車がやって来たところだった。


業者の男が軋む階段を駆け上って来る足音が聞こえた。

その男に挨拶をすると、男も部屋に入り、荷物を見ていた。


「では、全部処分という事で……」


バインダーを手に持って、男は慣れた口調でそう言った。


俺はそれに頷き、テーブルの上に置いたメガネを持って部屋の外に出た。

そしてもう一度振り返る。

少し考えて、タンスの上にあった二冊の古びた本と窓際のサボテンを持って部屋を出た。


この業者の話では亡くなった人の遺品整理と併せて、一人暮らしで犯罪を犯し、住んでいた部屋の強制退去の依頼は増えていると言う。


「珍しい事じゃないですよ……」


男はメモを取りながら微笑んでいた。


部屋のモノが運び出されるまで、文化アパートの下で待つ事にした。

小さなトラックの荷台は部屋から運び出されたモノでいっぱいになって行く。

食器など細々したものはいくつかの段ボールに入れられて運び出されていた。

最後に小さなブラウン管テレビを持って下りてきた男が頭を下げた。


「これで終わりです」


そう言った。

そして俺に紙袋を渡した。


「いくつか廃棄の判断が出来ないモノが出て来ましたのでお渡ししておきます」


その紙袋を開くと中から封筒を取り出した。


「これは宝石関係です。イミテーションかもしれませんが、一応お渡ししておきます」


その男に金を支払い、トラックを見送った。


何も無くなった部屋を見た。

定期的に家具を避けて掃除をしていたのだろうか、埃も少なかった。


「ああ、終わりましたね……」


俺の後ろにさっきの大家が立っていた。


「おお、長く住んでいた割には綺麗ですね。これならすぐにでも次の人を入れれます」


その大家に鍵を渡して軋む階段を下りた。


「あ、滞納している家賃の方、頼みましたよ」


大家は大声で言った。

今ここで払ってやろうと思ったが、記録を残した方が良さそうだったので、弁護士に委ねる事にした。






自宅の近くまで戻り、喫茶店の駐車場に車を入れる。

昼飯を食ってない事もあり、俺は喫茶店のドアを開けた。


「いらっしゃいま……あら、先生……」


喫茶店のマスターの娘、里美が水を持ってカウンターから出て来た。

いつもの席に座ると里美は小声で訊く。


「何処行ってたの……」


俺は彼女を見る事もなく、ちょっとな、とだけ答えると、カレーピラフとアイスコーヒーを注文した。


そしてタバコを咥えて外を見ていた。


「あ、そうだ……」


マスターが慌ててカウンターの中から出て来た。


「先生、一冊頼まれてたんだよ……サインもらっていいかな……」


マスターが棚の上に置いた本を持ってやって来た。

俺は微笑み、上着の内ポケットに挿したペリカンを出し、その本の巻末にサインした。


万年筆なんて使っている小説家も、今はそう多くない。

俺自身もサインをするのに使うくらいで原稿はすべてパソコン。

編集者も手書きの原稿なんて殆ど見ませんと言っていた。

小説で賞を取った時にもらったのがペリカンの万年筆で、それ以来、三本目のペリカンになる。


カレーピラフがテーブルに届く。

少し盛りの良いカレーピラフを俺は口にした。


里美が俺と自分のアイスコーヒーを淹れてやって来た。

そして向かいの椅子に座った。

少しふくれっ面で俺を睨む里美を無視して殆ど一気にカレーピラフを平らげた。


「こんな時間に食べたら夕飯食えないんじゃない」


マスターはカウンターの中でグラスを拭きながら言う。


作家なんてしていると朝も昼も夜も、時計の中の話でしかない。

朝だから起きれる訳ではないし、夜だから眠れる訳ではない。

締め切りに追われる時は一日が四十八時間になる事だってある。


「後で夜食、作りに行くわ……」


里美が小声で言うとカウンターの中に戻って行った。


俺はアイスコーヒーを飲み干すと店を出た。

毎日行く店なので、支払は月末に一括で頼んでいた。

タバコと携帯だけ持ってこの店に来る事も多いので自然にそうなってしまった。


車をガレージに入れるとマンションのエレベーターに乗った。

そしてボタンを押すとゆっくりとドアが閉まる。

手に持った紙袋とサボテンをじっと見つめる。

部屋のある階に着き、エレベーターを降りた。


部屋の鍵を開けると翳った誰もいない部屋の明かりをつけ、テーブルの上にサボテンと紙袋を置いた。


ポケットからタバコとライターを出す。

そして一本咥えると西に落ちる夕陽を見て背伸びをした。


上着を掛けるとクローゼットの扉を閉め、タバコに火をつけた。


人生で一番長い数日を過ごした気がした。


誰かにもらったバカラのグラスを出して氷を入れ、琥珀色の酒を注ぐ。

そしてソファに座るとタバコの灰を灰皿に落とし、酒に口を付けた。

バカラのグラスに窓から差し込む夕陽が光る。

バカラだから光るんじゃない。

グラスなら何でも光る。

そう思うとおかしくなり、鼻で笑って窓の外を見た。


一見何でもない街。

それでもそこでは色々な事が起きている。

そして罪人たちは捕まって、拘留される。

やがて裁判が終わると刑は確定し、刑務所に入れられる。


彼女も同じだった。

裁判が終われば彼女は刑務所に行くことになる。

そして彼女は罪を償う。

しかし、刑務所に入る事で罪を償う事になどなるのだろうか……。

人は人に罰を与え、その罰を受け入れる事でその罪は無かった事になど出来るのだろうか……。


そんな事を、この数日考えていた。


拘置所での彼女は、思ったよりも明るく振舞っていた。

少しそれに助けられたような感覚もあった。

暗く沈んだ彼女を見ていたのなら、今こうして酒を飲んで夕陽を見る気分にはならなかっただろう。


タバコを消すと広いリビングの端に置いた机に座り、パソコンのキーを叩く。

画面はすぐに上がり、数件のメールを見た。

大した内容のメールは無かったが、そのまま机に座り書きかけの原稿を開いた。






どれくらい経ったのだろうか、窓の外はしっかりと暮れ、街の明かりが遠くに煌めいていた。

玄関の鍵が開く音で、原稿から目を離し、顔を上げた。


遅くまで開いているスーパーの袋を両手に持って里美が立っていた。


「仕事してたの……」


里美はその袋を持ったままキッチンに入った。


「ホント、今日は何処行ってたのよ……」


俺は答えずにキーボードを叩いた。


里美は買い物したモノを冷蔵庫に入れて椅子に座る俺の膝の上に座った。

浮気じゃないから安心しろ、と里美に言って、椅子を回してタバコを咥えた。


「ホント……。それなら良いけど……」


里美は俺が咥えたタバコを取り、机の上に叩き付ける様に置く。

そしてキスしてきた。

しかし、里美はすぐに唇を離した。


「何……。お酒飲んでるじゃない……」


そう囁いた。

小さく頷いて里美を立たせた。


「お腹空いてない……。何か作るわ……」


里美はキッチンへと向かう。

そしてテーブルの上に置いた小さなサボテンを見つけた。


「可愛いサボテンね……」


テーブルの傍にしゃがみ込んでそのサボテンを見ている。


俺は机の上のタバコを取り火をつけ、里美の傍に立った。

そして里美にサボテンは「仙人掌」って書く事を教えた。


「仙人の掌ってこんなにトゲトゲしてるの……」


里美は指先でそのサボテンに触れた。

俺が止めるより先に、里美の指はその鋭い棘に刺さり、赤い血が滲み出る。

里美はすぐにその指を引っ込めて口に咥えた。


弱いモノ程鋭い棘を持っていて、その棘を最後の砦として自分を守っている。

それは仙人も人も同じなのかもしれない。


今からビーフシチューを作ると言うので、その間に風呂に入る事にした。

バスタブにお湯を張り、ゆっくりとお湯に浸かる。

この数日、シャワーを浴びて寝る日々を送っていたが、もうそろそろお湯に浸からないと寒く感じるようになって来た。


そしてこうやってお湯に浸かりゆっくりとした時間を持つ事が怖かったのも事実で、色々と考える時間を作らない様にしていた。


そう、彼女が人を刺して以来、何も考えないようにしていた。


浴室のドアをノックする音が聞こえた。

ドアが開くと裸の里美が立っていた。


「私も入る……」


服を脱いでそこに居るのだから、入る気なのはわかる。

俺は、料理はいいのか……、と里美に訊いた。


「圧力鍋で、余熱で煮込んでいるから大丈夫」


と言う。

料理が出来ない俺には想像もつかない事だった。


結局そのまま里美とベッドに入った。

里美の作ったビーフシチューは深夜に温め直して食べる事になった。

それが良かったのか、腹が減ってたのが良かったのか、とても美味く感じた。






翌週も拘置所に来た。

彼女に頼まれた本を数冊と国語辞典、それに原稿用紙を準備して差し入れた。


「検閲がありますので、本人に渡るまで数日かかりますが、国語辞典と原稿用紙はすぐに渡せます」


担当官に、お願いします、とだけ言って頭を下げた。

そして一緒に彼女の部屋にあったメガネを担当官に渡した。


今日も彼女は明るく振舞って現れた。

そして本を差し入れた事を彼女に伝えた。

先週の末にやって来た弁護士に部屋を片付けた事は聞いていたらしく、


「迷惑かけたね……」


と何度も繰り返していた。


本と一緒に国語辞典と原稿用紙を差し入れた事を伝えると彼女は思いの外喜んで、


「あんたを真似て書いてみるか……」


そう言っていた。


来週また来る事を伝えて拘置所を出た。

山の上にある拘置所は既に北風が吹き抜けて肌寒かった。

駐車場から車を出して、一気に山を下りた。


もうそこまで冬が来ている事を感じた。


そうやって毎週、彼女と面会する為に拘置所に通った。


「あんた知ってるかい、ペリカンって伽藍鳥って書くんだよ」


彼女は誇らしそうに言った。

生活に追われてゆっくり本を読む暇もなかったのだろう。

俺は嬉しそうな彼女を見て微笑んだ。


「サボテンはね、仙人掌って書くんだ。知ってたかい」


それは前に里美にも教えた事で知っていた。

それでふと思い出した。

彼女の家にあったサボテンは俺が持っている事を伝えた。


「良かった……。枯れてしまったらかわいそうだと思っていたんだ……。そうかい。捨てられないで良かったよ……」


彼女は本当に嬉しそうだった。


「鉢の表面の土が渇いたら水をやっておくれ……」


彼女はそう言いながら担当官に連れて行かれた。






部屋に戻ると窓際に置いたサボテンの鉢の表面を見て、少し水をやった。

そして上着を脱ぐとクローゼットに掛けてドアを閉めた。

ふとクローゼットの足元に彼女の部屋から持ってきた紙袋がある事に気付いた。

その紙袋を出してテーブルの上に広げる。

大したモノは無く、俺の判断で捨てる事の出来るようなモノだった。

タンスの上に立ててあった古びた二冊の本を手に取った。


ドストエフスキー『罪と罰』


日に焼けて掠れた表紙は、辛うじてそのタイトルが読める程だった。


こんな難しい本を……。


俺はその本を捲る。

今にもページが外れそうな位に読み込まれていた。

もう一冊の本は既にページがバラバラで途中のページも幾つか無くなっていた。


ソファに横になり、その『罪と罰』を読んだ。


そのまま眠ってしまったのか、俺を覗き込む里美の気配で起きた。


「何を読んでるの……」


里美はボロボロの本を俺の胸の上から取った。

ゆっくりと起き上がり、頭を軽く振る。


「ドストエフスキー……。難しい本読んでるわね……。今更って感じだけど……」


里美は、俺が寝ている間に作ったサンドイッチをテーブルの上に置いた。


俺はテーブルの上に広げたモノを紙袋に放り込んだ。

里美に彼女のモノを見せたくなかった。

 





その日、朝方まで原稿を書いていた事もあり、起きると昼を回っていた。


部屋の隅に置いたウォーターサーバーから大き目のグラスに水を注ぎ、一気に飲んだ。


机の上で携帯電話が震えている事に気付く。


弁護士からの電話だった。

俺はその電話に出て、淡々と話す弁護士の言葉を黙って聞いていた。






彼女を訪ねた。

今日は月末という事もあり面会が混んでいた様子で、かなり待たされた。

そしていつもの様に本を数冊担当官に渡し、面会室に入った。


彼女はいつもと変わらない様子で、大袈裟な程に明るく振舞っていた。

そして俺はそれが彼女の本当の姿ではない事も知っていた。


「私の書いた小説、読んでくれたかい」


彼女はそう言う。

しかしその原稿はまだ俺には届いておらず、検閲中なのだろうと彼女に説明した。


「何だよ……。早くプロに見てもらおうと思って必死に書いたのにさ……」


彼女はそう言って机を叩く。

俺は必ず読むと約束した。


いつもと様子が違う。

違うのは彼女ではなく、俺の方だ。







「ステージ4だという事です。本人もかなりの痛みがあるモノだと思います……」


弁護士は淡々と話した。

もう助からないのかと訊くと、


「残念ですが、それは……」


弁護士を責めても仕方ない事だが、やり場のない焦燥感が俺の中で共鳴した。






今から本気で作家目指すのかと、俺は彼女の目を見ずに笑った。


「それも良いじゃないか……。格好良いだろ、生涯で一作しか書かなかった小説家なんてさ」


彼女は笑っていたが、不意に言葉を飲み込む。

俺はそれに気づき、一作だけしか書かないのか。

あんたの人生書くんならいくらでも書けるだろうに……。

と返した。






それならばせめてホスピスに入れてやる事は出来ないのか……。


俺は絞り出す様に言う。


「罪状が殺人未遂ですので……。こればかりは……」


弁護士の淡々とした事務的な返答がたまらなく嫌で、それ以上何も言わなかった。







「私の人生は見せモンじゃないよ。どこかの誰かに伝説の様に語り継がれればそれでいいさ……」


彼女は歯を見せて笑った。

俺も彼女に合わせる様に笑って席を立った。


帰りにその力作、受け取って帰るよと言って、俺はポケットに手を入れた。

そして、いつもの様に、次に来る時に欲しいモンはないかと訊いた。


彼女はゆっくりと立ち上がり、


「ドストエフスキー……」


と静かに言う。


「ドストエフスキーの『罪と罰』を持って来てくれないか……」


小さく震える声で彼女は言った。


俺は小さく何度か頷くとドアを開けた。


帰りに担当官に声をかけ、彼女から預かったモノは無いかと訊いた。


「まだ検閲が終わっていないので来週まで待って下さい」


担当官も弁護士と同じで淡々と事務的にそう言った。

俺は俯いて微笑んだが、急に怒りが込み上げて来た。

そしてその担当官の襟元を掴んだ。


彼女の命の火はもう消えかかっている。

それを知ってて来週まで待てだと……。


心の底から吐き出す様に言った。

驚いて数人の制服の看守が集まって来た。


担当官の襟から手を離し、皺になった制服を掌で直す。

そして取り乱した事を詫びた。


拘置所の外に出て、冷えた並木道を歩く。

鳩尾の奥に何かが詰まっている様な感覚がずっと取れず、深く息を吐いた。


「すみません」


後ろから声が聞こえ、振り返った。


「これです……」


彼女の担当官は大判の封筒に入れた原稿用紙を持って走って来た。


「遅くなり申し訳ありませんでした……」


担当官は頭を下げたまま、頭を上げる事は無かった。

俺は彼の肩をポンポンと叩くと駐車場に向かい歩き出した。






それから数日経ったある日、弁護士からの電話が鳴った。

パソコンに向かい仕事をしていたのだが、何故かその電話を取るのが怖かった。


「先程、拘置所内で亡くなられました……」


弁護士はいつもより低いトーンでそう言った。

弁護士に礼を言うと電話を切った。






『罪と罰』と彼女の好きだったカラーの花束を持って、冷たくなった彼女と会った。

アクリル板を挟まず会うのはもう何年振りだろう。

彼女の胸の上に花束と『罪と罰』をそっと置く。


そのやつれた顔を見つめる。

鼻の奥から熱い涙が込み上げてくるのがわかった。


「お袋……」


何年ぶりに彼女の事をそう呼んだだろうか。

冷たいコンクリートの床に膝を突いて泣いた。

何度も何度も、お袋……、と呟きながら。


末期の癌を患いながら、ある男を刺した。

その男は俺の親父だった。

どんな奴でも刺せば罪になる。

そして罰を受ける。







「新作の件ですが……」


キーボードを叩きながら、もうすぐ完成するからメールで送ると告げて電話を切った。


最後の一行を書き、椅子に寄りかかって息を吐く。


そしてタイトルのページに戻る。


『罪と罰』そんなタイトルにした。

しかし、ふと思い直し、そのタイトルを消した。


『サボテン』


俺はタイトルを書き直して保存した。


著者名のページには俺とお袋の名前が並んでいた。


窓際に置いたお袋の遺骨と遺影。

その前にはサボテンの鉢だけを供えている。

お袋が育てていたサボテンはモンストという品種で育つほどに棘が無くなって行くモノの様だった。


「人生の様なサボテン……か……」


お袋の書いたその一文を、俺は一生忘れないだろう……。








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