もしも翼がなかったら
翼をみせるのは難しい。
目の前ではなひらく無垢な羽根を見ると、俺はいつも、眩しくて身動きが取れなくなる。
「ミカエラ。……それから、ラファエロ。お前たち、人間界に留学する気は無いか?」
幼なじみのミカエラよりも後に名前を呼ばれた時、やっぱりお前もそっち側なのかと、俺は先生に失望した。
俺がどれだけ努力を重ねても、才能のある彼女を守れるほど強い存在にはなれない。
彼女がいる限り、俺は大天使にはなれないんだ。
───それでも。
「人間界に、あたしが……!?」
落胆する俺とは対照的に、人間界への憧れを瞳いっぱいに輝かせるミカエラは、やはりどうしても、大天使にふさわしくて。
「……ミカエラが行くなら、俺も行きます」
楽しそうにヒゲをいじる先生を、真正面からじっと睨む。
羨ましくて愛おしい彼女の願いを叶えるために。
俺を認めてくれない大人たちにやり返すために。
俺は、俺は───
・・・
「まさか、人間界に来て最初にする人助けが、いじめからクラスメートを守ることになるとはな」
人間界生活一日目の昼下がり。
あたしとラファエロは、これから一ヶ月間通うことになっている人間界の小学校で、さっそく天使らしく人助けをしている。
「別にいいじゃん!どんな形であれ、人を助けるのは素敵なことだもん!あたしはようやく天使っぽいことができて幸せだよ?」
「そうか。別に、天使が人間を助けるのは当たり前のことなんだから、幸せも何もないけどな」
この世界では、人間と天使の交流がとても盛んだ。
天使はみんな人を助けるのが大好きで、一人前になると定期的に人間界を訪れ、慈善活動をする。
さらに、特別な試験に合格した天使は「大天使」になることができて、人助けに使える能力が強大になるんだ!
あたしもラファエロも大天使になるのが夢だから、今回留学に来られたのが本当に嬉しいんだけど……。
なんだか、ラファエロはそうじゃないみたい。
昔はあたしと同じで人間が大好きだったのに、彼はいつからか、人を助けるのがあまり好きではなくなってしまった。
ずっと一緒に大天使を目指していたのに、どうして変わっちゃったんだろう?
まあでも、なんだかんだ保健室までついてきてくれてるから、多少は人間を気遣う気持ちはあるのかな?と考えながら、あたしは扉を開けて先生を呼び、少年の傷の手当てをしてもらう。
「じゃあね、駒形くん。最近ケガが多いようだから、気をつけなさいね」
駒形くんというらしい少年は、うつむいたまま返事をしない。いじめのこと、先生に話せばきっと対処してくれると思うんだけど……。
おせっかいするなと突っぱねられてしまうかもしれないし、今は大人しくしておこうと、あたしはむずむずと疼く唇を必死に引き結んでおく。
ラファエロが変わりに先生にお礼を言った後、保健室を出て教室までの道を一緒に歩いていると、駒形くんはやっと口を開いてくれた。
「あの……ありがとうございます、天使さん」
「て、天使さん!?何その呼び方嬉しすぎる!!もう一回呼んでほし……うっ」
いけない、調子に乗ったらまた怒られちゃう。
隣を歩くラファエロからの鋭い視線を感じて、あたしは軽く咳払いして話を本題に戻す。
「ミカエラでいいよ!隣にいる無愛想な銀髪野郎はラファエロね。……それより駒形くん、さっきはなんであいつらにいじめられてたの?」
銀髪野郎という呼び方に動じなかったラファエロが、二言目のセリフを聞いた瞬間思いきり咳き込む。
あれれ?なんか、駒形くんまでちょっと変な顔してるんだけど。あたしなんか良くないこと言った?
「おいお前、いきなりそんな直接的なこと……」
「いや…別にいいよ。二人は恩人だから、僕も素直に話したい」
ラファエロの制止を遮って、駒形くんは力なく笑う。
そして彼は思いのほかあっさりと、あたしたちに事の経緯を話してくれた。
駒形くんの下の名前は、『騎士』と書いて『ないと』と読むらしい。
彼自身は身体が弱く運動も苦手だけれど、名前が強そうだからと、サッカーやドッジボールをする時にいつも矢面に立たされるのだという。
その結果、今回のようにケガをして、その事でまた男子たちにバカにされてしまうのだそうだ。
「来年の春には中学生になるっていうのに、随分子供じみた理由で人をいじめるんだな」
「本当だよ!親につけてもらった大事な名前を馬鹿にするなんて、最低すぎる!同じ人間とは思えない!!」
「いや、お前は人間じゃないだろ」
「あっ、そうだった!」
「あはは………でも、僕が弱いのは本当だし、名前負けって言われたりしても仕方ないと思うな」
弱々しく微笑む彼に、あたしたちはかける言葉を見つけられない。
仕方ないだなんて、そんなこと絶対ないのに。
それに、口では『仕方ない』と言っていても、駒形くんの表情からは、心が傷ついて苦しんでいることがよく伝わってくる。
どうにかして助けてあげたいけど……頭が悪いあたしは、いい解決策を出すことができない。
「うーーーん……とりあえず、駒形くんの名前を馬鹿にしたやつを全員探し出してお説教すればなんとかなるかな?天使ならではの…イゲン?みたいなやつで圧力かけてさ!」
「俺らみたいな子供の天使に威厳なんかあるわけないだろ……。そもそも、いじめっていうのはそんな滅多矢鱈に説得して解決するもんじゃないと思うぞ」
「……メッタ・ヤタラ?って誰?」
「人名じゃなくて四字熟語だ馬鹿野郎!お前どんだけ勉強してないんだよ、そんなんでよく留学に来れたな!?」
「ギャーッ!!殴られた!?ドメスティック・バイオレンスだ!!先生に言いつけてやる!!」
「どうしてお前はそういう言葉ばっかり覚えてるんだ……」
廊下の真ん中でぎゃーぎゃーと口論するするあたしたちを見て、駒形くんはぽかんとしている。
「あっ!ほらラファエロ、あんたがそんなに激しく怒るから駒形くんがびっくりしてるじゃん!」
「いや、元はといえばお前がアホなこと言うからだろうが」
「えっ!?あたしが悪いの!?」
「あの、二人とも落ち着いて……」
駒形くんの控えめな制止の声で、あたしとラファエロは我に返る。
いけないいけない。つい熱くなりすぎちゃった。もう何話してたかも覚えてないや。
まったくもーラファエロは怒りん坊なんだから。彼は怒るとすぐ手が出る。別に本気で殴られるわけじゃないからさほど痛くはないんだけど、そんなに軽率に女の子に手を上げるようじゃ、将来誰とも結婚できないぞ?と思ってしまう。でもたぶんそれを本人に言ったら『余計なお世話だ!』ってまた殴られると思う。DV男じゃん!最悪!ラファエロとは絶対結婚しないようにしよう!とあたしは心の中で固く誓いつつ、とりあえず教室までの道を進んでいく。
そういえば、手当てしてもらったし教室に戻ろーみたいなノリで来ちゃったけど……。人間界のマンガでよく見るみたいに、教室の扉を開けた瞬間にいじめっ子登場とか、そんなこと起こったりしないよね?
恐る恐る、教室の後ろ扉から静かに中に滑り込む。
あいつらが先に教室に戻っていませんように!と祈りながら来てしまった結果、どうやらその思考がフラグになってしまったらしい。
「おい、騎士!お前なんでさっき逃げたんだよ!」
「天使を盾にするなんて卑怯だぞ!」
……うわぁ。本当に出た。
ガキ大将の如く取り巻きを連れて現れた主犯格の少年に、あたしは思わず幽霊でも見たかのような反応をしてしまう。
「……ミカエラ、どうする?」
駒形くんを背に庇っていたラファエロが、小声であたしに訊いてくる。
ど、どうすると言われましても……どうすればいいの!?
経験者とか知識のある人ならすぐ対処できるんだろうけど、ずっと平和な天使国で暮らしてきたあたしに、いじめを解決した経験なんてあるわけがない。
とりあえず、教室に残っている生徒たちに助けを求める視線を送ってみる。
でも、いじめっ子に脅されているのか天使のあたしたちが怖いのか、みんな同じように目を逸らすばかりで、ちっとも助けてはくれない。
どうしよう!?クラスのみんな、もしかしてあたしの想像以上に冷たい人なの!?あたしが天使国で読んだ本と全然違って、どうしたらいいのか分からなくなっちゃうよ〜!!
あたしたちが焦っている間に、いじめっ子達はどんどん駒形くんに詰め寄ってくる。
「おい!無視すんなよ!」
「そうだぞ!勝負はまだ終わってないだろ!」
───勝負。
ちょっぴり物騒なその言葉を聞いた瞬間、もやついていたあたしの脳内は一気にクリアになり、同時に最高のひらめきを得てしまった。
「そうだ!」
「うわっ!?な、なんだよ!」
あたしは主犯格らしき男子に近づいて、顔面に人差し指を突きつける。あ、人に向かって指をさすのは人間界では失礼にあたるんだったっけ?まあいいや、あたしは人間じゃなくて天使だし、そんなルール適用されないよね!
「そこの男子たち!もしあたしたちがその勝負に勝ったら、駒形くんをいじめるのをきっぱりやめてもらえる?」
大声で叫んだあたしに、それまで見て見ぬふりをしていたクラスメートたちもこちらに視線を向けてくる。
勝負に負けるのが原因でいじめられるのなら、勝負に勝ってしまえばいい。
暴論だ……とラファエロは呆れた様子だけれど、手っ取り早く駒形くんをいじめから救うなら、いじめっ子をぶちのめすのが一番早い!
こうして、この日からあたしたちは、ドッジボール勝負に向けて猛特訓をすることになったのだった。
・・・
日曜の午後の公園は、遊びにきた子供たちで賑わっている。
あたしたちは今、公園にいる子供たちに手伝ってもらいながらドッジボールの練習をしていた。
「ひいっ!?何このボール、めっちゃ避けづらい!」
「くそ、速いな……」
「あははっ、おねえさんもおにいさんもへたくそー!」
さすがにドッジボールで小学校低学年の子に負けることなんてないだろうと思っていたけど、この子たち、あたしが思ってたよりずっと強い!?人間の子供って、みんなこんなに器用なの!?
体力や投げる時のパワーはこちらの方が大きいと思うけれど、やっぱり器用さやすばしっこさでは、小さい子どもに勝てないらしい。
これでもあたし、天使国にいた時は運動神経いいって評判だったんだけどなぁ。
「いてて……」
「あっ、駒形くん!どうしたの?」
ちょうどボールを当てられて転んだらしい駒形くんに、あたしは慌てて駆け寄る。
座り込む彼の脚を確認すると、砂だらけになった膝から、じんわりと赤い血が滲んでいる。
「ちょっと擦りむいたみたい……痛くて動かしにくいし、今日はもう、練習できないかも」
「そんな…!」
いじめっ子と勝負をすることが決まった時の駒形くんを思い出す。
最初こそ、勝てっこないと諦めきっていた駒形くんだけど、彼の瞳には『負けたくない』という意思が僅かに宿っていた。
こんな少しの怪我であっさり練習を諦めてしまうなんて、あまりに勿体ない。
「──ねぇ、駒形くん。その傷、治してあげようか?」
「え?」
本当は、人間界では使うなと先生に言われていたけど……あたしはどうしても、駒形くんを助けたい。
ごめんなさい、先生!天使国に戻ってから、罰はきちんと受けます!
あたしは駒形くんのそばにしゃがんで、そっと傷口に手をかざす。
少しだけ力を注いでから手を離すと、彼の傷は綺麗さっぱり癒えていた。
「み、ミカエラさん……!?これは一体…!」
「しーっ……実はあたし、治癒能力を持ってるの。だから大抵の傷は治せちゃうんだ。でも本当は使っちゃダメって言われてるから、今日のことは内緒にしてね」
唇に人差し指を当ててぱちんとウインクを飛ばすと、駒形くんはそれはもうすごい勢いで頷いて、立ち上がって練習に戻っていく。
最初は少し焦りすぎているみたいだったけれど、相手チームに勇敢に立ち向かい、コツを掴もうと必死に動く彼の姿は、まっすぐでとても眩しい。
「なんだ、やればできるじゃん」
休憩ついでに好物のメレンゲクッキーをつまみながら、あたしは試合の行く末を見守る。
間一髪で相手チームのボールを避け、ようやく勝利した駒形くんは、本当に嬉しそうだった。
・・・
「ミカエラ、駒形。準備できたか?」
「もちろん!」
「い、一応!」
練習初日から一週間経った勝負の日。
あたしとラファエロと駒形くんは、校庭に作ったドッジボール用コートで、試合開始を待っていた。
「お、早いじゃん。ダメ騎士のくせに」
後ろから聞こえてきたいじめっ子の大将の声に、駒形くんがびくりと肩を震わせる。
始まる前から人を威圧するなんて、悪質すぎる!
本当にこいつは根っからのいじめっ子なんだなぁと呆れながら、あたしたちは自信をなくし始めた駒形くんを必死に奮い立たせる。
「大丈夫だよ、駒形くん!あたしたち、今日まですっごく頑張ってきたんだから!自分の才能に酔いしれてるだけのあいつらに、負けたりなんかしないよ!」
「その通りだ。お前の努力は無駄になったりしない。だから自信持って頑張ってみろ。俺たちもついてる」
いつもは静観しているラファエロも、少し熱の入ったセリフで駒形くんを応援する。
あたしたちなら勝てる。
ようやく勇気を取り戻したのか、うつむきがちだった駒形くんが、徐々に顔を上げてくれる。
「青春タイムは終わりましたか〜?」
煽ってくる取り巻きを無視して、あたしたちはいじめっ子チームと対峙する。
「じゃあ、ボール投げるぞ!」
「ええ!どっからでもかかってきなさい!」
練習で培った技術で、あたしは向かってくるボールをすんでのところでキャッチする。
その後、駒形くんは器用な動きでボールを避け、腕力のあるラファエロは、投げたボールを次々いじめっ子に的中させ───
「うわぁっ!!」
駒形くんが投げた最後の一球が、しぶとく残っていた大将の脇腹に命中する。
この瞬間、あたしたちの勝ちは確定した。
「勝った!!!」
「勝ったぞ!!!」
「わぁあ!!!」
……あれ?なんだか人の声が多いような。
あたしたち以外の人が喜ぶ声がして、はっとコートの周りを見回してみる。
いつの間にか、プレイヤー以外誰もいなかったこの試合には、何人もの観客がついていた。
「あいつらのこと倒してくれてありがとう!」
「駒形くん、やるじゃん!ボールほとんど避けててびっくりしちゃった!」
コートの隅でぼーっと立ちつくす駒形くんに、何人ものクラスメートが駆け寄っていく。
「え、あ、ありがとう……!」
自分を褒め称えるたくさんの人に囲まれて、駒形くんの表情が、見たことないくらい明るいものになる。
彼はもう、いじめられっ子じゃない。
自分の手で敵を倒した、みんなに慕われる立派なヒーローだ。
「よかったな」
「うん、本当によかった!」
人の輪から少し離れたところで、あたしたちは生まれ変わった駒形くんをそっと見守る。
人はきっかけさえあればいくらでも変われる。
でも、行動を起こさない限りは、絶対に変わることができない。
汗と達成感に満ちあふれた駒形くんの表情に、あたしたちはまたひとつ、学びを得るのだった。
・・・
少し遠くで子供が騒ぐ声が聞こえる。
無事にいじめが解決した後、渡したい物があると駒形くんに言われたあたしは、放課後の公園で彼を待っていた。
人間に何かをプレゼントしてもらうのは初めてだ。わくわくして二十分も早く来てしまったけど、さすがに早すぎたかな?
時計と公園の入り口を交互に見ながら待っていると、なんと駒形くんも十五分前くらいにやってきてびっくりした。
予定より早く会えた嬉しさで、あたしの心拍数はほんの少し上昇する。
「ミカエラさん!ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ!」
本当はちょっと待ったけど、こういう時は「今来たところ」だと言うものだって、人間界の少女漫画に書いてあった。
うまくごまかせたかな?と駒形くんの顔を確認してみると、彼も安堵した表情をしていて、こちらも少し安心する。
「よかった!それじゃあ……はい、これ。いつもありがとう!」
「あ!こちらこそありがとう!」
やった!お待ちかねのプレゼントだ!
近くのベンチに駒形くんと並んで座り、あたしは渡された紙袋の封を開ける。
わくわくしながら中に入っていた袋の中身を見て、あたしは思わず歓声をあげてしまった。
「わぁ……!これって、メレンゲクッキー?」
白やピンク、茶色のころころした塊が、透明な袋の中にたくさん詰められている。
ホイップ形に絞られ、ほんのりとつやめくメレンゲクッキーはとても美味しそうだ。
「うん。ミカエラさんの好物だって聞いたから、姉さんに手伝ってもらって作ったんだ」
「手作りなの!?すごい!食べてもいい?」
「もちろん!」
袋の口を結んでいた金色のリボンを解いて、白いクッキーをひとつ、口に入れる。
サクッと軽い歯触りの後に、優しい甘さがじゅんわりと溶ける。
口の中に広がる甘みが心地よくて、思わず口元が綻んでしまう。
「美味しい!」
「本当!?よかった……」
わざわざ好物のお菓子を手作りしてくれただけでも嬉しいのに、味もこんなに美味しいなんて……駒形くんは本当にいい人だなぁ。
ついぱくぱくとクッキーを食べ進めてしまっていると、隣に座っていた駒形くんが、不意にこちらに向き直った。
「僕……ミカエラさんのおかげで、すごく救われたんだ」
彼の一言で空気が変わる。
糸を張ったような緊張感と、心地よい熱気が身体を包む。
急にどうしたの、とは言えない。きっと駒形くんは、何か大事なことをあたしに伝えようとしている。
「いじめもほとんど解決したし、あのあと、クラスのみんなも味方になってくれて……これからは、安心して学校に通えると思う」
「そ、そうなんだ…!役に立ててよかった!」
爽やかに微笑みかけられて、胸が高鳴る。
なんだろう、なんか、ドキドキする。
すっかり明るくなった彼の表情は、まさしく騎士のように眩しくて、とてもかっこいい。
未知の感情に流されるままに、あたしは駒形くんが次に紡ぐ言葉を待つ。
「それでなんだけど……ミカエラさんが天使国に帰るまででいいから、よかったら、これからも一緒にいてほしいんだ。ミカエラさんといると、すごく元気づけられて、幸せな気持ちになれるから」
「駒形くん……」
どうしよう、嬉しい。
口の中じゃない、もっと心の奥深くが、メレンゲが溶けるみたいに甘くなっていく。
あたしも、伝えたい。同じ気持ちだって伝えたい。
熱っぽい瞳で見つめてくる彼に、あたしもまた、一緒にいたいと返そうとして───次に発せられた言葉に、絶望させられることになった。
「───それに、ミカエラさんがいれば、またいじめられても守ってもらえるし、怪我を治してもらうことだって………」
…………あぁ、なんだ。
そういうことだったんだ。
口の中に残るメレンゲの欠片を、強かに噛み潰す。
近くを通った車の排気ガスを後味に据えたまま、あたしは乱暴にそれを味わう。
味わう、けど、味わえない。
味が、分からない。
駒形くんの気持ちは、純粋な好意じゃない。
彼は、あたしを利用しようとしているんだ。
今までどうして気づかなかったんだろう。
ついさっき覗き見た彼の瞳には、好意よりもグロテスクで貪欲な思いが、ぎちぎちと詰め込まれている。
「ミカエラさん?どうかした?」
不思議そうにこちらを見つめてくる駒形くんに、少し引きつった笑みを返す。
「なんでもないよ」
嘘だ。
ねぇ、ラファエロ。あたし、これからどうしたらいい?
あんなに甘酸っぱかった恋が、今はもう、こんなに苦い。
・・・
「…あの、さ。ラファエロ。もし、あたしが人間になりたいって言ったらどうする?」
帰宅途中、川沿いの道を歩きながら何気なく問いかけてみると、ラファエロはなぜか、立ち止まってあたしを睨んできた。
「……人間になりたいのか?」
こちらの考えを見透かすように、ラファエロは青い瞳をまっすぐこちらに向けてくる。
ラファエロが持つのは、人の心を読む力だ。
彼は既にこの一瞬で、あたしと駒形くんの間に何があったのか知ったのだろう。
話す手間が省けて助かった。でも、本当は話したくない奥深くの感情まで読まれてしまっていると思うと、なんだか複雑な気持ちになる。
「……なりたいに決まってるよ」
もう知られているだろうあたしの本音を、丁寧に自分の言葉にしてラファエロに伝える。
もしあたしが天使じゃなかったら、きっと人間に利用されることなく、対等に仲良くできたはずなのに。
もしそうだったら、あたしは人間に裏切られて、こんなに傷つくことはなかったのに。
何を考えているのか分からない表情のまま、ラファエロは黙ってあたしの話を聞いている。
だから、彼はあたしの気持ちを分かってくれていると、そう思っていたのに。
「あのね、天使は必要な手続きを踏んで、輪っかと羽を手放せば、人間同然の存在になれるんでしょ?あたし、留学が終わったら、この手続きを受けに行こうと思うの」
このセリフを皮切りに、ラファエロは初めて激昂した。
「俺は認めない!!」
肩が震える。
あたしを否定するラファエロの声は今まで聞いたことないくらい冷たい。
「どうせ冗談半分だろうと思って黙って聞いてたのに、本気なのか!?あれだけ大天使になりたいって言ってたのに、なんで今になってそんなこと言うんだよ!お前は、大天使にならなきゃいけないのに!」
……どうして?
どうしていきなり、そんな身勝手なこと言うの?
あたしの気持ち、分かって話を聞いていたんじゃないの?
「……ラファエロには分かんないよ」
怒りと失望がない交ぜになって、心の中で渦を巻く。
握りしめたスカートに、ぎゅっとしわが寄る。
あたしはそのまま、やり場の無い感情を声にのせてラファエロにぶつけてしまった。
「ずっと大好きで信じてた人間に裏切られた気持ちなんて、人間を信じたことのないラファエロに分かるわけないよ!!」
「おい、ミカエラ!!」
バカみたいだ。
ラファエロなら分かってくれると思ったあたしがバカだった。
受け入れてくれると思ったのに、まさか怒られるなんて思わなかった。
追いかけてくる足音を無視して、あたしは川沿いの細い砂利道を走り続ける。
どうして大天使にならなきゃいけないなんて言うの?
それはあたしとラファエロの夢なんじゃないの?
大切な夢なのに、あたしに義務を押し付けるみたいに言わないでよ。
考えれば考えるほど悲しくなってくる。
独りで考える時間が欲しくて、あたしはアパートにある自分の部屋まで全力で走る。
もう知らない!
ラファエロのことなんて信じるんじゃなかった!
彼の前から去ることで頭がいっぱいなあたしは、ついに赤信号を無視して、横断歩道に足を踏み入れる。
いけると思った。
渡れる、と思ったのに。
真横で動き出した車に、あたしの身体はいとも容易く支配されてしまった。
「ミカエラーーーっっ!!」
ラファエロの叫び声が、閑静な住宅街に大きく轟く。
……あ、だめだ、これ。間に合わないやつだ。
硬い車体が身体に当たる。身動きが取れない。
自動的で自由な力がずっとあたしに働いている。
荷物を運ぶかのように、身体が横に押し出される。
不思議なことに、こんなどうでもいいことを考える時間はあった。
あたしの頭の回転が速くなったのか、時間の流れが遅くなったのか知らないけど、身体は動かないのに頭だけは動く。
あぁ、ああどうしよう。時間はあるのに考えがまとまらない。
とりあえずごめんねラファエロ。幼なじみがこんな異国の地で死ぬなんて最悪すぎるよね。
最後の最後で喧嘩しちゃってごめん。
なんだかんだずっと隣で支えてくれてありがとう。
あたしのお墓はちゃんと天使国に建ててね。
それから駒形くん。君の気持ちに応えられなくてごめんなさい。
利用されてるって分かっても、あたしは苦しんでいる君を助けられたことが嬉しかったよ。
あたしを必要としてくれる君が大好きだったよ。
空中に投げ出されたあたしの身体に、それでもまだラファエロの手が伸びる。
もういいよラファエロ、あんたそういうの得意じゃないでしょ、と呆れて笑いそうになった時。
最後の最後で生まれた衝撃波は、あたしではなく車の方を弾き飛ばした。
「……え?」
視界が銀色に光る。懐かしい気配を纏った神聖な力が、結界になって身体を包む。
一体何が起きたのか、理解が追いつかない。
困惑している間に拙い結界は呆気なく破れ、あたしはまた道路に放り出される。
「ラファエロ……?」
「立て、ミカエラ」
手も尻も地面につけたままの、仮にも車にはねられたばかりのあたしに、ラファエロは辛辣な一言を浴びせる。
「立て!!何のためにいまお前を助けたと思ってるんだ!!俺と違って、お前は未来の大天使だろ!!」
───何、それ。
俺と違って、って何?
あたしたちは、一緒に大天使を目指してたんじゃないの?
問いかけるために、あたしは立ち上がる。
衝撃に気圧されたままの身体で、のろのろとラファエロに近づく。
けれど、無事に歩道に戻る前に、彼はあたしを拒むようにもう一度叫ぶ。
「お前はもう先生に認められてる!!先生より上の存在にも!!だから俺と違って努力しなくても大天使になれるんだよ!!」
「ラ、ファエロ……?」
「なのに、人間になりたいって、なんなんだよ、それ……。俺に無いものを、俺がずっと欲しかったものを全部投げ捨ててまで、お前はこんな世界にいたいっていうのか!?」
足が止まる。思考も止まる。ただ驚きと困惑だけが、あたしの胸を埋めつくしていく。
なんで?どうして?
あたしが、大天使になれる?どうして?仮にそれが本当だとして、どうしてラファエロはそれを知ってるの?
訊きたいことがたくさんあるのに、言葉がうまく出てこない。
戸惑うあたしを置き去りに、ラファエロは一人で結論を出してしまう。
「お前がその気なら、俺はもう味方しない」
待って、の一言すら言えなかった。
飛び去っていく彼の背の翼は、何故か真っ黒に染まって見えた。
・・・
土曜日になった。
あたしの身体は土を詰め込まれたみたいに重く、目が覚めて数時間経ってもなお、布団から出ることができない。
……ううん。本当は、一番重いのはきっと、身体じゃない。
駒形くんの本心を知ったことと、昨日ラファエロに言われた言葉がずっと引っかかってるせいで、何もする気が起きないんだ。
天使国を発つ前に渡されたスマートフォンを開いてみる。
電話帳の中には、天使国でお世話になっている先生の番号もある。
ラファエロは『お前は先生に認められている』とかって言ってたけど、それがどういうことなのか、先生本人に訊いたら答えてくれるのかな。
でも、まだ人間界にいるのにいきなり電話して、トラブルでも起きたのかと先生を心配させたくない。
迷った末にあたしは通話アプリを閉じると、通知が溜まっているチャットアプリの方を確認した。
クラスのグループチャットが随分賑わっているけど、何かあったのかな?
念の為確認しておかなきゃとトークルームを開くと、一番目に表示されたメッセージを見て、あたしは思わず固まってしまった。
『駒形が昨日の夕方から行方不明なんだけど、誰か見かけた人いませんか?』
駒形くんが行方不明。
心臓が凍るような恐ろしい文字列を理解すると同時に、あたしはラファエロが何かしたんだと察する。
あぁ、なんでだろ。なんで分かっちゃうんだろ。
あたしにもラファエロみたいなすごい洞察力が開花しちゃったのかな。
不安と焦燥を誤魔化すように、あたしは内心で無理やりふざけながら、急いでラファエロに会いにいく。
「ラファエロ!!」
鍵はかかっていなかった。
あたしは堂々と隣の部屋の扉を開け、彼の名前を呼ぶ。
中に入って住人の姿を探すと、あたしの予想と違って、ラファエロは呑気に昼食をとっていた。
急に現れたあたしを平気で無視する彼の姿に、腹が立って仕方がない。
「ラファエロ。あんた、駒形くんに何をしたの?」
「……もう気づいたのか」
「『もう気づいたのか』じゃないよ!さっきクラスのグループチャットのメッセージ見て、駒形くんが行方不明だって書いてあって!あんたが何かしたんでしょ!?答えなさいよ!!」
詰め寄るあたしに見向きもせずに、彼は平然とサンドイッチを口に運ぶ。
まるで、駒形くんを傷つけたことも、あたしを怒らせたことも、何もかもどうでもいいと思っているみたいだ。
その態度に更に苛立ちが増す。
「ねぇ、ラファエロ!!無視しないで!!天使が人間に危害を加えるのはご法度だって知ってるよね!?何をしたのか知らないけど、今あんたの身体には何かしらの悪い影響が出てるはず!あたしはあんたを心配して言ってるんだよ!!」
もう我慢ができなくなったあたしは、ついにラファエロの肩を掴み、無理やりにこちらを向かせた。
そして、気づいた。彼があたしに顔を見せてくれなかったのは──
「なに、これ………」
おびただしい数の恐ろしい文様が、ラファエロの顔の半分以上を覆い尽くしている。
思わず息を飲むあたしを見て、ラファエロは苦しそうに笑った。
「天罰だよ。俺、もうすぐ死ぬみたいだ」
その言葉を聞いた瞬間、あたしは、心臓を抜き取られるようなひどい感覚に襲われた。
「なんで、どうして……?自分の命を捨ててまで、ラファエロは駒形くんを傷つけたかったの?」
意味が分からない。あれほどあたしを支えて、ずっとそばにいてくれたラファエロが、どうして守るべき人間だけでなく、あたしの心までも傷つけるようなことをするの?
「……お前は、天使国にどうしても必要な存在なんだ。お前が大天使にならなかったら、他になれる奴がいないんだよ」
「どうしてそんなこと言うの!?あたしが大天使にならなくても、ラファエロがなればいいじゃん!!」
「前に先生たちの会話を聞いたんだ。次の大天使はミカエラで決まりだって言ってたんだよ」
「そんなの先生たちが決めることじゃないよ!!あたしの未来はあたしが決める!それでいいんじゃないの!?」
「だめなんだよ!!」
今まで聞いたことがないくらい大きな声で怒鳴られて、思わず体がすくむ。
こうして話している間にも、ラファエロの身体は天罰に蝕まれていく。
身体中が痛くて仕方ないだろうに。それでも彼は、話すことをやめない。
「頼むからわかってくれ……。お前がいる限り、俺は大天使にはなれない。だから俺の代わりに大天使になって、俺ができなかった分まで世界を救ってくれよ……」
悲痛な声色で絞り出された彼の願いを聞いて、ほんの少しだけ心が揺らぐ。
でも、あたしが大天使になる代わりにラファエロが死ぬなんて、そんなの絶対に認められない。
「……ごめん、ラファエロ。その願いは叶えられない」
ラファエロの表情が絶望に染まる。
けれど、そんな彼にまとわりつく闇を祓うように、あたしは彼の顔を両手で包み込んだ。
「──でもね、あんたを大天使にすることはできるよ」
「……は?」
驚きに見開かれた目を見つめ返しながら、あたしは優しく微笑みかける。
「あたしが治癒能力を持ってることは当然知ってるよね?実はこれ、禁じられた呪いとか血脈に刻まれた術とか、そういう得体のしれないものを自分に移すこともできちゃうの。昔、先生が言ってたんだ」
「おい、まさか……!」
何をしようとしているのか察したらしいラファエロが、すぐにあたしから逃げようとする。
それに構わず、あたしは彼をぎゅっと抱き締めて身動きを封じた。
「大丈夫。ちゃんと助けるから。だからちょっとだけ、我慢してて」
返事は聞かなかった。
あたしはラファエロの頬に手を当て、自分の力をありったけ注ぎ込む。
古びたアパートの和室にそぐわない神秘的な光が、彼を中心に眩しく広がる。
ラファエロの身体に刻まれていた文様はどんどん消えていき、代わりにあたしの身体は灼けるように熱くなる。
息をすることすらままならなくなるほどの激痛の中、急速に死へと近づいていくあたしに届いたのは、彼の謝る声だけだった。
こちらこそごめんね、ラファエロ。
でも、大切な幼なじみに死んで欲しくない気持ちは、あたしだってあんたと同じくらい強いんだよ。
あたしはもう大天使になりたくない。
だけど、ラファエロは大天使になりたい。
でも、あたしが天使でいる限り、あんたが大天使になれないって言うなら、あたしは喜んで天使の身分を捨てるよ。
「ミカ、エラ……!やめろ……!!」
まだ、まだ。ラファエロの身体の文様は、消え切ってない。
残った力を振り絞って、あたしは全ての罰を代わりに引き受ける。
もう、何も見えない。聞こえない。
頭も身体も、空中を泳いでいるみたいにふわふわしている。
なのに、心は不思議と冷静で、満たされた気持ちだ。
暗闇に沈む意識の中、実在するかも分からない存在に、あたしは最期の願いを告げる。
ねぇ、神様。
あたし、生まれ変わったら、人間になりたいな。
人間になって、大天使になったラファエロに会いたいなぁ。
・・・
「──じゃあ、明日は手提げ袋を忘れずに持ってくるように。さようなら」
帰りの挨拶を終えると、元気な小学生たちは一瞬で散り散りになった。
ミカエラが俺の代わりに死んだあの日から、早くも十年以上もの月日が流れた。
あの日、俺はすぐに天使国に呼び戻され、人間に危害を加えた罪で禁錮刑に処された。
本来なら終身刑になるところだが、俺を大天使にするために自らを犠牲にしたミカエラの遺志を汲んで、出所後に天使国のアカデミーに通い直すことまで許してもらえた。
刑期もさほど長くはなく、ほぼ無罪放免も同然だったと思う。ミカエラは本当に、国の上層部の奴らにも気に入られていたんだ。
卒業後に試験を受け、無事大天使にもなれたけど、大好きな彼女を失って得た地位なんて、持っていても嬉しくなくて。
結局俺は、視察という名目で何年も人間界に居座り、今は小学校の教師として働いている。
「ラファエロ先生!」
「……あぁ、ミカさん。まだ何か話でも?」
「うん!先生にまた天使のお話してもらいたくて!」
「またそれか……」
以前俺はこの学校で、天使と天使国についての特別授業をしたことがある。
本当は天使国の話なんてしたくなかったのに。
どうしてもと頼まれたから仕方なくやったものの、授業の後に、俺に話を聞きに来る生徒が増えてしまったのだ。
中でも一番しつこいのが、いま目の前にいるミカという少女なんだが。
「ねぇ先生、お願い!あたし、天使になるのが夢なの!将来の夢に関わることについて訊いてるんだから、教えてくれたっていいでしょ?」
彼女はミカエラによく似ている。名前も、外見も、性格も。
似ているというか、ほぼ同一人物と言えるくらいだから、おそらくミカエラの生まれ変わりなのだと思う。
「……人間は天使になれない」
「知ってる!でも生まれ変わったら天使になれるかもしれないじゃん!だから前世のうちから勉強しておきたいんだよ〜!」
「……」
「ちょっと先生!無視しないでください!!」
天使の時は人間になりたいと言い、人間になったら天使になりたいといい……まったくこいつはないものねだりだなと、呆れて言葉が出てこなくなる。
いい加減諦めさせたい。
ミカエラは天使として生まれたせいで命を落としたのに。
それを忘れてまた天使を夢見るなんて、事情を知っている俺は見ていて胸が苦しい。
本来、教師として生徒にこんな話をすべきではないけれど…今はそんな関係性なんて気にしていられない。
ほんの少し躊躇ったのち、結局俺は仕方なく、彼女にミカエラの話をすることにした。
「…………要するに、彼女は信じていた人間に裏切られて絶望し、天使をやめて人間になるために、自ら命を絶ったんだ」
「……」
「最悪な結末だろ。この通り、天使としての生活は、君が思うようないいものじゃない。もう天使になりたいなんて思わない方がいいぞ」
少女は何も言わない。やはり、小学生の女の子にとっては残酷すぎる話だったか。
現実を知った方が、彼女も諦めがつくだろうと思うけれど。
黙ってうつむく少女を教卓の前に残したまま、俺は教室を後にする。
さっさと職員室に戻って帰り支度をしようと歩き出した時、俺は背後から聞こえてきた台詞に瞠目した。
「……ねぇ、ラファエロ。あんたはそれが、本当に『最悪な結末』だったと思ってるの?」
「……え?」
聞き慣れた、いや、でも随分久しぶりに聞く話し方に驚いて、俺はすぐさま、少女がいた方を振り返る。
彼女の気配がどんどん懐かしいものになっていくのを感じて、俺は思わず、ずっと口に出してこなかった名前を呼んでしまった。
「───ミカエラ……?」
隠していた翼が、力を制御できなくなった俺の背からぶわりと広がる。
メレンゲみたいに白い羽根が飛び散って、彼女の髪や肌にまとわりつく。
「──大天使になってくれてありがとう、ラファエロ!」
窓から射し込む濃い夕陽の中。
涙で濡れた頬に羽根をくっつけたまま、生まれ変わった最愛の人が笑う。
その笑顔を見た瞬間、俺はさも当然かのように、両腕と両翼で彼女を抱き締めていた。
「わわ!?もー、ラファエロ。こんなところで女子生徒に抱きついたりなんかしてたら、わいせつ罪でクビになっちゃうよ?」
珍しく的確なミカエラの忠告を無視して、俺は人のいない廊下で彼女を抱きしめ続ける。
下校時間を過ぎていてよかった。今なら、教師も生徒も、誰もこの廊下を通らない。
どれだけ身をよじっても離してくれない俺に抵抗する気がなくなったのか、ミカエラは小さな腕で、俺をきゅっと抱きしめ返してくれる。
彼女のぬくもりは、人間に生まれ変わっても何も変わらない。
相変わらず砂糖菓子のように甘くて、泡立てた卵白みたいに柔らかくて、ただただあたたかい。
「ねぇ、ラファエロ。あたし、大天使になったあんたに守ってもらうのが夢だったの」
羽毛が落ちる。
「これからは、人間と天使として……あたしのこと、そばで支えてくれる?」
人間になった今のミカエラには、もう何の力もない。
俺だけが天使のまま再会できた今なら、その夢を叶えることができる。
「ああ──今度はずっと一緒にいる。絶対にお前を残して死のうとしないって、約束するよ」
だからお前も、俺をおいて逝かないでくれ。
絶対に叶わない願いを心の中で告げて、俺はミカエラから身体を離す。
「うん!約束だよ!?破ったら針千本飲ませるからね!!」
「それ、大天使の俺でも死にそうな罰だな」
「大丈夫大丈夫、あたしの治癒能力で全部治せるから!」
「いや、今のお前は人間なんだから治癒能力は使えないだろ」
「あっ!そうだった!!」
生まれ変わってもなお、変わらない笑顔を見せてくれるミカエラが眩しくて、一瞬胸が痛む。
あぁ、神様。
どうしてあなたは、ミカエラを人間に生まれ変わらせたんだ?
これじゃあ俺はまた、大好きな彼女の死を見届けなくちゃいけなくなるじゃないか。
実在するかもわからない存在に、心の中で恨み言を吐く。
今のミカエラは人間だが、まだ十歳だ。生きられる時間はたくさん残っているけれど、俺は……天使は、長生きな種族だ。俺が生きているうちに、その時はいつか、必ずやってくるだろう。
「ねぇ、ラファエロ。こうしてまた出逢えたのに、あんたはまだ、あたしの前世が最悪な結末だったなんて思うの?」
思うに決まってるだろ。
また俺より先にお前が死ぬって決まってるんだから。
そう言いたい気持ちをぐっとこらえて、俺は静かに首を横に振る。
俺もあの時、ミカエラと一緒に羽と輪っかを手放せばよかった。そうすれば、共に人間として生き、人間として死ぬことができただろうに。
でも、ミカエラの望みは、大天使になった俺のそばにいることだ。俺が人間になってしまったら、それは叶わなくなってしまう。
互いの望みはすれ違う。すれ違っても、それでも、そばにいたい。
「……最悪で、最高な結末だよ」
なにそれ、と言ったあと、ミカエラは甲高い声でけらけらと笑う。
彼女の幼げな笑い声のように、胸の奥で行き場なく彷徨う願いのように。
真っ白な羽根は、何色にも染められることなく、ずっと俺たちに降り注いでいた。
最後までお読みいただきありがとうございました。




